言葉は時とともに移り変わっていく:
4月22日の渡部亮治郎氏主宰のメールマガジン「頂門の一針」第4332号に、渡辺好造氏の「日本語をなぜ“片仮名文字”にする」と題されたカタカナ語批判の一文が掲載されていた。1990年からカタカナ語を批判し孤独の排斥運動(?)を続けてきた私からすれば誠に結構なことで、少なくとも私と同じ事をお考えの方、イヤ同志が現れたことは有り難いのである。
これまでに寄せられた多くのご意見は「最早日本語の一部とかしているのだから四の五の言うことはないではないか」という類いの冷淡もものが多く、支持者は先ず現れなかったのだ。私は決して一歩譲った気はないが「お使いになるのは勝手だが、それらのカタカナ語の99,99%は本当のEnglishとはかけ離れた純粋の日本語で、もしかして英語で会話などをなさる時にお使いにならないよう」とだけ言うようにしてきた。それでも、渡辺様がご指摘のようにこの種の奇っ怪な言葉は増える一方で、日本語を破壊しようとする輩は後を絶たないのだ。本当に嘆かわしい。
今回は既に何度も何度も採り上げてきた「和製英語(造語)とカタカナ語」を再録するのではない。それよりも昨年の今頃採り上げてきた「新日本語」をあらためて論じてみたいのだ。その前にどうしても触れておきたいことは「我が国の外国語教育の程度は世界でも最低の部類だと思っているし、多くの大学で教えておられる仏文学のTK博士もこのことを真っ向から指摘しておられる点」である。
私もアメリカのみならず、東南アジアの諸国を回ってみて、本当に遺憾ながら我が同胞の英語力はこの地域の人たちにも遠く及ばないと認識させられている。それでも、教育を司るお役所は小学校3年から英語を教えて国際人を養成するとか戯言を言っているし、未だにTOEICなどに執着する人々が多いのだ。
話を元に戻そう。私の持論は「言葉は耳から入ってくるものであって、いくら沢山読んで(黙読して)も決して簡単に身につくものではないのだ」である。何処かに赤子に言葉を教えて話せるようにした人がいるだろうか。あれは皆耳から入ってきたのではないか。そうなっている以上、テレビなどに登場する有り難い有識者や大学の先生や評論家や大臣などが嬉しそうに如何にも自分は如何に博学であるか、外国語を覚えていて知識人であるかを見せようと誤ったカタカナ語を使って語れば、それが罪なき一般の方々の耳に入り、定着して広まってしくのだ。
そこで新日本語である。昨年の今頃「~して貰って良いですかって何」と題して新日本語の批判をしておいた。私は、日本語の乱れと言うべきか、新たに出てきた表現が気になってならないのだ。その一例として採り上げたのが「お会いする」で、(こう入力しただけでAtokでは「お目にかかる」という他の敬語に切り替え可能と出てくるが)その敬語もどきの婉曲さに違和感を覚えていた。その辺りを敢えて採録すると、
>引用開始
「お会いする」への疑問:
私はこの言葉遣いが気になるのだ。敬語のつもりで政府高官からAHOなテレビタレントまでの間で広く使われているのだと思うが、違和感がある。大体からしてローマ字にすると「oai 」で母音ばかりでは、「青木」=Aoki が「エイオキ」になってしまう外国人には、まともに発音して貰えないかと危惧する。
Atokでは「お会いする」と入れると「お目にかかる」という敬語があると注釈が出てくるのだ。私もその方が自然だという気がする。「会いに行く」や「会ったことがある」では失礼に当たるとでも思っている人が多いようだ。そこで、「お会いする」への疑問を解決すべく、多くの大学で国文学を教えておられるKS氏に伺ってみた。その答えを下記に引用すると
<「お会いする」について:
基本的に、自分の動作やそれによって生じた結果に、「お」をつけるのは敬語としては間違っています。 ですから、本当なら「お返事をさしあげる」も誤用です。「お会いする」の場合、「会う」の主語は「私」ですからこれも本来は正しくありません。おっしゃるとおり、「お会いする」は「お目にかかる」と言う方が無難です。>
となっていて一安心だった。そこで、さらに常日頃疑問に感じていた現代人が多用する「私的には」についても質問したところ、以下のように解説して頂けたのだった
<これは近年生じた新しい表現と言えます。すこし前の解説者は「自分としては」の意味で「わたくし的には」とよく言っていました。「わたくし的には」がずいぶんバッシングされたので、それに代わる言いまわしが発生したのだと思われます。
また、何処かの野球解説者が言い出したのか、あるいはテレビタレントか知りませんが、「私の中で」というのも一般的になった気がします。これは「私が思うには」、「私か感じたところでは」、「私の意見では」、「私の感覚では」、「私の捉え方では」、「私の脳裏には」等々のように具体的な記述が出来ないか、思い浮かばないのか、あるいはそこまで国語を知らないのかの何れかで、国語教育の至らなさを聞く気がします。
私のように、日常的に古文に接している人間には、「新しい言いまわし」が生まれてくるのは止められない、という諦念があります。が、それにしても。江戸時代の書き言葉と現代語の乖離は、19c英語と現代英語のそれと比較にならないほど隔たっています。
きちんと勉強しないと、日本語をきちんと話せるようにも、書けるようにもならないという意識が、現代の中等初等教育の現場においても希薄過ぎる気がしてなりません。>
>引用終わる
以上のような回答があった。KSさん、有難う御座いました。
これらの他にも気になっている言葉遣いに「~おります」がある。私はこれは自分のことを言う場合に謙って使う表現だと思っていた。ところが、テレビに出てくる言うなれば有識者から政治家から大学の先生方のような知識階層も、AHOなテレビタレントも「~おります」を他人のことを言う場合に使うのだ。即ち、「あの社長がこう言っておりました」という具合に。わたしは「こう言っておられました」であるべきだと思う。だが、今やテレビという媒体を使って「~おります」が普通の言葉遣いとして戸籍を得てしまった。あーあ。誰か何とかして下さい。
4月22日の渡部亮治郎氏主宰のメールマガジン「頂門の一針」第4332号に、渡辺好造氏の「日本語をなぜ“片仮名文字”にする」と題されたカタカナ語批判の一文が掲載されていた。1990年からカタカナ語を批判し孤独の排斥運動(?)を続けてきた私からすれば誠に結構なことで、少なくとも私と同じ事をお考えの方、イヤ同志が現れたことは有り難いのである。
これまでに寄せられた多くのご意見は「最早日本語の一部とかしているのだから四の五の言うことはないではないか」という類いの冷淡もものが多く、支持者は先ず現れなかったのだ。私は決して一歩譲った気はないが「お使いになるのは勝手だが、それらのカタカナ語の99,99%は本当のEnglishとはかけ離れた純粋の日本語で、もしかして英語で会話などをなさる時にお使いにならないよう」とだけ言うようにしてきた。それでも、渡辺様がご指摘のようにこの種の奇っ怪な言葉は増える一方で、日本語を破壊しようとする輩は後を絶たないのだ。本当に嘆かわしい。
今回は既に何度も何度も採り上げてきた「和製英語(造語)とカタカナ語」を再録するのではない。それよりも昨年の今頃採り上げてきた「新日本語」をあらためて論じてみたいのだ。その前にどうしても触れておきたいことは「我が国の外国語教育の程度は世界でも最低の部類だと思っているし、多くの大学で教えておられる仏文学のTK博士もこのことを真っ向から指摘しておられる点」である。
私もアメリカのみならず、東南アジアの諸国を回ってみて、本当に遺憾ながら我が同胞の英語力はこの地域の人たちにも遠く及ばないと認識させられている。それでも、教育を司るお役所は小学校3年から英語を教えて国際人を養成するとか戯言を言っているし、未だにTOEICなどに執着する人々が多いのだ。
話を元に戻そう。私の持論は「言葉は耳から入ってくるものであって、いくら沢山読んで(黙読して)も決して簡単に身につくものではないのだ」である。何処かに赤子に言葉を教えて話せるようにした人がいるだろうか。あれは皆耳から入ってきたのではないか。そうなっている以上、テレビなどに登場する有り難い有識者や大学の先生や評論家や大臣などが嬉しそうに如何にも自分は如何に博学であるか、外国語を覚えていて知識人であるかを見せようと誤ったカタカナ語を使って語れば、それが罪なき一般の方々の耳に入り、定着して広まってしくのだ。
そこで新日本語である。昨年の今頃「~して貰って良いですかって何」と題して新日本語の批判をしておいた。私は、日本語の乱れと言うべきか、新たに出てきた表現が気になってならないのだ。その一例として採り上げたのが「お会いする」で、(こう入力しただけでAtokでは「お目にかかる」という他の敬語に切り替え可能と出てくるが)その敬語もどきの婉曲さに違和感を覚えていた。その辺りを敢えて採録すると、
>引用開始
「お会いする」への疑問:
私はこの言葉遣いが気になるのだ。敬語のつもりで政府高官からAHOなテレビタレントまでの間で広く使われているのだと思うが、違和感がある。大体からしてローマ字にすると「oai 」で母音ばかりでは、「青木」=Aoki が「エイオキ」になってしまう外国人には、まともに発音して貰えないかと危惧する。
Atokでは「お会いする」と入れると「お目にかかる」という敬語があると注釈が出てくるのだ。私もその方が自然だという気がする。「会いに行く」や「会ったことがある」では失礼に当たるとでも思っている人が多いようだ。そこで、「お会いする」への疑問を解決すべく、多くの大学で国文学を教えておられるKS氏に伺ってみた。その答えを下記に引用すると
<「お会いする」について:
基本的に、自分の動作やそれによって生じた結果に、「お」をつけるのは敬語としては間違っています。 ですから、本当なら「お返事をさしあげる」も誤用です。「お会いする」の場合、「会う」の主語は「私」ですからこれも本来は正しくありません。おっしゃるとおり、「お会いする」は「お目にかかる」と言う方が無難です。>
となっていて一安心だった。そこで、さらに常日頃疑問に感じていた現代人が多用する「私的には」についても質問したところ、以下のように解説して頂けたのだった
<これは近年生じた新しい表現と言えます。すこし前の解説者は「自分としては」の意味で「わたくし的には」とよく言っていました。「わたくし的には」がずいぶんバッシングされたので、それに代わる言いまわしが発生したのだと思われます。
また、何処かの野球解説者が言い出したのか、あるいはテレビタレントか知りませんが、「私の中で」というのも一般的になった気がします。これは「私が思うには」、「私か感じたところでは」、「私の意見では」、「私の感覚では」、「私の捉え方では」、「私の脳裏には」等々のように具体的な記述が出来ないか、思い浮かばないのか、あるいはそこまで国語を知らないのかの何れかで、国語教育の至らなさを聞く気がします。
私のように、日常的に古文に接している人間には、「新しい言いまわし」が生まれてくるのは止められない、という諦念があります。が、それにしても。江戸時代の書き言葉と現代語の乖離は、19c英語と現代英語のそれと比較にならないほど隔たっています。
きちんと勉強しないと、日本語をきちんと話せるようにも、書けるようにもならないという意識が、現代の中等初等教育の現場においても希薄過ぎる気がしてなりません。>
>引用終わる
以上のような回答があった。KSさん、有難う御座いました。
これらの他にも気になっている言葉遣いに「~おります」がある。私はこれは自分のことを言う場合に謙って使う表現だと思っていた。ところが、テレビに出てくる言うなれば有識者から政治家から大学の先生方のような知識階層も、AHOなテレビタレントも「~おります」を他人のことを言う場合に使うのだ。即ち、「あの社長がこう言っておりました」という具合に。わたしは「こう言っておられました」であるべきだと思う。だが、今やテレビという媒体を使って「~おります」が普通の言葉遣いとして戸籍を得てしまった。あーあ。誰か何とかして下さい。
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