新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日本語の表音文字化を憂うの弁

2016-11-28 17:48:18 | コラム
和製英語(=造語)とカタカナ語:

私はカタカナ語を排斥する論者であり、最早20年以上もの間あらゆる機会を捉えて英語擬きの造語も含めてカタカナ語の濫用と後から後から現れてくる新語とその使用というか濫用を戒めてきた。その言わば中間点として、2008年6月には21世紀パラダイム研究会では約100語を集めたプリゼンテーションを行っていた。そして渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」にはその発表文を何回かに分けて投稿したし、現在のGooのブログにも何年か前に矢張り分割で掲載してきた。この作業は未完成であり、今後とも継続していく所存である。

有り難いことに、Gooが知らせて下さるところではその分割した「和製英語(=造語)とカタカナ語」の数編を未だにお読み頂いている方がいて下さるようなので、ここにあらためてその書き出しである「排斥論者の弁」を加筆訂正して、カタカナ語の害毒(?)と日本語の表音かを憂うの弁を述べてみたい。

排斥論者の弁:

私はカタカナ語が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが理解出来なかった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語の表現が融通無碍であるという素晴らしさをあらためて見出した。それだけに止まらず、英語を主とした外国語を基にして新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と我が国独特の展開能力を見る思いがするのだ。

このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くは既に日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎるのである。「頂門の一針」誌上でこの問題を論じる機会を与えられた時にも、一部の読者からかなり厳しい反論および反対に出会ったものだった。即ち、「今更それを否定することはない。このまま日本語として使い続けよう」と主張する方が多かった。

だが、しかし、私の論旨は「これらのカタカナ語を使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても一向に構わないと思う。だが、その実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しい。それだけではなく、この種の言葉が英語ではそれと同じ意味で使われているなどと誤解または誤認識なさらないように」という点にあるのだ。

私はこれらの言葉を英語(English)として見れば、全く別な事を意味する例が非常に多いことを知って貰いたかっただけである。迂闊に使ってしまえば意味が通じなくなる(カタカナ語にすれば「コミュニケーションがとれなくなる」とでも成るだろうか?)と弁えていて欲しいのだ。何故このような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語かと思って使ってしまう結果になる点を好ましくない」と考えているからである。

更にこの機会に、「何も知らずに使っているアナウンサーやスポーツ番組の解説者や、無知で無学な(失礼)テレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響が最早無視できない段階に至っていることも言っておきたい」であった。その手っ取り早い例をいくつか挙げてみれば、サッカーなどで「降雨の後などでピッチが滑りやすくなってしまった状態を「スリッピー」と言っているのは「スリッパリー→”slippery”」の誤りであるとか、”award”を「アワード」と言っているようなものである。

そこで、先ずは「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを論ずることにする。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、我らの日本語のように漢字のような「表意文字」と「表音文字」のひらがなとカタカナも使っている日本語との間には歴とした違いがある点だ。そこに文法の違いが加わるので益々ややこしくなるある。さらに日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、単語を覚えさせたがる教え方をすることもカタカナ語を産む原因の一つであると指摘しておきたい。それだけではない、「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする教育方針もあることを申し添えておきたい。

私が現在と未来を通じて絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」なのである。しかし、現実には英語の単語をカタカナ表記あるいはローマ字式に発音して語り且つ使う人は増える一方なのだ。こういう言葉の使い方に依存する所謂有識者や文化人が多く、彼らはこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えないので困る。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の欠陥が現れて、難しい単語の知識が豊富であることのひけらかし」にしか見えないし、私にはいやみにしか聞こえないのだ。

私は表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けたので解ったことは「英語とは困ったことに表音文字であり、一目見ただけでは直ちに完全に理解出来ないということ」だった。スペリングを目で追って、何を意味する言葉(単語?)か熟語か慣用句等であるかが解って、更に黙読を進めて文章全体を読んで初めて何を言っているかが解るという面倒な言葉なのだ。漢字がどれほど便利なのかはこうして再認識したものだった。

より具体的に言えば、アメリカの会社などに勤務して本部で頻繁に開催される会議に参加して、配付された資料をその場で一読して瞬時に内容を把握せねば、討論にも参加できず座っている意義がないことになるのだ。換言すれば、私のような外国人はそういうハンデイキャップを背負っているのだ。また、日常の業務でも本部の副社長、customer services、工場等から送られてくる書類を即座に理解し反応できなければ、仕事にならず使い物にならないのだった。

そうなのである。英語は表音文字の羅列である以上、文字の並び方を読み切って如何なる意味かを読み取っていかなければならないのであると同じことで、カタカナ語はその表音文字の言葉を便宜的にカタカナに置き換えたのであるから、そのカタカナ語をまた即座に元の英語に焼き直して考えるだけの英語力(能力?)を備えておかねば、日本語すら分からなくなって仕舞いかねない事態が何時かは生じるかも知れないと危惧しているのだ。

例えば、私は既に槍玉に挙げたが「コラボ」という言葉に先ず耳から接して「???」という思いにとらわれた。間もなく、それが”collaboration”=「合作、共同制作品」という単語の前半だけを取ったものだろうと察しがついた。しかし、Oxfordには先ず”the act of working with another person or group of people to create or produce ~”とある。これはかなり文語的な言葉で、恥ずかしながら私は使った記憶はないが聞いたことはある程度で、日常会話などには出てこない。それにも拘わらず、手もなくカタカナ語として使ってしまう制作者の語彙には敬意をすら表したくなる。

しかし、ここに指摘したように、偉そうに言えば私でさえ(?)如何なる意味だったかを思い出す必要があるような言葉を日常的に使うことが、英語を学ぼうとする人たちに対してどれほど貢献するのだろうか。カタカナ語化に「合作」か「共同制作」という漢字を使った熟語を排除するだけの意義や意味があるのだろうかと、テレビ局や新聞社に問いかけてみたいのだ。国語の破壊には成らないのだろうかともお伺いしてみたい。

主張したかったことは「表音文字の世界に居続ける為に必要なことは、与えられた文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということだったのだ。換言すれば、「表音文字の世界に馴れるのは容易ではなかった」のだった。しかも、表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、ウッカリしていると意味を取り違える危険性もある。

ハングルのように漢字の使用を排除してしまえば「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形だというのは困ったものだと思うのだ。英語にはこのような危険性は極めて少ないとは思うが、カタカナ語には基になっていただろう英語の単語を見つけ出してその意味を考えねばならないという厄介な問題がありはしないか。それは日本語の表音文字化の第一歩ではないかと恐れているのだ。

時々、私はカタカナ語を使いたくない為に英語のままで書きたいと思うことすらある。その例には忌み嫌っている「セキュアラテイー」であるべきはずの”security”を「セキュリティー」のようにカタカナ語化してしまった愚かな例がある。だが、私が試みていることは所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティー」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革には容易に進展していかないのだと思っている。

私がW社に転身したばかりの頃に東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人BJ氏はは「日本語で話している時に、英語を英語の発音のままで入れるのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と教えられた。これには賛成だ。だが、私は死んでも「セキュリティ」とは言いたくはないし、”the Major League”は絶対に「メジャーリーグ」ではないし、「自己ベスト」のような漢字交じりの合成語も嫌悪するものだ。私は日本語に和製英語(造語)のようなカタカナ語をこれ以上増やして表音文字化を進めるのには絶対に反対なのだ。