新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月20日 その2 アメリカの言い分は不当である

2017-04-20 17:29:54 | コラム
アメリカとの貿易を考えると:

始めに言っていきたいことがある。それはトランプ大統領率いるアメリカはまたもや我が国との貿易不均衡を是正することを言い募っている。後難を恐れずに言えば、30~40年も昔の言いがかりを未だに引きずっているのだ。自分たちの手で生産拠点を安価にして良質な労働力が豊富な中国等に移しておいて、我が国のような優れた労働力の質と優れた頭脳を擁する技術者が多い国からの高品質な製本の輸入が増えたことを他人のせいにする、とんでもない思い違いから未だに離れられていないのだ。

我が国の政府も国会議員さん方もアメリカが如何に誤解をしているか、思い違いをしているかを、歴史的事実を詳細に説明して途方もない誤解であり誤認識であるかを十分の言って聞かせて、かかる間違った考えを直させるべきである。22年以上もアメリカの会社の一員として対日輸出に懸命な努力をしてきた経験から言っても、アメリカの製造業というか輸出企業にはかかる事情と言うべきか自分たちの認識が間違いであると気づいていない者が多すぎるのだ。

これまでに何度も指摘したことだが、アメリカは基本的に輸出国ではなく、1970年代までは堂々と「輸出とは国内よりも遙かに良い値段で売れる時に初めて手がけるもので、国内の需要者の犠牲の上に成り立っているのものだ。即ち、得意先に「そちら様よりも高値で買う先があるから、御社に買って頂くよりもそちらを優先するから悪しからず」などと平然として言っていたのだ。

去る18日に専門商社の知人SY氏と懇談した際にも、この誤認識も話題となって。彼はカリフォルニア州とオーストラリアに駐在の経験がある長年輸出入を担当してきた専門家である。目下ペンス副大統領が来日中で麻生副総理と日米間の経済についての会談が行われているようだ。彼も私と同意見で「アメリカは基本的に考えて輸出国ではないにも拘わらず、何が故に我が国との貿易不均衡をここまで問題にするのか」と主張した。

これは私が繰り返し述べてきた「アメリカ政府はむざむざと自国の主な製造業というか産業界に空洞化を許したが為に、非耐久消費財等では中国からの輸入にあれほど大幅に依存する態勢となり、自動車等の高度工業製品等では我が国やドイツを主体とする輸入にデトロイトが崩壊するまで制覇させてしまったことを忘れて、他国のせいにするのは全く筋が通っていない」と同じ異見である。我々は我が国がトランプ様に譲歩する必要も根拠もないという点でも意見が一致した。

私はこういう対アメリカ政府との交渉ごとや駆け引きを離れて、具体的に、経験上からアメリカから我が国に向けて輸出することがどれほど困難かと示す点を挙げていこうと思う。基本的なことは「アメリカ経済はロッキー山脈を境にして別の経済圏を為している。西海岸は全体の30%であり、その東側即ち東海岸が70%であることを忘れてはならない」という事実だ。そのロッキー山脈がある為に、そこを超えて東西海岸間で製品でも何でも移動させことには高額な輸送費がかかるので、賢明な策ではないのだ。

また、西海岸の最北端のワシントン州からカリフォルニア州の南端までにはこれという産業がなく、非耐久消費財でも何でも輸入か輸送コストをかけて東側からの輸送に依存せざるを得ない状態にある。では西海岸からの輸出品に何があるかと言えば、往年は林産物、紙パルプ製品、農産物(アイダホ州からのフライドポテト類も含め)が主たる製品で、一次産品に依存していた。

では、内陸というか東海岸からの輸出入はどうかと言えば、政治家もマスコミもあまり具体的に指摘してこなかった問題があった。それは内陸からロッキー山脈を避けて何も我が国向けだではなく諸外国に輸出をする為には、製品を東海岸のニューヨーク等の港や南部のジョージア州のサヴァナ港まで貨車やトランク輸送をせねばならないという問題があった。また、より西海岸に近い州からは貨車輸送で長い時間をかけて南部のガルフの港に運ぶか、カリフォルニア州の港まで輸送せねばならなかった。これ即ちコスト面での不利となる。

また忘れてはならないことは「コンテイナーの貨車輸送では工場内での貨車への積み込み(乗せる)作業があり、港でも一旦下ろしてから船に乗せるという、西海岸の港では向上からシャーシで輸送してそのまま船に積み込み作業よりも積み卸しの回数が多くなるので、貨物の性質にもよるが傷みやすいという問題もあるのだ。その上に内陸を走る日数が余分にかかるのは言うまでもない。

「そうであっても他に選択肢がなければ、そうすれば良いではないか」という議論が出てくるだろう。だが、事はそう簡単にはいかないのだ。それは、輸出をする為には製品を積み込むコンテイナー(私はカタカナ語の「コンテナ」は採らない)が必要になる。例えば、クリントン元大統領のアーカンソー州からの輸出を考えてみよう。そこまで西海岸の港などから何か他国からの輸入品があって大量の箱が入ってくれば良いのだが、そうは話が旨く進むことは希で、大量の空の箱を運賃をかけて運び込まねばならなる事が屡々だと聞いている。チャージを払って空気を運ぶのは無駄だ。

これは非常に不経済な輸送手段だが、それ以外に方法がなく国際市場におけるなコスト競争力を失う事態となる。言葉を換えれば、あまり合理的な対策とは言えないのだ。しかも、貨車輸送に要する日数も納期に大きな悪影響を及ぼし、しかも内陸輸送の分だけコストも増えてますます競争力を削ぐ結果となる。食料品などにとっては長期間コンテイナーの中に閉じ込めておくのは得策ではないのは当然だ。

しかも、コンテイナー内部の清潔さと衛生状態も、我が国のような清潔と安全性を重視する国向けの輸出では大いに問題となる。食品関係の荷物では受け取り拒否さえあり得るのだ。ここでは詳細を述べることは避けるが、私はこのコンテイナーの衛生状態(清潔さ)と前荷の管理の問題では、それこそ夜も眠れないほどの大事件を経験してきた。我が国の需要家や最終消費者の神経の過敏なことは、経験してみなければ知り得ない難しさがある。粗雑な感覚での対応は許されないのだ。それを知らずして、ただ単に「買え」と喚くのは筋が通らない。

ここまでに掲げた通りというか、非経済的な条件を知る東部の産業界が、対日輸出に積極的に取り組んでいなかったのだったらどうする。ここに対日輸出不振の一つの原因があると言える。現に、私の得た印象では東海岸の産業界の顔は大西洋を隔てた欧州に向かっていた。そもそも欧州の人たちが新天地を求めてアメリカに移ってきたので、我が国よりは親近感があると感じていた。そうだから、欧州に指向する方が色々な意味でアメリカ人にとっては合理的なのだと思っていた。。

アメリカの輸出が不振だった理由の一つである「自国の規格と製造基準を押しつけること」等々をここに今更論う必要はあるまい。私が指摘したかったことは「アメリカの対日輸出不振の原因と言うべきか、それ阻む目に見えない輸送問題もあること」をトランプ大統領以下の政府要人が何処まで意識か認識出来ているのかが問題だという点だ。アメリカという国では事輸出となれば西海岸から太平洋沿岸の諸国に指向するのが合理的なのだ。

よりハッキリ言えば、ロッキー山脈のようなどうにもならない自然の条件をどうやって克服して、輸出するかであって、自動車のように自国の至らざる為に入超となっていることを非難するのは如何なものかということだ。

私はそれほど間違ったことを言っているとは思っていないのだが。

篠宮良幸氏主宰の「水曜会」が終わった

2017-04-20 08:47:27 | コラム
「運」と「縁:

19日に篠宮良幸氏が主催する水曜会の最終回が開催された。即ち、篠宮氏が長年続けてきたこの会合が終わりを告げたのだ。彼が会の継続を諦めた最大の理由は、彼が近年何度か骨折となる負傷をした為に万全な体調の維持が難しくなったことと私は解釈している。それに彼は既に85歳である。昨日は最終回に私も参加して会長・篠宮氏のご要望に応えて拙い惜別の辞を述べてきた。因みに、彼と私は同じ学部の同じ専攻科だったし、サッカー部の仲間でもあった。

何故このことを述べたかと言えば、水曜会こそが私を「頂門の一針」と渡部亮治郎氏に結びつける切っ掛けとなったからだ。回りくどい話になるが、暫くご辛抱願いたい。

2005年の5月29日に我々1955年度卒業生の卒業50周年を祝う式典が上智大学で催された。式典後のパーティーの司会役を務めたのが、篠宮良幸氏だった。彼の説では彼と私は49年間会っていなかったそうだ、お互いの就職先は承知していたが。私の記憶では卒業後に参加したサッカー部の合宿で会っていたようだったが、それが何時だったかの記憶はない。

そのパーティーの中締めのスピーチを司会者は49年も会っていなかった私を指名してきたのだった。突然のことで勿論準備も何も出来ていなかったのだが、その時は既に静岡放送のラジオコメンテーターを10年も経験していたし、業界で「アメリカからの輸入紙恐るるに足らず」という意味で「日米企業社会の文化比較論」の講演を依頼されて方々で語っていたので、何とか切り抜けることが出来た。

すると、その直ぐ後で篠宮氏から自らが主宰する会合で一席語って欲しいとの依頼があった。またまた突然のことだが、快く承って言うなれば語り慣れた主題である「日米企業社会の文化比較論」を手短に語ってみた。するとアルコールを受け付けない体質の私にその二次会にも参加を要望され、その席上で私の正面に座られたのが渡部亮治郎氏のNHKからの盟友である故大谷英彦氏と水曜会の陰の幹事役RS氏だった。そこで意気投合しEmailでの意見交換やB級グルメの会などが始まった。

その意見交換の中で、大谷氏は私が「禁無断転載・転送」と断り書きが付けておいたにも拘わらず「面白かったから」と評価されて渡部亮治郎氏に転送され、頂門の一針にも掲載されてしまった。私はその頃(1995中か)は頂門の一針の存在すら知らず、掲載されたことも当然関知していなかった。だが、何方からか記憶は「出ていましたね」と教えられ、大谷氏に猛抗議をしたが、相手にされず「一旦発表したものがどうなろうと苦情を言うな」と反撃された。

そこで振り上げた拳を下ろすところがなくなって、今度は渡部亮治郎氏にも苦情と抗議の電話をしたように記憶している。その電話会談がどう決着したかも覚えていないが、何故か「これからは投稿させて頂きます」ということになって今日に至っているのだ。

長い前置きになってしまったが、この辺りが渡部亮治郎氏が「貴方の文章はジャーナリストのそれではない」と指摘されることなのだろう。私がここで申し上げたいことは、篠宮良幸氏がパーティーで中締めを依頼された為に運命が歯車が静かな音を立てて回り始め、遂には頂門の一針の「常連の投稿者」と読者の方から指摘されるようになってしまった「ご縁」にまで発展していった点なのだ。

昨夜も水曜会の席上で雑誌「全貌」の編集者だった篠宮氏の「編集者のカン」が49年間何をしていたのかも知らない私を指名したのかと語りかけたが、彼は否定も肯定もしなかった。この「カン」の件は1990年4月に紙パルプ業界専門出版社の編集長が突如として私にエッセー連載の執筆を依頼してこられたのは何故かと総編集長に尋ねた際に「具体的な根拠はないでしょうが、恐らく彼の「編集者のカン」が働いたのでしょう」と答えられたことに基づいている。

何れにせよ、私の84年の人生には、このような到底予測することなで出来るはずもなかったような「運」と「縁」に大きな影響を受けていたのは間違いないことだった。アメリカの会社に転身してしまったのも全く予想だにしていなかった運命と縁だった。その、向こうから私に向かってくる運をどのように受け止めて「良縁」に結びつけていくかに人生の微妙に難しい点があると思っている。しかし、私には未だに上手く受け止めていたのか、最大限に展開出来ていたか否かは不明なのである。

今、目前に迫ってきた出来事が「運命」なのか「縁」なのかを間違いなく判断して受け入れて、自分に都合が良いように活用出来れば、人生は幸せなものになるだろうとは思うが。