勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」今日は6回目です。テーマは、「本気かね?」青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。
頭の良さを競い合うような、あるいは知識の量の多さを誇示してくるような、どんな批判の言葉よりも、この「本気かね?」という言葉は怖い、と勢古さんも言っていますが、これは、吉本が蓮実重彦との対談でつぶやいた言葉です。私自身は、リタイアーしてから少々「学問の世界」なるものにかかわっているのですが、そこでは、過去・現在のその領域の学者、専門家の学説をつなぎ合わせ、深く読み解き、自ら「独創性」ある理論を考え出す、そして論文を書くにあたっては何よりも各章の論理的な一貫性を重視する、といったことが要求されております。ヘーゲルのミネルヴァの梟の喩えの通り、そのような「思考遊び」より、現実は先に行っていることがよくあります。なるほど、とは思うのですが、「そんなこともったいぶって理論立てて説明するまでもなく、誰でも自然にうまくやって生きてるよ」と心の中で言いたくなります。
つまり、学問の世界に限ったことではありませんが、よくある自己満足っていうやつでしょうか。これはうっかりするといつでも誰でも陥ります。そこに、人から少々褒められでもしようものなら、人間すっかり天に舞い上がってしまいます。そして益々現実とは遊離した理論作り(会社でいうと、企画書作りなど)に邁進するものなのですね。そこに、吉本のような人間から、勢古さんに言わせると、「野戦(実業)の言葉」として、「おまえさんそれ本気かね?」と呟かれると、誰でも一瞬言葉を失い、肝を冷やすのではないでしょうか。
吉本が、「料理の鉄人」という番組について、「本気」が「ほんと」として使われている次のような言葉もあります。
「審査員もまた食通だから、作った料理専門家を傷つけないような巧みな評言を呈するのだが、その評言は複雑な味を微妙な言葉を積み重ねて味の実情に迫ろうとする方向に高度化していく。その極まるところ、ときに<ほんとかね>とおもわせるときがある。」(「うまい・まずい」『食べものの話』)
これとは反対に、ものごとを過度に単純化して現実の姿を見えなくしている細木数子や小泉純一郎のような例もあり、この世の中、少々凝った手練手管が横行しているようです。
頭の良さを競い合うような、あるいは知識の量の多さを誇示してくるような、どんな批判の言葉よりも、この「本気かね?」という言葉は怖い、と勢古さんも言っていますが、これは、吉本が蓮実重彦との対談でつぶやいた言葉です。私自身は、リタイアーしてから少々「学問の世界」なるものにかかわっているのですが、そこでは、過去・現在のその領域の学者、専門家の学説をつなぎ合わせ、深く読み解き、自ら「独創性」ある理論を考え出す、そして論文を書くにあたっては何よりも各章の論理的な一貫性を重視する、といったことが要求されております。ヘーゲルのミネルヴァの梟の喩えの通り、そのような「思考遊び」より、現実は先に行っていることがよくあります。なるほど、とは思うのですが、「そんなこともったいぶって理論立てて説明するまでもなく、誰でも自然にうまくやって生きてるよ」と心の中で言いたくなります。
つまり、学問の世界に限ったことではありませんが、よくある自己満足っていうやつでしょうか。これはうっかりするといつでも誰でも陥ります。そこに、人から少々褒められでもしようものなら、人間すっかり天に舞い上がってしまいます。そして益々現実とは遊離した理論作り(会社でいうと、企画書作りなど)に邁進するものなのですね。そこに、吉本のような人間から、勢古さんに言わせると、「野戦(実業)の言葉」として、「おまえさんそれ本気かね?」と呟かれると、誰でも一瞬言葉を失い、肝を冷やすのではないでしょうか。
吉本が、「料理の鉄人」という番組について、「本気」が「ほんと」として使われている次のような言葉もあります。
「審査員もまた食通だから、作った料理専門家を傷つけないような巧みな評言を呈するのだが、その評言は複雑な味を微妙な言葉を積み重ねて味の実情に迫ろうとする方向に高度化していく。その極まるところ、ときに<ほんとかね>とおもわせるときがある。」(「うまい・まずい」『食べものの話』)
これとは反対に、ものごとを過度に単純化して現実の姿を見えなくしている細木数子や小泉純一郎のような例もあり、この世の中、少々凝った手練手管が横行しているようです。