カタカナ語をお使いになるのは自由だし、当方に妨げる理由もないが:
一昨日の「国語を乱す妙なカタカナ語を広めたのは誰だ」は長過ぎた憾みが残ったし最後までお読み居丈なかった過渡期ぐる。また、アクセスも少なかったので、ここに敢えて例を採り上げたところから先を再録するので、是非ご一読賜りたいと思う。異議がおありならば是非お聞かせ頂きたいものだ。
おかしなカタカナ語:
ここで少し憂慮すべき例を幾つか採り上げて、読者諸賢に少しでも危機感というか「おかしさ」を認識して頂こうという無駄な努力に入っていこう。先ずは「フリップ」から。これはテレビ局が創始者で画面に出す表乃至は図表をフリップ(flip)と称しているのだ。この言葉の何処を探しても「表」や「図表」の意味はない。Oxfordには”to turn into a different position with a sudden movement; to make ~ do this”となっている。ジーニアスには「ページ・カードをパットめくる」とある。即ち、「めくる」という動作だ。
1996年に私が某ラジオ局に使って頂くようになった時、プロデューサーさんに「まさかこの局ではフリップなどとは言わないでしょうね」と尋ねると「安心してよ。うちではチャンと“チャート”と言わせてあるから」と答えて貰えた。しかしながら、何時の間にかこれが世間に遍く普及して「フリップ」となってしまった。しかも、天下の代議士さんや参議院議員の方々も全国民の一部が聞いている国会中継でも、平気で「フリップを出して」などとのたまう次第だ。
私は彼等が中学から大学または大学院まで行っている間に「正しい英語とは」を全く学んでこられなかったのだと痛感している。「選挙運動にそれほどかまけてこられたのだったのか」と疑っている。「フリップ」がおかしいと思わない知性に呆れている。あれは正しくは”flip chart”というものがあって、それは”large sheet of paper fixed at the top to a stand so that they can be turned over, used for presenting information at a talk or meeting”とOxfordに解説されている。
もっと解りやすく言えば大きなサイズの紙(業界では全判か全紙等というが)数十枚を天糊(製本用語で上部を糊付けすること)してあるもののことで、私は我が国では余り見かけた記憶がない。会議などでそこに議事というか討議の要旨をフェルトペンなどで書き込んでから切り離して壁などに貼っておけば記録が残るのだ。尤も、パワーポイントだのという文明の利器が登場する前の会議の用具(用紙)だがね。
それを我が国の関係各位は何処でどう何を間違ったのか、前に出てきた言葉の”flip”を「紙のこと」だと思い込み、チャンとした学識経験者であるべき議員さんまでが「フリップ」と言うし、立派な番組の有識者のゲストも「フリップ」愛好者であることは、我が国の英語教育の輝かしくない成果であると断じる。英語(カタカナ語?)さえ使えば格好が良いと思い込むような程度の者を選ぶ民度はそれ以下ではないのか、英語教師の方々。
次は「セキュリティ」と「ノミネート」を。「セキュリティ」が酷すぎるカタカナ表記だとは何度も指摘してきた。”security”の発音記号は”sikjú(ə)rəti”で誰がどう読んでも「セキュアラティ」にしかならないはずだ。元の動詞形の”secure”はカタカナ表記すれば「セキュアー」だろう。その「アー」に”r”が含まれているので、”ity”が付いて「セキュアラティ」となるのが当然だ。それを「セキュリティ」としたい気持ちは解るが、そこに何らの疑問を抱くことなく、嬉々として「セキュリティ」と呼称させるテレビ局の幹部と言わされているアナウンサーたちは学校で何にも学んでこなかったのかと問いたい。
最後に「ノミネート」も切り捨てておく。ピースという漫才なのかお笑いコンビなのか知らないが、その片割れの又吉というのが小説本を出して大当たりしたのは結構だと思う。しかし、三島賞は外れたが芥川賞の候補作に上がったそうだ。それは候補に推薦されたのであって「ノミネート」という必要はないと思う。私は何故に「候補に推薦された」という我が国の言葉を棄てて、ジーニアスには先ず「動詞」として出てくる”nominate”をカタカナ語にして使うのかと問いたい。
難しいことを言えば”nominate”には「推薦する」か「指名する」の意味はあるが、又吉の場合は推薦されたのであるから”He was nominated for 芥川賞.”と受け身であるべきなのだ。それを弁えずしていきなり「ノミネート」では無茶苦茶ではないか。しかも過去形であるべき。ここにも我が国の学校教育の英語の成果が垣間見えるではないか。これでは国語での表現力が低下する一方ではないか。
この他にも、これを使うことをおかしいとは思わないのかという珍妙なカタカナ語は幾らでもある。確か松坂大輔が言い出したと思う「リヴェンジ」も立派な誤用でありながらドンドン広まっている。”revenge”は基本的には他動詞であり、目的語(復讐する相手等)を必要とするが、単なる「仕返し」か「前回グラウンドに忘れ物をしたので取り返しに行く」という意味のことを言いたくて使われている。
一旦最後とは書いたが、矢張り「トラブル」も入れておきたいと思わせられるほど濫用されているのが嘆かわしい。ジーニアスには「心配、苦労、悩みとそれぞれの種、厄介者」とあるが、今やテレビでも何でもこれら以外に「揉め事」から遠くは「品質上の問題」でも全て「トラブル」で括ってしまっているので、聞かされている方からすれば「何ものも特定していない言葉」としか聞こえないのだ。「君らは英和辞典すら持っていないのか」と尋ねたくなる代物だ。
「リヴェンジ」や「トラブル」の一言だけで終わらせては「罪なき一般大衆の日本語での表現力が益々低下するばかりではないかな」と、カタカナ語擁護論者の方々に申し上げて終わる。
真一文字拝