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医療における看護についての雑感(4)

2005-12-24 10:03:37 | 折々の随想
先週は、「社会的な諸機能を担ったり修復に応じる仕事」に携わっている看護師、という観点からの、バーンアウトを醸成する各条件について見てきました。

今週は、「相互交流によって成り立つ仕事」という側面から、同様な問題を考えていきます。12月10日には、この仕事を別名「感情労働」という風に書きましたが、相互交流というのは、何も趣味のサークルでの交流のような「気軽な交流」ではなく、まさに看護においては、患者の感情と看護師の感情のぶつかり合いがあると言えます。今、思わず「ぶつかり合い」と書いてしまいました。ここのところをもう少し掘り下げて考えてみます。医療における、医療者と患者の相互の位置関係についてまず考えてみましょう。次の3つの視点があることは容易に想像できます。

1.医療者が患者の上位に立つ位置関係:

 いわゆる医療におけるパターナリズムです。患者はどの医療者を選ぶかも含めて、全くの受け身に立ちます。医療者は自らの考えを中心に医療を進めていきます。伝統的な日本の医療は未だにこうしたものでしょうか。

2.医療者と患者が「平等に見える」位置関係:

 「平等に見える」、とわざわざ括弧に入れたのは、いわゆる情報の非対称、権力関係の圧倒的な差が医療においては厳然と存在するため、平等な関係はそもそもあり得ないためです。従って、ここで言っている平等は、いわば擬制としての平等とお考え下さい。

3.医療者が患者と「一体化」する位置関係:

 この一体化も上記と同様な意味で擬制的関係ですので括弧付きです。この位置関係が、看護師の仕事を感情労働たらしめているものです。

以上の3つにカテゴリーを分けてみましたが、3番目の代わりに1番目の逆の、患者が医療者の上位に立つ関係というのが、ロジカルには考えられますが、これは江戸時代の藩主お抱えの医師を見ても、医療行為そのものにおいては、医師(医家といった方が良いかもしれません。)に絶対的な権限が与えられております。藩主に対する治療は便宜を最大限に配慮しているに過ぎません。従って、患者が医師の上に立つ関係というのは、実質的にはあり得ません。

さて、本題のバーンアウトに戻ります。この3つの位置関係において、看護師がバーンアウトするのは、2と3の位置関係にある場合でしょう。1に徹すれば、医療機関は効率の良い近代的な工場と何ら変わらない「医療工場」に変貌していきますので、その過程では本来の感情労働的側面が、徐々に剥がれ落ちていくものと思われます。喩えれば、アウシュビッツに働くナチス軍兵士のような心情に陥っていくとも言えます。そうでなければ300万人の罪なき人々を殺戮し続けることはできません。人間はある社会関係のなかでは、だれでもこのように変貌しうる存在である、ということは肝に銘じておく必要があります。筆者がいわゆる「偽善者また偽善的行為」を生理的に嫌う理由は、このあたりにもあります。「一見、立派なことをのたまう方は、まず疑ってかかる」という、嫌な性格といえば性格です。

話は、少々逸れますが、今回の耐震強度の偽装問題、偽装したのは姉歯設計事務所やHUSERだけとお考えの方は少数派だとは思います。これは実は氷山の一角ではないかと、皆さん勘で思っている筈です。それを、今回の関係者を訴追すれば事は解決すると考えている(一部の政治家やジャーナリズムを含む)方々も、別な意味で一流の偽善家ともいえるかと思います。その道の専門家に言わせれば、15%~20%のマンションを含む鉄筋コンクリートの高層住宅(3階建て以上)に、今回のような偽装があるのではと言われております。しかも、2階建て以下の住居は耐震性、耐久性などに対する審査はそもそも建築確認申請に対して行っていない、という驚愕すべき事実もあります。2割が不良資産化するということは、約1000万戸の建物の資産価値が暴落するということになります。90年代のバブル崩壊の騒ぎどころではありません。このあたりの闇をよくご存じの、業界からの献金に甘い汁を吸い続けている、主として自民党の面々が、これ以上の事態の解明に後ろ向きになっている真の理由でしょう。マンション業界には、じわじわとこのことが効いてくるはずです。マンション業界への株の投資については慎重になった方が、よろしいかと思います。

さて、バーンアウトの問題ですが、前に、一見「真面目」な看護師ほどバーンアウトしやすいと書きました。この真面目という意味には、1でいう医療のパターナリズムの影を引きずっているという前提もあります。そこまで「真面目でない」看護師の方が、2の擬制的な平等の関係を患者との間に築きやすいということですね。しかし、この関係はあくまで擬制的関係です。どうしても看護学校教育で叩き込まれた看護の理想からいっても、1の関係へと「転落」できない看護師は、3の患者と一体化する関係へと進んで行かざるを得ないのではないでしょうか。そこに相互交流によって成り立つ仕事としての、看護師の仕事の本質がかいま見えるからです。そして、この一体化においてこそ、看護師のいわゆるアイデンティティと呼ばれる、「自らの仕事に対し献身する精神」とでもいうべきものが立ち上がっていくものと思われます。

そこで問題は、この一体化をいったいどうやって成し遂げるか、どういう機序がそこに存在しなければならないかということです。ここは大事な点ですから、少々長くなって恐縮ですが、もう少し付き合って下さい。

人は重篤な病気になればなるほど、「何故自分だけがこんな目にあうのか?」との気持ちを抱いてしまうもののようです。冷静に考えれば、自分だけがということはありませんが、患者からするとそれまでの生活において「健康体」であった事実を前提に、ついこうした言葉を吐いてしまうのでしょう。また「健康体」と括弧に入れてしまいましたが、よく考えると、この世に健康体などというものが果たしてあるのでしょうか。あるとしても、それをどうやって定義すれば万人が理解できるものになるのでしょうか。これもやはり擬制なのです。人は生まれたときから死と隣り合わせに生きている存在ですね。これは自らの死を考えることが出来るという、動物にはない人間だけが持つ特性です。ここまで降りていかないと、「何故自分だけがこんな目にあうのか?」という患者の言葉を、看護師が汲み取りその患者と一体化していくことは難しいようです。別の言い方をすれば、患者が死を受容するプロセスと一体化していかないと、看護の仕事においては、自らの「偽善、偽装」行為としての医療における看護の仕事との軋轢が段々に昂じて、それがついにはバーンアウトに繋がっていくものと、筆者は考えます。そうした一体化を図るための契機はどこにあるのかというのが、非常に重い課題ではあり、筆者の能力を超えておりますが、あえて仮説を立ててみます。

先ほど1の位置関係のおいて、患者は受け身に立っていると書きました。この受け身で医療を受けるという関係をどこかで逆行させ、能動的なものに変えない限り、身体が「修復され回復する見込みがある」患者は別として、いずれ死に至る病を罹った患者を救うことは出来ないのではないかと思います。ここで言う能動的ということは、患者に「病に負けないように頑張れ」と励ますことでは決してありません。それは逆効果です。自分ではどうしようもない医療という現場において、自分で自分を励ましてもどれほどの事もできない位は、これまでのパターナリズムの伝統からも誰も本当は分かっております。かといって、何も治療の現状について理解できない非専門家の患者にとっては、直る見込みがないか非常に少ない場合でも、何とかして「健康体」に戻りたいという意思を持つことは当然です。こうした意思をもっている間は、患者にとっての最大の関心は、自分にとって最善の医療が施されるかどうかですね。その最善の医療をもってしても、余命が後一年となれば、これは誰でも徐々に死を受け入れざるを得ません。その時、死を受容するプロセスにおいて、患者、そして家族と、医療にあたる人間が如何に一体化できるか、ということがバーンアウトにかかわっているものと考えます。そうした「最善の医療」を良い意味で擬制的に構築することが、バーンアウトしないための条件であると思われます。

次回は、この重い課題について、ジャック・アタリの言う「人々を引き寄せる象徴としての仕事」という側面において、「最善の医療」により、患者の心的過程を「能動的受容」にどう転換させるかという観点から、看護師のバーンアウト問題を更に見て行きたいと思います。

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