新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1985年8月12日

2014-08-12 17:16:43 | コラム
あれから29年も経っていた:

あの年の8月12日は、午後から横浜市外の得意先の工場を訪問し終えたら、午後の4時を過ぎていた。時間的にもそこから都内に戻って、当時住んでいた藤沢まで帰るのを避けて所謂「直帰」とした。

家に着くと何となく薄暗いような感があったような記憶がある。そこに日航機が彷徨っているというニュースがあった気がした。まさかあれほどの大事故になるとは思っても見なかったので、折角早めに帰れたのでノンビリとしていた。ただそれだけの記憶だ。今頃になって犠牲者のご冥福をお祈りするのは遅いとは思うが、心からお祈りする次第だ。

もう、その頃は頻繁にアメリカと我が国を往復する状態になっていたので、まさか飛行機が落ちるものとは夢にも考えてもいなかった。怖いものだと自覚した。あれから何回アメリカと我が国の間を飛んだことだろう。

その約2ヶ月後のアメリカ時間の10月4日に、何と私自身が家族の男子では最後になる自動車事故の被害に、ワシントン州シアトルの郊外で遭っていたのだった。「二度あることは三度ある」とは言うが、亡父は昭和12年12月24日に貰い事故で死亡、実弟は昭和39年4月の同様に貰い事故で社会復帰に2年を要した。私は最も軽傷でも、頸椎の損傷で仕事に復帰出来るのに半年かかった。

思い出せば、1985年は大きな出来事があった月だったのだ。しかし、日航機の事故と自分の交通事故の被害が同じ年のことだったとは、長い間気が付かなかった。8月には私の人生を左右しかねなかった大きな出来事が、他に二件もあるのだが、思い出したくもないし、書きたくもない


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