新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月4日 その2 MLBのWorld Seriesを見終えて

2021-11-04 16:03:59 | コラム
矢張り異種の競技の世界だった:

ダルビッシュ有はMLBに転進して数ヶ月後に「アメリかでは何か異種の競技をやっているのかと思った」との感想を述べたと報じられた。私は将に至言であると思って聞いた。

私は40年ほど前から幸運にもシアトルの今は取り壊されたKing DomeでMLBの野球とNFLのフットボールを見る機会を与えられていた。フットボールは兎も角として、MLBの野球を見ていると「素晴らしい質が高い野球をやっているのだが、我が国のそれとは明らかに何かが違う」と感じていた。その違いを嘗て国鉄の頃だったと思うスワローズにMLBから初めてやって来たバブ・ホーナー(我が国ではBobを「ボブ」と表記)が1年働いた後で「サムシング・ライク・ベースボールをやっていられない」と捨て台詞を残して帰ってしまった。

簡単に言えば「我が国では『野球』をやっているが、アメリカでは“Baseball”をやっている」との違いがあると喝破したのだ。でも、この違いを指摘した名言は、簡単には理解されていないようだった。私にも当然「何が違うのか」のかは当時は良く理解できていなかった。だが、永年アメリカでMLBの野球を見る機会があって、何とか相違点が見えてくるようになった。だから「個人事業者の集団が野球をやっている」と言えるようになったのだ。

その意味は「南アメリカのドミニカやベネズエラやプエルトリコ等々からやって来た連中を含めて、アメリカの白人やアフリカ系の選手たちは皆各球団と契約した個人事業主であり、その球団という場所を借りて各人が個人営業の店をはって、そこで最高の利益を挙げることに専念している」のである。彼らは飽くまでも個人の収入を増やすために野球をやっているので、球団のためなどということは大袈裟に言えば二の次、三の次なのだ。だから、良い条件の球団があれば次から次へと渡り歩くのだ。故に「そのテイーム一筋15年」などは珍品種扱いされるのだ。

今回もWorld series(WS)を見て、あらためて痛感したことは「彼らMKBの選手たちは何時でも一選手としてというか、個人事業主として真っ向から相手方に勝負を挑んでいるのである」と言う点だった。投手は自分の持ち球の中でも最善の球種を「打てるものなら打って見よ」とばかりに「これでもか」と投げ込んでいくのだ。逃げも隠れもしないのだとしか見えない。我が国の投手のように精密なコントロールで、相手の打者の弱いところを執拗に衝く投球はしないようなのだ。

打者の方でも黙ってはいない。「俺様を討ち取ろうというのならば、勝負しようじゃないか」とばかりに勇猛果敢に立ち向かっていくのだから、俗っぽく言えば「そこには目に見えない火花が散る争いが展開されている」のである。だから、彼らは自分の狙い球であろうと何だろうと、初球から振り回していくこともあるのだ。勿論、投手の持ち球の種類を把握していていて、これだと思う狙い球が来るまで待っている者もいる。何れにせよ、常に両者は勝負している。即ち、ここでも自分のためが優先され「テイームのため」などは優先順位が低いとしか見えない。

だから、WSを第6戦まで見ていて、我が国の野球ではごく当たり前のプレーである「犠牲バント」は遂に見ることが出来なかった。このことを以てしても言えることは「何が何でも自分が優先であり、テイームの為は・・・」であると解って頂けると思う。この一点だけを捉えても、ダルビッシュが言う「異種の競技」を裏付けていると思うが、どうだろう。

彼らは究極的にはWSに勝利して世界のチャンピオンとなることを目指しているのだろうが、私にはそこに至る手段として「如何にして個人事業主としての最高の成績を残すか」の方に重きを置いているように見えたのだった。その為にはリスクを取っても勝負を挑み続けているようにしか見えなかった。そこに見えてくることは、私が繰り返して指摘して来た「二進法的思考体系」があり、個人の為かテイームの為かの二択を問われれば「個人」を選択したのだろうと言うこと。

その個人対個人の勝負の凄さがアメリカにおけるスポーツ観戦の楽しみだと思っている。その個人事業主たちが世界チャンピオンを決めるシリーズに全力を尽くして戦う有様が見る者を「ゾクゾクさせ、ワクワクさせて(カタカナ語にすれば「スリル」だろう)くれるのだった。

このシリーズの第6戦でアトランタ・ブレーブスが優勝するのを見届けてから、何気なくチャンネルを変えたところ、Jリーグの優勝を決めるとかの川崎フロンターレと浦和レッドダイアモンズのサッカーの試合に出会った。正直に言って、自分が育ったサッカーの試合には「手に汗握る」ような熱戦は期待していなかった。森保監督率いるA代表についても申し訳ないが、同様な気配しか感じないのだ。我が国のサッカーの何処を嫌っているかは、繰り返し指摘してあるので、ここでは詳説は回避する。

前半の途中まで見て、川崎が先取点を取ってしまったところまでで観戦は止めた。それは例によって例のごとく「自分でやってやろう、勝負してやろう」との気迫もやる気も見えない責任逃れのパス交換ばかりでウンザリだったからだ。特に中盤でフリーで前を向いてパスを受けた者が、相手のデイフェンダー(というのだそうだ)一歩でも近付くや否や、待ってましたとばかりに後方に位置する4バックの1人に戻してしまう安全運転振りなのには、心の底から閉口させられた。「偶には勝負しろよ」とテレビの前で叫んでいた。

いや、先ほどまで見ていたMLBとの余りにも「大きな違い」で悪ければ「落差」には、胸が悪くなる思いで見ていられなかった。何度でも同じ事を言うが「我が国のサッカーの指導者たちは何を基本にして子供たちや高校生やJリーグの下部組織に属する者たちにサッカーを教えているのか」と問いかけたいのだ。社会人になってから経験してきたことで、自分たちより下の世代ではリフティングなどのテクニックとなどは、我々昭和一桁世代から見れば別世界の凄さである。それにも拘わらず「安全第一。責任回避優先」では論評の限りではないのだ。

私は今の時点にA代表に選ばれるとか、Jリーグで一本目を張っている連中が私の眼鏡には叶わないのは、森保監督やJリーグの指導者の責任ではないと思っている。そういうサッカーしかできないように育ててしまった、子供たちを指導した者たちの所為だと思っている。MLBとの違いが生じているのは、国民性の相違であるとか文化違うと言ってしまえばそれまでだが、あの消極性というか責任逃れの精神構造は何としても「改革」せねばなるまい。野球から話が変わってしまったが、チャンネルを変えた私が悪いのかも知れない。


アメリカの企業に採用されれば

2021-11-04 09:40:15 | コラム
そこは異文化の世界なのである:

本日発行される週刊新潮の新聞広告を見れば「小室氏が法律事務所クビか」とあった。「それを言うのか」と思った。

今頃になって遅ればせながら「アメリカとはこういう異文化の世界であること」を記事にしようとすることが良いのかも知れないが、少なくとも企業社会における文化の違いを何とかして広く知られておくようにすることは賛成である。

何が言いたいかだが、私は報道機関が取り上げたことを基にするしかないので、週刊新潮が言わんとすることは「Lowenstein Sandlerは弁護士試験に受かるはずの小室氏に2,000万円という年俸を払う予定だったのだが、不合格だった以上はその資格がない以上継続して雇用しないだろう」だと思う。さもなければ、来年2月の試験に合格するまでは600万円の助手扱いという意味か。

私は既に何度かアメリカの法律事務所に弁護士として採用されれば、高額の初任給を与えられるが、その勤務で生じる労働量の大きさは下世話な言葉で言えば「半端じゃない」と解説してきた。但し、こういうことに関するマスコミ報道では「アメリカで法律事務所に弁護士として採用されれば、そこには素晴らしいバラ色の世界が待っている」とでも言いたいように思えてならなかった。現実はそういうことではないようなのに。

断言するが「それが100%正しいことではないし、真実を伝えていない」のである。アメリカの会社に勤務するとはどういう事になるかは、拙著「アメリカ人は英語がうまい」にも詳細に述べてあるが、敢えて再録してみよう。「高額な年俸を与えられるということは、それに見合う働きをしなければ馘首されても苦情を申し立てません」と誓ったのと同じなのである。更に述べてあったことは「初年とは必死に能力の限界まで働いて何とか目標を達成しても、翌年度の目標は更に高くなるので、能力の限界を超えてしまうので、達成できずに馘首となる危険性が高い」だった。

あるアメリカの大手企業の非常に能力が高い辣腕の誉れ高い日本代表者は言った「俺は本社からクビを言われることは99%ないと確信している。だが、何か些細なことが起きると残っていた1%が急激に膨れ上がって99になってしまう恐怖感がある。だから、俺は毎日毎晩その残る1%を何としても抑え込もうと必死なんだ」のように。この我が国の企業社会ではあり得ないような「馘首」の危険性は常に我々に付きまとってくるのだ。私はこの状態を古い言い方で「板子一枚下は地獄であり、毎日その薄い板の上を彷徨い歩いているだけ」と表現していた。

その危険性がある世界に入ってきた代償が高額の年俸なのであるが、実力と能力と実績次第ではその高給は待ったなしで何処かに吹っ飛んでいく世界なのだ。これは決して単なる面白おかしい異文化の国の話ではないのだ。私は何人もから俗に言われている「朝出勤してみたらデスクの上に『貴方の仕事は昨日で終了した。この知らせを持って経理部に行って昨日までの給与を受け取って帰ってくれ』と記した紙があった」との経験談を聞いている。今朝会ったばかりの若手が午後に「明日から来なくても良い」と告げられたと嘆いたのを聞いたこともあった。

職業選択の自由や、自由に職(会社)を移動できるということの裏には、このようになっているのだ。「何だ。そんなことは知っている」などと言わないで欲しい。アメリカでは会社が社員を採用するのではなく、各事業部の長が必要により新規の即戦力社を採用しているのであって、採用しても条件を満たさなければ馘首する権限を持っているのだ。何度も採り上げた例に「ヘンリー・フォード二世は社長のリー・アイアコッカを突然退任させ、アイアコッカ氏の腹心の副社長をも“I don’t like you.”という解りやすい理由で解雇したのだった。

そういう世界であるから、週刊新潮が「小室氏が法律事務所クビか」という記事を載せたということは「故なきことではない。そういう事態もあり得るか」なのである。小室氏がもしも「bar examに合格する」との条件で採用されていたのだったら、そのような最悪の事態もあるのがアメリカなのだ。