♦️606の1『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)

2017-09-08 19:59:59 | Weblog

606の1『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)

 1969年9月、リビアでは、カダフィ大佐の指揮で新政権が樹立され、かれらはリビアで操業している独立系石油会社に対し、原油公示価格および石油所得税率の引き上げを要求しました。独立系石油会社は当時、リビア産原油に大きく依存していましたので、リビアの要求を大筋で受け入れざるを得ませんでした。
 1970年12月、OPECの第21回総会がベネズエラのカラカスで開かれました。
この会議においては、原油公示価格のさらなる引き上げ、石油の利益に対する所得税率を最低55%へ引き上げるとともに、従来行っていた石油会社に対する値引きを禁止することで、先進諸国によるインフレに伴う産油国側(発展途上国)の購買力の低下を補償する必要がある、などの方針が決議されました。
 これを受けてペルシア湾岸産油6か国が、イランの首都テヘランにおいてメジャーズ(13社)との交渉に入り、その交渉の結果、1971年2月14日にはテヘラン協定(tehran agreement/ teheran agreement)が締結されました。その内容の概略は次のとおりでした。
①ペルシャ湾岸原油の公示価格を一律に1バーレル当たり30セント引き上げる。
②税法上従来認められていた公示価格からの諸控除を撤廃する。
③公示価格を1975年までの毎年1バーレル当たり2.5%プラス5セント引き上げていくこと。
④ペルシャ湾岸6カ国は、本協定の期間中は、他地域の産油国において本協定と異なる事項を適用した場合でも、本協定を上回るものは求めないこととする。
⑤利益に対する所得税率を1975年までに最低55%に引き上げることとする。
 このテヘラン協定の最大の意義は、何であったのでしょうか。それは、OPECが国際石油市場における全般の、もう一方の当事者として認知されたということに他なりません。これを受けて、1971年4月、リビアはメジャーズとの間に「トリポリ協定」を締結しました。
 また、テヘラン協定は1975年までのペルシャ湾岸産の石油の公式価格を固定させようというものでしたが、1971年8月のいわゆる「ニクソン・ショック」以来の度重なる米ドルの切り下げ、国際通貨変動に対処して、1972年1月20日にテヘラン協定の補正としてジュネーブ協定、さらには新ジュネーブ協定が結ばれ、アメリカを中心とする国際通貨の変動に伴って米ドル表示の公示価格をその都度変動させることになりました。 続いて、1972年12月になると、もう一つの大きなOPECの攻勢が実を結ぶことになります。それは、1968年6月のOPEC総会で石油利権への経営参加という考え方が初めて示されたのに始まります。その後、この考えはさらに具体化され、1972年1月からメジャー側との交渉が始まりました。メジャーズはこれに対してはなかなか譲歩しようしませんでした。なぜなら、この潮流の拡大が続けば、やがて産油国側との石油利権を対等の立場で決めていくこともあやうくなるであろうことを見通していたからです。しかし、ここでも結局、メジャー側が譲歩を余儀なくされ、1972年12月に、既存の石油利権のうち25%分を産油国のものとして認めること、そして1983年まで産油国側の経営参加率を51%にまで引き上げることで交渉がまとまりました。これが「リヤド協定」と呼ばれているものです。

(続く)

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