LA Dodgers対Chicago Cubsの野球の番外編:
19日の試合開始前のアメリカ国歌の斉唱を、Little Glee Monsterなる女性のコーラスグループが担当した。前夜にはLAに住んでいるとかのヨシキなるピアニストソロだったのは主催者の好みだったのかしれないが、私は感興を削がれる思いだったし「誰か本格的な発声ができる歌手に歌って欲しかった」と嘆いていた。
実は、彼女らが整列しているのを見て「この人たちで大丈夫かな?」と心配になっていた。と言うのも「歌詞が難しい英語であり、かなり歌いにくいのだと承知していたし、発音が上手くできるのか」という事。だが、かなり正確な発音であの難しい国家を歌いこなしていたのを聴くと、不覚にも懐かしさで危うく落涙しそうになったのだ。
と言うのは、在職中には何度も現地でフットボールやベイスボールやバスケットボールのプロと大学生(NCAA)の試合開始前に国歌斉唱がありあの“Oh can you see ~“で始まる国歌を聴いていたので、当時は(1972年から1993年まで)我が国の国歌よりも聴く頻度が高くなっていたのだった。
そこで、満員の観客たち、即ちアメリカ国民たちが、本当に楽しそうに声高らかに自分たちの国歌を歌うのを聴いて「羨ましいな」と何度も感じていた。何が羨ましいのかは後で触れるが、あれほど何度もアメリカ合衆国の国歌を聴けば、馴染んでくるのは当然だっただろう。但し、あの歌詞の意味は容易に覚えられなかったし、歌うのはもっと難しかった。
40年ほど前のことだったか、本部の幹部の一人、Bobにワシントン大学のフットボールの試合に連れて行ってもらったことがあった。このHuskiesはアメリカの全大学の中でも最上位にランクされている強豪で、大学の敷地内にあるハスキー・スタジアムの収容能力は何と7万人なのだ。州立大学でもこのような凄い設備を持っているのがアメリカである。
やがて観客全員が立ち上がって(英語を講釈すれば、“Will you please rise?“と言うが)国歌の斉唱が始まった。皆が声高らかに嬉しそうに歌うのだった。立ち上がっていた私は「何故、我が国ではこうならないのだろうか。残念なことだ」と思った瞬間に涙が出てきた。
その理由は「当時我が国では国歌を嫌う左側の集団の影響で、学校の行事などでは斉唱を拒否するような事案が多発していた」事を嘆いたのである。自分自身がそれほどの愛国者だという自覚などなかったが、全員が朗らかに誇り高く国歌を歌っているのが「我が国でもかくあるべきだ」と痛感していたのだった。
ところが、私の落涙を見て感動したのかBobは「アメリカ国歌の為に泣いてくれたのか。有り難う」と、握手を求めてきた。「違うんです」とは言えなかった。
アメリカという国では行く先々で国旗が掲揚されているし、我が本社にはアメリカ中で最も大きいと誇りにしている星条旗が掲揚されている。アメリカという国では、如何なる行事でも開始前の国歌斉唱は当たり前のことである。
私の解釈は「アメリカ合衆国は白人を中心にして(現在は変化しつつあるかのようだが)多くの民族で構成されているので、何か全員の心の支えとなる存在が必要であり、その前に全員で忠誠を誓おうというのが国歌と国旗である」なのだ。即ち、それによって国家と国民としての統一感を出そうという事ではないのか。その意味では、我が国の在り方とは異なるのだが、見習っても良い事ではないのかと考えていた。
今や、我が国でも国歌斉唱はごく普通の行事になっているし、総理大臣以下閣僚が登壇する際には備え付けられている国旗に向かって一礼することから始まるようになってきた。敢えて、特別に褒め称えようとは思わないが、国家として普通のことが出来るようになってきたのだと評価している。自分の国の国旗と国歌を敬うのは普通のことになってきたと認識している。
話を私のことに戻せば、昨夜のリトグリのアメリカ国歌斉唱を聴いて感動したのは「そう言えば、俺は30年までは22年以上もあの国の中で働いて私語し、あの国歌を度々聴いて過ごしてきたのだと、無性に懐かしくなったのだという思い出に耽っていた」のである。因みに、あの国家の最終節は
And the star-spangled Banner in triumph shall wave,
O'er the land of the free and the home of the brave.
となっていて、「自由の地であり勇者の故郷である」
となっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます