新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

結局は人の問題ではないか

2016-01-12 17:38:19 | コラム
アベノミクスの何本かの矢には具体策がないと言うが:

果たしてそうなのだろうか?アベノミクスが今日までの効果は認めても「ここまで来ると各矢には具体策が見えない」との批判を良く専門家やエコノミストや野党の論客が指摘するのを聞くことがある。1990年から現職にある身でありながら、ペンネームで業界の専門誌に評論を寄稿し、リタイヤー後はラジオのコメンテーター業を12年も務めた等、ジャーナリストの片隅に片足を爪先だけでも突っ込んできた者として、その「矢」について少し論じてみようと考えた。

私の1990年から変わらぬ持論は「業界の評論は、国全体の景気の動静を論じるのは、現場にあってその流れを身を以て感じ取っている者の論じることを尊重すべきだとは思うが、遺憾ながら現場にいる者にはそこまでの時間的・精神的な余裕もなく、且つまたそのような報告をする仕事に不慣れである場合が多いのが残念だ。そこで、識者の方々は現職の連中との接触を可能な限り維持してからもの申して貰いたいもの」だった。そして、94年までは現場の感覚で、それ以降2000年までは"adviser"的な感覚で書き続けてきた。

先ずは「現場の感覚」とは如何なることかを述べてみよう。私は1972年からアメリカの製品を世界でこれほど細かく且つ厳密に注文を付けて細部を忽せにせずに「クレームまでをつけてくる」我が国向けに輸出する仕事をしてきた。その難しさを端的に言えば「仮令、如何に円高になっても、著名な識者が論じられるほど対日輸出が伸びるとは限らないのだ」ということ。そこにあるものは「諸外国、就中アメリカの輸出企業対我が国で輸入代行の窓口となる商社等との関係、その商社と中間にある加工等の需要家との関係、その需要家と小売り業者の勢力図、小売業者と最終消費者の信頼関係、さらには海外の製造家対加工業者間の直接の信頼関係、最終消費者の海外ブランドに対する信頼関係等が十重二十重に入り組んでおり、その信頼関係が何処かで崩れれば、海外のメーカーが築き上げたと思い込んでいた関係などは一瞬の間に砂上の楼閣と化す危険性をはらんでいるのだ。

解って頂きやすそうな例を挙げてみれば「あれほど我が国の外食産業市場で確固たる地盤を築き上げていたと思わせていたMcDonald’sが、あれほどあっさりと赤字に転落するほど、最終消費者との信頼関係を維持するのは難しいものなのである。私はマックがあれほど瓦解した陰に「人対人」や「会社対会社」や「異文化との相違」等の理解不足で信頼関係が損なわれたとは思っていない。我が国の食文化にある世界で最も顕著な「潔癖感」と「清潔さの尊重」を見損なっていたと思っている。もし「人」が関係していたとすればあの社長の遅きに失した謝罪会見であり、そこには我が国の「謝罪の文化」をご存じでなかった勉強不足もあったと思ってみていた。

私が強調したいことは上記の各段階における信頼関係は勿論「企業の規模や知名度」によるものが大いにあるとは思う。だが、そこには感情の動物である各段階の会社の担当者間の信頼関係、または人間関係が大いに与って力があると経験上も言いたいのだ。「人対人」である以上、「あの会社のあの人物が担当するのならば新規口座の開設も辞さない」であるとか「取引先をそのまま持って転職していった例」などは実際に見たし経験もしてきた。そこには「ただ単に為替レートが円高に振れた」とか「世界有数のメーカーであるから」等という以外の「人柄」や長年の人間関係が決める要素があるのではないかと言いたいのだ。

「人」の問題も重要な要素だが、私は嘗て故本田宗一郎氏が指摘した「統計には頼らない。統計は過去の傾向を示すが未来を確実に示すものではない」を至言だと思って聞いたし、実際に仕事の場では屡々統計を引用して所謂「セールストーク」に使った。だが、これは謂わば目くらましで「数字が淀みなく出てくるような者が言うことは信頼しても良い」と思って頂くための手段だった。そして、そのためには関連業界のものまで極力統計を記憶するようにはしていた。即ち、統計に依存するのは最上の手段ではないという主張だ。

ここで少し話題を変えるが、ある国立大学を優秀な成績で終えた銀行マンがいた。彼は年数を経て地位が上がるに従って「世間の事情に疎いのではないか」と高校までの仲間が懸念するようになってきた。そこで、その仲間の一人が「君は何故そこまで世間に暗いのか」と率直に尋ねた。彼は暫し沈黙して考え込んだ。答えは「思うに我々は常に統計等の数字ばかりに注目してきたし、融資の依頼があれば言わば床柱を背負って書類を審査して相手を見下すような形で接してきた。その結果で、知らず知らずのうちに現実の世界から遊離してしまったのかも知れない」という驚くほど謙虚で率直なものだった。恐らく仲間内だから出た言葉だったのだろう。

私はもう少し厳しく言いたのだ。それは銀行というか金融・証券関係の方々は実際にフィールドに出て球を投げたり蹴ったり、受け捕ったりする実務に従事してきたのではなく、ドロドロした人間関係や会社間の優劣や規模の大小や、品質問題に如何に速やかに誠意を以て当たってきたか等が「決定的な判断の要素となる」世界で過ごしてきた訳ではないのではないかと思っていた。150 kmの速球は容易に打てないと思うのは理論的には正しいだろうが、投げ損なえば長打を喫することだって屡々あるのだ。投手にしたところで「この打者は苦手だ」といったような得手不得手がある。これは換言すれば「人間関係」だ。

この考え方を引き延ばしていけば「我が国で最も学業成績優秀であるはずの者を集めたはずの中央官庁の官僚と雖も、実際にドロドロした人間関係や会社のブランドと規模がものをいうような世界で、中小業者であるがために臍を噛んだ経験がおありでないと思う。大所高所から物事を見ておられた優位性の上に立って、その頭脳を活かしてこられた訳で、人情の機微に何処まで触れてこられたのかは私には疑問の余地が残るのだ。

何を言いたかったのかと言えば「万人の胸にグサッとくるような具体策を打ち出そうにも、その具体策をともに検討するであろう議員さん方はもっと世間から遊離しておられるのではないかと危惧すると指摘したいのだ。また、ずっと主張し続けてきたように、その「矢」を具体化するべき立場にいる経営担当者たちの質の劣化が見えるので「具体性に乏しい」等という他人のせいにするような言辞を弄するのではないのか。具体的にする責任者は経営者たちに他ならないと私は考えている。安倍総理が会社を運営しておられる訳ではあるまい。その方針を拳拳服膺するのは経営担当者である。


コメントを投稿