今日は、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本からの感想の抜粋、4回目です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。今回、赤字は勢古さんの文章。
不登校について考えるときにぼくがいつも思い出すのは、子どもの頃、教室に流れていた嘘っぱちの空気です。偽りの真面目さ、偽りの優等生、偽りの品行方正-先生が求めているのは、しょせんそういったもので、見かけ上だけ、建前だけ申し分ない生徒でいればそれでいいのです。(略)ぼくはそれを、「偽りの厳粛さ」と呼んでいますが、とにかく先生と生徒の両方で嘘をつきあって、それで表面上は何事もなくうまくいっているような顔をしているという、そういう空気がたまらなく嫌でした。(「ひきこもれ」)
この箇所だけは、勢古浩爾の文章が的を射ている例を多く出されているので、引用させていただきます。
その「偽りの厳粛さ」をもっと一般的に、形式主義、といいかえていいか。たとえば、定時になっても帰りにくい社内の雰囲気。みんながまだ仕事をしているのにお前は帰るのか、という有言・無言の圧力。これは仕事だ、つまらぬ自尊心なんか捨てちまえ、という聖仕事主義者。成果主義を標榜しながら、表面だけそつがなければそれだけで評価されてしまうという形式的査定。親睦というウソで固めた社内イベントへの参加強要。何の実もないのに延々と続く前例踏襲と、責任を負いたくないばかりに新規の行為を回避しようとする前例主義。腹の底を隠しながらの、上辺だけもっともらしいだけの業界の会合。報道番組司会者のまじめくさった表情、ずらりと並んだコメンテイターたちのもっともらしいコメント。(略)(勢古浩爾)
◇コメント
先週ご紹介したたまらない魅力を持つ珠玉の人たちも、このような偽りの厳粛さを何よりも嫌っているに違いありません。私も大嫌いです。自分の心情をねじ曲げてまで偽りの厳粛さに寄り添うことはしたくありませんでした。そのために、会社の中で不利益を被っても仕方がないと、新入社員の時から腹をくくっていました。幸い私が入社できたのは外資でかなりひらけた会社であったので、飛び出すこともなくこれました。その代わり、仕事そのものにおいては、人並み以上の結果が出るようにしようと心がけるようになっていました。もっとも、要領が悪かったためどの職場に代わっても結構遅くまで働きました。1ヶ月休みなく働いた時は、人と1対1で話をしていても眠気が襲ってくるほどでした。学校に行っていた時の記憶は定かではありませんが、吉本が言うように、何よりも先生に気に入られる答えを無意識のうちにさせられていたのかも知れませんね。世の中は、答えのないことが一杯あるのに、お手本のような答えを考える、そして良い点をとる、そうした偽りの優等生、真面目さ、品行方正は、社会に出たときに役立つかと言えば、決してそうではありません。むしろ弊害にすらなります。なぜなら、チャーンズという人が言っているように、「この状況においてどのように行為するかを判断する技能から、これはどのような状況なのかを判断する技能への一般的なシフト」が、仕事においても何事においても求められているからです。「この状況においてどのように行為するか」というのは、学校においては、与えられた問題にどう答えるか、ということですね。「これはどのような状況なのかを判断する技能」とは、自ら問題を見出す力ということになります。問題が与えられるのを待っている人ばかりでは、いつの時代でも、新しい領野を切り開くことは出来ないでしょう。ひきこもりが増えているということは、学校で嘘っぱちの空気が充ち満ちているばかりでなく、子供に接する時間の多い母親を中心に、家庭まで嘘っぱちの空気に充ち満ちているためでしょうね。多言は要しません。せめて、以下のような吉本の言葉を味わってみて下さい。
人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。(「遺書」)
この世に「幸福なる家族」なんていません。「不幸なる家族」もいない。あるとき幸福でも、次の瞬間不幸になるかもしれない。社会的条件が整っても、個人が幸福であるとはいえないし、社会的な条件が整わなくても、とても幸せということはありうる。(「人生とはなにか」)
人間というのは、男でも女でも、一生のうちに、一緒に住んでもいいと思う人は、必ず一人は現れるものだといえそうです。ただいつ訪れるかは全然わからない。現れるのが80歳のときで、あと1年で死んでしまうかもしれないとしても、それはそれでいいのです。人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。ままならない時間が過ぎていく中で、或る日、天空を仰いで眼を細めて安堵する瞬間があったら、そのときが幸福ではないのかな。(「遺書」)
私の場合、一緒に住んでもいいと思う人が非常に若いころに現れてしまいました。そして、気がついたら37年間も共に住んできました。仕事を辞めてから、日中から何者にも拘束されず、風呂に入って身体から力を抜く瞬間など、「眼を細めて安堵する瞬間」かも知れません。こんなブログを気儘に書いている瞬間も意外と幸福な瞬間かもしれません。こうした気持ちに何故若い頃からなることができなかったのだろう。仕事に時間を取られすぎたと言えば言い訳になりますが、長い間仕事をしなければこのような達観にも至らなかったかもしれません。いやはや人生は意外なことが多い。
不登校について考えるときにぼくがいつも思い出すのは、子どもの頃、教室に流れていた嘘っぱちの空気です。偽りの真面目さ、偽りの優等生、偽りの品行方正-先生が求めているのは、しょせんそういったもので、見かけ上だけ、建前だけ申し分ない生徒でいればそれでいいのです。(略)ぼくはそれを、「偽りの厳粛さ」と呼んでいますが、とにかく先生と生徒の両方で嘘をつきあって、それで表面上は何事もなくうまくいっているような顔をしているという、そういう空気がたまらなく嫌でした。(「ひきこもれ」)
この箇所だけは、勢古浩爾の文章が的を射ている例を多く出されているので、引用させていただきます。
その「偽りの厳粛さ」をもっと一般的に、形式主義、といいかえていいか。たとえば、定時になっても帰りにくい社内の雰囲気。みんながまだ仕事をしているのにお前は帰るのか、という有言・無言の圧力。これは仕事だ、つまらぬ自尊心なんか捨てちまえ、という聖仕事主義者。成果主義を標榜しながら、表面だけそつがなければそれだけで評価されてしまうという形式的査定。親睦というウソで固めた社内イベントへの参加強要。何の実もないのに延々と続く前例踏襲と、責任を負いたくないばかりに新規の行為を回避しようとする前例主義。腹の底を隠しながらの、上辺だけもっともらしいだけの業界の会合。報道番組司会者のまじめくさった表情、ずらりと並んだコメンテイターたちのもっともらしいコメント。(略)(勢古浩爾)
◇コメント
先週ご紹介したたまらない魅力を持つ珠玉の人たちも、このような偽りの厳粛さを何よりも嫌っているに違いありません。私も大嫌いです。自分の心情をねじ曲げてまで偽りの厳粛さに寄り添うことはしたくありませんでした。そのために、会社の中で不利益を被っても仕方がないと、新入社員の時から腹をくくっていました。幸い私が入社できたのは外資でかなりひらけた会社であったので、飛び出すこともなくこれました。その代わり、仕事そのものにおいては、人並み以上の結果が出るようにしようと心がけるようになっていました。もっとも、要領が悪かったためどの職場に代わっても結構遅くまで働きました。1ヶ月休みなく働いた時は、人と1対1で話をしていても眠気が襲ってくるほどでした。学校に行っていた時の記憶は定かではありませんが、吉本が言うように、何よりも先生に気に入られる答えを無意識のうちにさせられていたのかも知れませんね。世の中は、答えのないことが一杯あるのに、お手本のような答えを考える、そして良い点をとる、そうした偽りの優等生、真面目さ、品行方正は、社会に出たときに役立つかと言えば、決してそうではありません。むしろ弊害にすらなります。なぜなら、チャーンズという人が言っているように、「この状況においてどのように行為するかを判断する技能から、これはどのような状況なのかを判断する技能への一般的なシフト」が、仕事においても何事においても求められているからです。「この状況においてどのように行為するか」というのは、学校においては、与えられた問題にどう答えるか、ということですね。「これはどのような状況なのかを判断する技能」とは、自ら問題を見出す力ということになります。問題が与えられるのを待っている人ばかりでは、いつの時代でも、新しい領野を切り開くことは出来ないでしょう。ひきこもりが増えているということは、学校で嘘っぱちの空気が充ち満ちているばかりでなく、子供に接する時間の多い母親を中心に、家庭まで嘘っぱちの空気に充ち満ちているためでしょうね。多言は要しません。せめて、以下のような吉本の言葉を味わってみて下さい。
人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。(「遺書」)
この世に「幸福なる家族」なんていません。「不幸なる家族」もいない。あるとき幸福でも、次の瞬間不幸になるかもしれない。社会的条件が整っても、個人が幸福であるとはいえないし、社会的な条件が整わなくても、とても幸せということはありうる。(「人生とはなにか」)
人間というのは、男でも女でも、一生のうちに、一緒に住んでもいいと思う人は、必ず一人は現れるものだといえそうです。ただいつ訪れるかは全然わからない。現れるのが80歳のときで、あと1年で死んでしまうかもしれないとしても、それはそれでいいのです。人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯もないものでしょう。ままならない時間が過ぎていく中で、或る日、天空を仰いで眼を細めて安堵する瞬間があったら、そのときが幸福ではないのかな。(「遺書」)
私の場合、一緒に住んでもいいと思う人が非常に若いころに現れてしまいました。そして、気がついたら37年間も共に住んできました。仕事を辞めてから、日中から何者にも拘束されず、風呂に入って身体から力を抜く瞬間など、「眼を細めて安堵する瞬間」かも知れません。こんなブログを気儘に書いている瞬間も意外と幸福な瞬間かもしれません。こうした気持ちに何故若い頃からなることができなかったのだろう。仕事に時間を取られすぎたと言えば言い訳になりますが、長い間仕事をしなければこのような達観にも至らなかったかもしれません。いやはや人生は意外なことが多い。