新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

女子W杯サッカーの第一戦観戦記

2015-06-09 18:09:20 | コラム
女子サッカーW杯の第一戦を見て思う:

「だから、あれほど言ったじゃないか」とあらためて言いたい。相手を甘く見ていたのではあるまいな。


スイスに勝ったから良いというものじゃない情けない試合運びだった。佐々木監督の選手起用も疑問だらけだった。結局はこれまでに当方が指摘してきた欠陥が全部悲しいまでに出てしまった内容で、早く終わってくれと念じながら見ていた。話は本筋から外れるが、女性の解説者は選手に甘いことを言い過ぎる。もっと是々非々主義で行け。同情と心中を察しての弁解は何の役には立たない。

選手の使い方の何がおかしいと言って近賀と鮫島を外し、役立たずだと指摘済みの20番(失礼、未だ名前を覚えられない)、菅沢、山根とそれに近い半端者の有吉を使ったこと。あれでも勝てる相手と踏んだのか、それともあの連中が十分に海外で通用すると評価したのか、私には不可解だった。ここでは最善の布陣で相手を完膚なきまでにやっつけてみせるべきではなかったのか。澤を前半だけで引っ込めた理由が訊きたいものだ。

如何なる欠陥が出たかと指摘するのも腹立たしいが、無用な横と後ろへの緩慢なパスを先ず挙げたい。何度もそこを狙われ且つ横取り(「カット」というカタカナ語はおかしい。「インターセプション」が適切だろうが、遺憾ながら高度に過ぎてカタカナ語化されていない)されたのにはウンザリだった。人工芝云々という言い訳もあるだろうが、スイス側にはかかるミスがなかったのは何故か。

次は勘が悪いのか、次ぎに何が起きるかの読みが悪いのか(その昔に「サッカーとは “anticipation” のゲームである」と教えられた)アナウンサーや解説者が言う「セカンドボール」(こぼれ球とでも言え!)を悉くスイスに拾われた。しかもスイスの寄せが早いので、元々下手だったトラッピングの悪さをつかれてコントロール出来ない場面が多過ぎた。人工芝に不馴れ、まさか?

結果的にはスイスが優れたキープ力があって我が方の中途半端な守備を切り裂いて持ち上がってくれた10番が「自分一人でキープして上がってきても最後のシュートまで決めきれるものではない」という言わば懸命な努力と自己過信のお陰で、失点することなく終わったので救われた。あの10番が周りを巧みに使ってチャンスを活かす工夫をすればどうなったか解ったものではないと思って見ていた。スイスも所詮はそこまでのティ-ムだったということかな。

結論としては「あの4年前のあの強力な布陣で出ていかない限り多くは望めない」という当方の持論を悲しいまでに立証しただけだった。即ち、澤を外し、鮫島と近賀を抜かせば、その代わりに数名のなでしこリーグの水準でのヒロインを使えば、所詮はあんなものだという悲しい後継者不足を見せつけられたのだった。それでも勝てたから良いじゃないかと言う向きもあるだろうが。私はもっと高いところを望んでいるのでね。

以上の通りだが、当方には「スイスにも我が方の欠点を十分にスカウティングされたいたのでは」と疑わせられるだけの要素が余りにも多い感があり、これから先が不安だった。それというのは、グループ・リーグは抜けられても、そこから先のトーナメント方式で当たる相手は、今日のように幸運にもPKで勝たせてくれるとの保証がないと思うので言っているのだ。


石原慎太郎君が救急搬送されたと聞いて

2015-06-09 10:33:06 | コラム
石原君は旧制湘南中学の1~3年間は同じ蹴球部員でした。その思い出を:

(1)気配りの石原君:
私が1972年6月まで17年間お世話になった会社(アメリカの会社に転身前のこと、念のため)に10期後で入社してきた湘南高校から学習院大卒の新入社員が挨拶に来て「石原さんが宜しく仰っていました」と言うので、「何処の石原?」と尋ねました。すると「慎太郎さんです」と言うのです。石原君は私の就職先を知っていて「そこに就職するのならば、彼がいるから忘れずに挨拶に行け」と指示したのだそうで。彼の気配りと言うなれば予想もしなかった同期生の友情に感謝しました。そういう良い奴なのです、彼は。

当時の石原君は同期以下の蹴球部員を集めてサッカーのティームを結成し、そのオウナーとして楽しんでいたのだそうです。その新入社員は石原サッカー軍団の一員だったと知りました。実は、後年に私もそのそのティームと慶応高校OBのティーム(私の実弟は慶応高校からのサッカー部員だった)とのゲームに、慶応側の助っ人で出場して旧交を温めたことがありました。

(2)同期会で:
記憶が正しければ1991年だったかに、藤沢市の湘南高校で開催された同期会(クラス会に非ず)に彼は自分で車を運転して参加しました。服装は紺のダブル・ブレストのブレザーにグレーのパンツ(かチノパン)だったかで、代議士のバッジは外していました。私にはバッジを誇示していない姿勢が印象的でした。しかし、流石に彼に接触する者が少なく、何となく孤独だったのも印象的でした。私は彼から当時華やかだったゴルバチョフ批判を聞いたのを未だに覚えております。

(3)一橋大学サッカー部員だった石原君:
確か「太陽の季節」が受賞した後だったと記憶するのですが、成蹊大学のグラウンドで、既に上智大学サッカー部OBだった私は彼に出会いました。まさか未だサッカーをやっていたとは知りませんでした。そこで「おめー、(作家として)偉いんだってな」と言うと「大したことはね-よ」と照れていたのを未だに覚えております。

以上、代議士として、都知事としての大言壮語いうか乱暴な語り方をする彼の良き一面を申し上げたかった次第です。これは余談の部類ですが、彼と私は旧制中学3年生の時に神奈川県のサッカー大会の少年部に優勝したことがありました。これが彼の湘南時代のサッカー歴の最も輝かしき歴史の一頁でしょう。彼はこの経験を最後に蹴球部を辞めて勉強と絵描きに転じていきました。

石原君の速やかに回復して良かった。