新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月10日 その2 我が国の英語教育を考え直そう

2019-11-10 11:30:06 | コラム
矢張り英語教育は改革すべきだ:

私は英語教育の改革を論じる前に先ず為すべきことは「国語の教育を現在よりも一層強化すべきだ」と考えている。自国語がキチンと操れていない段階というか、そういう者たちに外国語を教える意味や効果があるかという点から考えるべきだと主張したいのだ。例えば、最近の高校から大学の年齢の者たちの名前(「下の名前」などと言う言葉を編み出すほど国語が理解できていない者が多いのには情けなさに涙が出る思いだが)を見ると近年の親御さんたちが「如何に我が国の文化と歴史と国語と漢字の使い方」が解っていないかが一目で解る。

こういう命名をする者たちに外国語など解るようになる訳があるまいと思う。小学校から英語を教えようなどという愚論を展開する前に「国語教育の充実を図れ」と声を大にして言いたいのだ。それは初等教育の充実を図ることでもあるのではないか。

文科省が大学入試の英語に試験に民間の諸々のテストを充てることを急に撤回して以来、英語の試験というかテストというかその教え方を論じるテレビ番組が増えたような気もする。だが、そういう技巧的なことよりも「英語の教え方そのもの」が問題だと思って改革を唱え続けてきた私には、テストの内容を見てみようという気は全くなかった。あのような実用性の点では効果がない教え方をそのままにして試験だのテストだけをいじっても何の効果もないことは明らかではないのか。

私がこれまでに何度も何度も繰り返して2年程度の短期間に日本語を学んだだけで所謂「ペラペラ」以上に立派な日本語を話し読解力もある外国人が増えている例を挙げてきたし、YM氏と私がカリフォルニア州で同時に“Were you born here?”と尋ねてしまったアメリカに来て1ヶ月だという韓国の若き女性の見事な英語力の例も採り上げた。この女性は韓国で2年足らず英語を学んだだけだったというのだ。遺憾ながら我が国の教え方で6年間も勉強させられて“Were you born here?”の域に達した者がどれほど出るかと比較してみて欲しい。改革は必要ではないのか。

ルール(文法など)だけを先に教え込んでどうする:
野球のルールだけを先ず教え込んで「さー、野球をやって見ろ」と言っても出来る訳がないだろう。ここでは理論を云々するよりも、今日までに私が採り上げてきた我が国に英語教育の好ましからぬ成果の例をあらためて挙げて、教え方を考え直す必要がある点を認識して貰おうと考えた次第だ。最初に「我が国に英語教育で重要視していると認識している文法の悲しき成果の例」を敢えてお目にかけよう。「もう何度も見た」と言いたい方もおられると有り難いとすら考えている。


"Every years, I take vacation two month, you know. I go Europe with family, you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."

ここでは英文法は無残なまでに忘れ去られている。これは20年ほど前に我が同胞が英語を母国語としない外国人との会話を偶然に電車の中で聞き、そのペラペラ振りと文法を度外視した点が印象的で、つい記憶してしまったものである。この例をある専門商社の海外担当の常務さんに見せたところ、苦笑いしながら「貴方は私の海外出張に付いてきていたのか。恥ずかしながら私の英語能力はこの程度なのだ」と述懐されたのだった。

私が見るところでは「英語を教える時に、先ず文法ありきで先に規則を教え、後からそれに英語を合わせていくような教え方をしているのだろうから、七面倒くさい文法などは覚えきれずに終わって、このような話し方になってしまうのだろう」と推察している。私は「文法などというものは後から人工的に創り上げてついてきたものであるから、それは先ず脇に置いて英語の例文を音読・暗記・暗唱して流れの中で覚えることを優先した方が良い」と偶然にも旧制中学の頃から考えていたような勉強の仕方で今日に至った。

この表現では不明確かも知れないので、別な言い方をすれば「我々が生まれてこの方日本語を覚えるのに最初に文法を教えられたか」と考えて見れば解ると思う。何時の間にか親なり周囲の者たちが話している言葉がチャンと身に付いただけではないのか。私はお恥ずかしながら「日本語の文法を教えて欲しい」ともしも外国人に求められたとしても、一言も語れないことに自信がある。この事実を重視して英語教育改革の資料の一つにしていけば如何かと思っている。

日本語と英語ではものの考え方が違う:
次に採り上げたいことは「日本語と英語のものの考え方の違い」である。その例として何度か採り上げた例に「野球のボールだった」という例がある。これはホワイテイング氏がその著書に先に採り上げられてしまったので、著作権を考慮して引用しておく次第だ。それはヒーローインタビュー(これは純粋にカタカナ語であり、こんな英語の表現はない)で「ホームランを打ったのはどんな球でしたが」とアナウンサーが尋ねたのを通訳さんが“What kind of ball did you hit homerun?”と訳してしまったのだった。


それを聞いた外国人選手は「ニヤリ」として“I think it was a baseball and was not a football.”と答えたのだった。これは通訳さんの完全な誤訳だったのだ。それは日本語では「ピッチャーが良い球を投げる」のように普通に言う。だが、これでは厳密に言えば「投げたボールの質」を論じているのであって「投球の質」を表現していないのだ。英語では「球」とは言わずに“pitch”(時には“delivery”もあるが)と言っている。故に、通訳さんは“What kind of pitch did you hit homerun?”のように訳すべきだったのだ。だから「野球のボールでフットボールではなかった」と切り返されたのである。

この例の示す教訓は「日本語の漢字乃至は熟語の表現をそのまま英語にしたら理解して貰えないことがある」という点で、英語にする時にはその日本語の意味をもう一度分析して何を意味するかを考えるべきだということである。最初に掲げた例文の“become big”は「成長する」即ち“grow”という言葉を知らなかったのか思い浮かばなかったのかの何れかで、あのように言い換えてその場を切り抜けたという解釈も出来る。これは一つの言葉ではなく、フレーズにして説明するような表現力を養うように心掛けると良いという例にも、偶然になっているのだ。


単語重視の教育を止めよう:
これは既に繰り返して指摘した問題点である。私は単語を覚えさせる教育は語彙を広げるので必ずしも悪いとは言わないが、その結果というか産物として誠におかしなカタカナ語が創造されていることを採り上げて批判したいのだ。その例として既に槍玉に挙げたのがテレビ局が広めた「コラボレーション」とその略語である「コラボ」だ。これを初めて聞かされた時には驚いた。それは、私の限られた語彙の中にもこういう単語も入っていたが、アメリカ人たちが使ったのを聞いた記憶もなく、自分では勿論使ったこともなかったからだ。

要するに「カタカナ語製造業者の語彙の広さ」に驚かされたということ。そこで、あらためてジーニアス英和を見ると「《正式》文芸・科学の分野で、協力[協同]する」とあった。なるほど、文芸や科学の世界にいた訳ではなかった私が知らないのも当然かと理解できた。そのような単語をカタカナ語化することはかえっておかしな結果を招くのではないかと言いたいのだ。即ち、我が国の英語教育で身につけた程度の会話能力で、突如として“collaborate“などという言葉を使うことは「木に竹を接いだ」ような印象を相手に与えるだけだと思うからだ。

カタカナ語からは少し離れるが、私が1975年頃だったか何処かで覚えていた「本物」という意味の格好良い表現の“the real McCoy”というのを報告書で使ったことがあった。それをチェックしてくれた日系人のMBAに「これは駄目。貴方の英語力でもこういう言葉を使うと木に竹を接ぐような形になって調和が取れないから書き直しなさい」と指導された。“collaborate”は普通に言えば“to work together with ~”という意味であるから、我々日本人が会話なり英作文をする時にはこの言い換えたような表現を使うのが順当だと思う。

次に「何だこれは」となったのが「ドラゴンクエスト」か「ドラクエ」だった。これもテレビのCMだったかで見た時には深く考えなかった。だが、後になって「クエスト」とは何かなくらいは考えた。だが、これが“quest”だと知った時には驚く前に尊敬したくなった。と言うのは、私は“in quest of ~”というフレーズがある事は承知していたが、永年アメリカ人の中にいてもこれを聞いたことなどなかったからだ。そこで、Oxfordを見ると先ず出てきたのが(formal or literary)とあったのだ。“literary”はジーニアス英和には「限定」として「文学の、文芸の」とあった。

後難を恐れずに言えば「カタカナ語製造業者の恐るべき語彙の大きさと、無駄な博識振り」なのである。子供の頃から英語を聞かされ、20年以上もアメリカ人の会社の中で働いていても聞いたことも使ったこともないような実用性に乏しい言葉を、何ら躊躇せずにカタカナ語化してしまうおかしな教育を我が国では行っているという、壮烈な知性とエネルギーの無駄遣いである。だからこそ私は永年「単語をバラバラに覚えるな。文章という流れの中でどのように使うかと、その意味を覚えよ」と唱えてきたのだ。即ち、実用性を無視した単語重視の教育を止めよと言っているのだ。

結び:
上記以外にも主張したい問題点は多々あるが、私の主張の焦点がボケないようにここまでに止めておこうと思う。「何時も言うことは同じではないか」と言われそうだが、何度言っても一向に効果が現れないので、辛抱強く繰り返し唱えておこうというものである。



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