今日はいよいよ行動ファイナンス理論の実践原則の最終回です。テーマは「認知の不協和をいかに解消するかの7原則」です。
認知の不協和とは、自分に都合良い情報を探し出し、それを過大評価してしまう性向のことだそうです。人は、都合の悪い情報は逆に無視してしまいます。何だか、イエスマンだけを揃えた会社の社長のようですね。そのような裸の王様にならないための原則が下記の7原則というわけですね。例によって、アドリブと気付け薬が少々入っていますのであまり真に受けないように。
■認知の不協和を如何に解消するかの7原則
(1)手持ちのポジションに集中せよ。「~たら」、「~れば」は考えないこと。
これは筆者も日々性懲りもなく思わず考えてしまいます。昨日あの値段で売っていたらとか、この銘柄の代わりにあれを買っていれば今頃ストップ高なのに、などです。しかし過ぎ去った過去は戻ってきません。そして二度と同じ状況には会うことがないのが複雑系の市場というものです。人生も同様です。「この女と結婚していなければ」などと夢想しても、過ぎ去った時間は返ってこないのです。それどころか、なぜか以心伝心で悪妻にその心理状態が伝播してしまい、その夜悪夢にうなされるだけです。要はこのような愚痴ともいえる「反省」をしたところで、結局は自分自身に嫌気がさすだけです。そうであれば、いっそのこと、「たら、れば」は一切考えないようにした方がよっぽど精神状態に良いでしょう。手持ちのポジションに集中するとは、今の悪妻(持株)に集中すると言い換えても良いかも知れません。それほど相場も人生も理不尽なものと考えることで、逆説的ですが、思わぬ御利益があるかも知れません。それは、「集中することの快感」のようなものであり、「あばたもえくぼ」という古今東西の不可思議な現象との遭遇かも知れません。
(2)ポジションを清算するか、放置するか迷ったときは、購入価格を意識しないこと。以前の取引結果に基づいて意志決定してはならない。
筆者がいつも考えてしまうのは、今売ったらいくらの損になる。昨日の引けに売っていれば、これこれの損で済んだのに、何で売らなかったのだろう。待てよ、もう1日だけ待てば、これこれ上がるかも知れない、などと思わず無意識のうちに購入価格を気にしていることです。そのように考えてずるずると損失が拡大していく様子を、先人は「塩漬け」と名づけました。塩を使って漬けているので腐ることはないと皆さんお考えかも知れませんが、実は日々きちんと腐っているのです。その証拠に換金するときは、腐った部分は切り取られてしまっているでしょう?ここまで考えて思い出しました。ナメクジは塩に溶けることを。すると、実態はナメクジ=購入価格ということになります。筆者なら気持ち悪くてその日に投げ出します。ナメクジをずっと抱え込んでいる投資家の心理とはいかなるものか?
(3)利益が出ているときは、自分のポジションに不利な市場の動きに慌てないこと。健全なトレンドに調整はつきものである。
小幅の調整に驚いて、過度に早く利益を実現するのは慎むことということですが、とにかく人は、利益が出ている時は誰でも臆病になっているということを思い出して下さい。損が出ている時は逆にリスク選好となります。なぜ利益が出ていれば臆病になるのでしょうか? これは人間の「業」というものですが、人は誰でも自惚れ意識が強いものです。利益が出ている時に早く確定すれば、自分の力でこれだけ稼いだという事実がそれだけ早く手に入ります。ところが、損失が出ている時は、損切りを早くすればするだけ、自分の負けをそれだけ早く認めてしまう(自惚れるどころか、自尊心が傷つく)ことになります。その時人は何故か、「起死回生」という言葉を思い出したりします。一発逆転満塁ホームランのようなものですね。これが本当に実現したとすると、人生、これに勝る快感はありません。ヒーローになるといっても過言ではありません。しかし、市場は冷淡で理不尽です。そんなあなたの気持ちを忖度して、突然上がり出すなどということはありません。たまたま別の理由によって上がることがあるだけです。それを自分の力だと勘違いをしてしまうところが、これまた「業」というものですね。
(4)機会を見逃したくないという理由で市場に戻ってはならない。もし放っておけないのなら、一番最近の取引を忘れること。それでも、また新しい取引を始めたいと思うだろうか?
よく身に覚えがあるのは、ちょっとばかり儲けた銘柄にまた欲を出して参戦することです。儲けたということは、買った時点から上がったということですね。仮に下がっていたら、それは下がると思って売ったとも言えますね。初めて買う時は、ちょっと高すぎるから止めよう、と考える人でも、成功体験があるため、また勝てるとつい思いこんでしまうものなのです。つまり、認知の不協和の罠ですね。ところが、ちょっと高いと考える値段で自分が買ったということは、他の人もちょっと高いと考えているのを忘れないで下さい。つまり、買ったはいいが売る相手がいないということになりかねません。そこに、変な株式ジャーナリズムが暗躍する余地が生まれます。ラスベガスのカジノでも何でも、最初は勝たせてその気にさせて、最後に身ぐるみ巻き上げる、という例の古典的ギャンブル胴元戦術に似ているのが、株式市場と思うくらいがちょうど良いかも知れません。
(5)損失の出ている取引を正当化したり、自分のポジションをよく見せるために、第3者の意見を利用してはならない。
これは、粉飾決算をするような会社がよく使う手ですね。カネボウもこれで身を滅ぼしました。今話題のアスベストも、アスベスト協会のPRビデオに大学教授の権威をうまく利用しました。世の中はこのように一皮めくればどろどろした悪行に充ち満ちているからと言って、何も手前の金で買った「株」まで、そこまでの悪に引きずり込むことはないでしょう。株そのものには何の罪もありません。そもそも人がなんと言おうと、その株を最初に選んだのは自分ですから。その結果、ソクラテスのようにクサンチッペという「悪妻」を選んだからといって、世のソフィスト(詭弁家)の助けを借りて、「悪妻」を「良妻」に変えようたって、そうは問屋が卸しません。
(6)自分が聞きたいことを言ってくれるという理由で、アナリストを選んではならない。自分には合っていないと思えても、鋭い分析を積み重ねるアナリストを探せ。
今の金融市場には、「鋭い分析を積み重ねる」アナリストは果たして何処にいるのでしょうか?学問の世界なら、白川静さんのような方もいるでしょう。ノーベル賞学者を揃えたからと言ってLTCMは破綻したくらいですから市場は甘くはありません。できることは、様々な意見を持つその道のプロに出会ったら、あまり選り好みをしないで耳を傾けるということでしょうか。オーケストラでも様々な楽器が寄り集うことにより、あれだけの表現が可能となるのです。しかし、指揮者不在のオルフェウス室内管弦楽団のような例では、意見の集約に結構な時間をかけて音の表現に関する「共通認識」を作り上げる、つまり、認知の不協和とならないよう隠れた努力がされていると聞いております。その点、持株の「指揮者」はあなた自身ですから、異種混交の意見さえ集まってくれば、不協和音を作り出すのも、出さないのも、結局はあなたの責任ということになります。
(7)金融市場に友人はいない。損失を認めたくない人たちが一時的に連帯するにすぎない。
それはその通りでしょう。掲示板など見ていると一時的な連帯はよく見られます。かといって、その連帯する人々が友人かというと、そんなことはまずありえません。不思議なことに、「損失を認める人たち」が掲示板で連帯するのは、あまり見たことはありません。多分、一旦損失を認めてしまったら、そこで終わりとなり、何も連帯をする必要性がないためでしょうか? 例えて言えば、熟年離婚をされたくない男達は、そのためのノウハウを共有するために「連帯」することはあっても、既に熟年離婚をされてしまった男達が集まって連帯することがないのは、結局は「後の祭り」だからです。祭りの後は寂しいものです。しかし、幸いかな、株式市場においては、絶えず祭りが繰り返されているようです。ボロ株祭りだとか、萌え祭りだとか。参加したい人は参加するのは自由ですが、余計なことですが、御輿を担ぐ方には回らない方がいいですよ。しかし、担ぐ人がいなければそもそも御輿が成り立たず、その結果、祭りも成り立たないのが、古今東西変わらぬ真理というものでしょうか。
以上で、「トレーディングで成功する41項の原則」シリーズを終わります。「膨大な経験と血と汗と、破産と富の結果を、論理的に検証し、まとめられた原則」と言われているのが、この41の原則のようですが、ちょっと原則にしては多いと個人的には思います。会社などでも、「社是」なるものはせいぜい3つか4つです。それでも、そんなことを心に浮かべながら社員が一生懸命仕事をしている訳ではありません。同じように、41もの原則をもれなく記憶し心してトレーディングをやれば、果たしてトレーディングで成功するものでしょうか? もしそうなら、段々と勝者が多くなってしまい敗者がいなくなります。そうなると、そもそもゼロサムゲームを旨とするトレーディングの世界が成り立たなくなります。 それでは、このシリーズで書いたものは一体全体何だったのか、ということになりますが、人の歴史は、五箇条のご誓文や17条の憲法を持ち出すまでもなく、反省と誓いの歴史で彩られているのが常です。このようにまとめたものを見ると、何となく心が落ち着くとすれば、そうした先人達の知恵を我々人類は遺伝子レベルで引きずっていると言えます。
というわけで、真面目に解説するのも少々気が引けるものですから、少し斜交いに構えた表現も混入しました。お役に立てましたでしょうか? 「なるほど!」、と膝を叩くような原則が見つかりましたでしょうか? 念のため申し添えておきますが、筆者の妻が「悪妻」で筆者に「熟年離婚」を迫っている訳では(幸いにして今のところ)ありませんので誤解のないように。
認知の不協和とは、自分に都合良い情報を探し出し、それを過大評価してしまう性向のことだそうです。人は、都合の悪い情報は逆に無視してしまいます。何だか、イエスマンだけを揃えた会社の社長のようですね。そのような裸の王様にならないための原則が下記の7原則というわけですね。例によって、アドリブと気付け薬が少々入っていますのであまり真に受けないように。
■認知の不協和を如何に解消するかの7原則
(1)手持ちのポジションに集中せよ。「~たら」、「~れば」は考えないこと。
これは筆者も日々性懲りもなく思わず考えてしまいます。昨日あの値段で売っていたらとか、この銘柄の代わりにあれを買っていれば今頃ストップ高なのに、などです。しかし過ぎ去った過去は戻ってきません。そして二度と同じ状況には会うことがないのが複雑系の市場というものです。人生も同様です。「この女と結婚していなければ」などと夢想しても、過ぎ去った時間は返ってこないのです。それどころか、なぜか以心伝心で悪妻にその心理状態が伝播してしまい、その夜悪夢にうなされるだけです。要はこのような愚痴ともいえる「反省」をしたところで、結局は自分自身に嫌気がさすだけです。そうであれば、いっそのこと、「たら、れば」は一切考えないようにした方がよっぽど精神状態に良いでしょう。手持ちのポジションに集中するとは、今の悪妻(持株)に集中すると言い換えても良いかも知れません。それほど相場も人生も理不尽なものと考えることで、逆説的ですが、思わぬ御利益があるかも知れません。それは、「集中することの快感」のようなものであり、「あばたもえくぼ」という古今東西の不可思議な現象との遭遇かも知れません。
(2)ポジションを清算するか、放置するか迷ったときは、購入価格を意識しないこと。以前の取引結果に基づいて意志決定してはならない。
筆者がいつも考えてしまうのは、今売ったらいくらの損になる。昨日の引けに売っていれば、これこれの損で済んだのに、何で売らなかったのだろう。待てよ、もう1日だけ待てば、これこれ上がるかも知れない、などと思わず無意識のうちに購入価格を気にしていることです。そのように考えてずるずると損失が拡大していく様子を、先人は「塩漬け」と名づけました。塩を使って漬けているので腐ることはないと皆さんお考えかも知れませんが、実は日々きちんと腐っているのです。その証拠に換金するときは、腐った部分は切り取られてしまっているでしょう?ここまで考えて思い出しました。ナメクジは塩に溶けることを。すると、実態はナメクジ=購入価格ということになります。筆者なら気持ち悪くてその日に投げ出します。ナメクジをずっと抱え込んでいる投資家の心理とはいかなるものか?
(3)利益が出ているときは、自分のポジションに不利な市場の動きに慌てないこと。健全なトレンドに調整はつきものである。
小幅の調整に驚いて、過度に早く利益を実現するのは慎むことということですが、とにかく人は、利益が出ている時は誰でも臆病になっているということを思い出して下さい。損が出ている時は逆にリスク選好となります。なぜ利益が出ていれば臆病になるのでしょうか? これは人間の「業」というものですが、人は誰でも自惚れ意識が強いものです。利益が出ている時に早く確定すれば、自分の力でこれだけ稼いだという事実がそれだけ早く手に入ります。ところが、損失が出ている時は、損切りを早くすればするだけ、自分の負けをそれだけ早く認めてしまう(自惚れるどころか、自尊心が傷つく)ことになります。その時人は何故か、「起死回生」という言葉を思い出したりします。一発逆転満塁ホームランのようなものですね。これが本当に実現したとすると、人生、これに勝る快感はありません。ヒーローになるといっても過言ではありません。しかし、市場は冷淡で理不尽です。そんなあなたの気持ちを忖度して、突然上がり出すなどということはありません。たまたま別の理由によって上がることがあるだけです。それを自分の力だと勘違いをしてしまうところが、これまた「業」というものですね。
(4)機会を見逃したくないという理由で市場に戻ってはならない。もし放っておけないのなら、一番最近の取引を忘れること。それでも、また新しい取引を始めたいと思うだろうか?
よく身に覚えがあるのは、ちょっとばかり儲けた銘柄にまた欲を出して参戦することです。儲けたということは、買った時点から上がったということですね。仮に下がっていたら、それは下がると思って売ったとも言えますね。初めて買う時は、ちょっと高すぎるから止めよう、と考える人でも、成功体験があるため、また勝てるとつい思いこんでしまうものなのです。つまり、認知の不協和の罠ですね。ところが、ちょっと高いと考える値段で自分が買ったということは、他の人もちょっと高いと考えているのを忘れないで下さい。つまり、買ったはいいが売る相手がいないということになりかねません。そこに、変な株式ジャーナリズムが暗躍する余地が生まれます。ラスベガスのカジノでも何でも、最初は勝たせてその気にさせて、最後に身ぐるみ巻き上げる、という例の古典的ギャンブル胴元戦術に似ているのが、株式市場と思うくらいがちょうど良いかも知れません。
(5)損失の出ている取引を正当化したり、自分のポジションをよく見せるために、第3者の意見を利用してはならない。
これは、粉飾決算をするような会社がよく使う手ですね。カネボウもこれで身を滅ぼしました。今話題のアスベストも、アスベスト協会のPRビデオに大学教授の権威をうまく利用しました。世の中はこのように一皮めくればどろどろした悪行に充ち満ちているからと言って、何も手前の金で買った「株」まで、そこまでの悪に引きずり込むことはないでしょう。株そのものには何の罪もありません。そもそも人がなんと言おうと、その株を最初に選んだのは自分ですから。その結果、ソクラテスのようにクサンチッペという「悪妻」を選んだからといって、世のソフィスト(詭弁家)の助けを借りて、「悪妻」を「良妻」に変えようたって、そうは問屋が卸しません。
(6)自分が聞きたいことを言ってくれるという理由で、アナリストを選んではならない。自分には合っていないと思えても、鋭い分析を積み重ねるアナリストを探せ。
今の金融市場には、「鋭い分析を積み重ねる」アナリストは果たして何処にいるのでしょうか?学問の世界なら、白川静さんのような方もいるでしょう。ノーベル賞学者を揃えたからと言ってLTCMは破綻したくらいですから市場は甘くはありません。できることは、様々な意見を持つその道のプロに出会ったら、あまり選り好みをしないで耳を傾けるということでしょうか。オーケストラでも様々な楽器が寄り集うことにより、あれだけの表現が可能となるのです。しかし、指揮者不在のオルフェウス室内管弦楽団のような例では、意見の集約に結構な時間をかけて音の表現に関する「共通認識」を作り上げる、つまり、認知の不協和とならないよう隠れた努力がされていると聞いております。その点、持株の「指揮者」はあなた自身ですから、異種混交の意見さえ集まってくれば、不協和音を作り出すのも、出さないのも、結局はあなたの責任ということになります。
(7)金融市場に友人はいない。損失を認めたくない人たちが一時的に連帯するにすぎない。
それはその通りでしょう。掲示板など見ていると一時的な連帯はよく見られます。かといって、その連帯する人々が友人かというと、そんなことはまずありえません。不思議なことに、「損失を認める人たち」が掲示板で連帯するのは、あまり見たことはありません。多分、一旦損失を認めてしまったら、そこで終わりとなり、何も連帯をする必要性がないためでしょうか? 例えて言えば、熟年離婚をされたくない男達は、そのためのノウハウを共有するために「連帯」することはあっても、既に熟年離婚をされてしまった男達が集まって連帯することがないのは、結局は「後の祭り」だからです。祭りの後は寂しいものです。しかし、幸いかな、株式市場においては、絶えず祭りが繰り返されているようです。ボロ株祭りだとか、萌え祭りだとか。参加したい人は参加するのは自由ですが、余計なことですが、御輿を担ぐ方には回らない方がいいですよ。しかし、担ぐ人がいなければそもそも御輿が成り立たず、その結果、祭りも成り立たないのが、古今東西変わらぬ真理というものでしょうか。
以上で、「トレーディングで成功する41項の原則」シリーズを終わります。「膨大な経験と血と汗と、破産と富の結果を、論理的に検証し、まとめられた原則」と言われているのが、この41の原則のようですが、ちょっと原則にしては多いと個人的には思います。会社などでも、「社是」なるものはせいぜい3つか4つです。それでも、そんなことを心に浮かべながら社員が一生懸命仕事をしている訳ではありません。同じように、41もの原則をもれなく記憶し心してトレーディングをやれば、果たしてトレーディングで成功するものでしょうか? もしそうなら、段々と勝者が多くなってしまい敗者がいなくなります。そうなると、そもそもゼロサムゲームを旨とするトレーディングの世界が成り立たなくなります。 それでは、このシリーズで書いたものは一体全体何だったのか、ということになりますが、人の歴史は、五箇条のご誓文や17条の憲法を持ち出すまでもなく、反省と誓いの歴史で彩られているのが常です。このようにまとめたものを見ると、何となく心が落ち着くとすれば、そうした先人達の知恵を我々人類は遺伝子レベルで引きずっていると言えます。
というわけで、真面目に解説するのも少々気が引けるものですから、少し斜交いに構えた表現も混入しました。お役に立てましたでしょうか? 「なるほど!」、と膝を叩くような原則が見つかりましたでしょうか? 念のため申し添えておきますが、筆者の妻が「悪妻」で筆者に「熟年離婚」を迫っている訳では(幸いにして今のところ)ありませんので誤解のないように。