新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

ネタが尽きる

2021-11-27 09:26:24 | コラム
処女作が最高傑作:

本日は何時もの通り午前4時に起床したが、朝食を済ましても何となく気が乗らずに8時まで「今日は如何なる話題を取り上げてブログを更新しようか」とボンヤリと考えていた。そこで思い浮かんだことがあった。それは、医師の里見清一氏が週刊新潮に連載しておられるコラム「医の中の蛙」で「ネタが尽きる」との見出しで書いておられた事だった。そのところを引用してみると、

「人は皆、自分の人生で経験を積み重ね、また教養を身につけるから、誰でも一本は小説なり随筆なりが書ける、と言われている。そして大抵の場合、その処女作が最高傑作で、後が続かない。これは内在するものを一気に放出してしまって(中略)「気」やエネルギーが尽きた状態に陥るのだが、つまりはネタ切れである。先に最も面白い話を出してしまったから、他をかき集めて次に何かを書こうとしても、パワーダウンは否めない。」

とある。偽らざる感想を言えば「誠にその通りである」なのだ。確かに私は1990年の春から業界の専門誌に月2回の連載を始める機会を与えられた。その連載を読んでおられた静岡新聞社の出版局副部長さんがそれを纏めて1995年の秋から出版に取りかかられ、1996年の8月に目出度く刊行の運びとなった。それ以降、私は一冊も上梓してはいない。だが、専門誌の連載は2000年の4月まで続けさせて貰っていた。そして、形式は現在のブログに変わったが、未だに何か書き続けている。

今でもその里見氏が言われたような「教養が身に付いた」かどうかは不明だが、蓄積を一気に吐き出した処女作を読み返してみると、2000年以降に書いているものには、その1冊の内容と比較してみると、自分で読んでも面白くも何ともないし、あの書き始めた頃ののびのびとしたというか自由闊達なところもなく、ユーモアのセンスも失われているのに正直に言って「困ったものだ」と嘆いているのだ。確かに、里見氏が指摘されたように「内在していたものを吐き出してしまった後だ」という感を禁じ得ないのだ。

ここまでで思い出したことが他にもあった。それは、ジャズ評論家の荻村政昭氏か油井正一氏が指摘されていたことで「ジャズミュージシャンたちもファーストレコーディングかファーストリーダーアルバムが最高傑作になっている例が誠に多い」という点なのだ。特に思い当たる例には、ピアノのバド・パウエル(Bud Powell)のファーストリーダーアルバム「バド・パウエルの芸術」(Bud Powell)は最高傑作だとは思って聞いたが、余り録音が良くなくて聞き辛くて「本当に凄いな。最高傑作だな」と思えるようになったのは何年か後だった。

実は、1990年から物書きの真似事を始めるようになってから31年も経っているのだ。里見氏の論を当て嵌めるまでもなく「ネタ切れ」状態に陥っているということは悲しいほど自覚している。だが、毎朝別に懊悩呻吟することもなく、閃いたことを書き連ねている。だが、「何時まで経っても同じ事を論じている奴だと思われて批判されているだろうな」との自覚症状はある。だから、今回のように告白しているのだ。

しかし、如何なる事があっても「カタカナ語批判」と「我が国の英語教育の問題点の指摘」を止めようとは思っていない。それは「継続は力なり」で、何時の日か多くの方にお解り頂けるだろうと、独り密かに期待しているのだ。何卒宜しく今後ともご一読の程を。