日本語を教えるようになってから・・・・
日本人として母語を思うとは違った感覚で、スタンダードな日本語というものを考えるようになった。
この分野は幅が広く、言語学 歴史 文法 語彙 と様々なことを、日本語について学ぶ。
女性言葉、男性言葉、立場による言葉(位相語)、そして、外国人の敵→ 尊敬語 など・・・日本語は様々な側面を持つ。
面白いという思いがあればあるほど、最近の言葉のあり方に、使われ方に失望も感じていた。どのように使われるかが、文化であるのだから、実はこうでなくてはならない!という、強い、正しい答えはない。みんなが使っていけば、間違った日本語も定着し、それが新しい日本語へと転化を遂げていく。一所懸命と一生懸命が同意語で同時に存在することの意味もそれでわかった。
若者たちは、回りくどく、じゃないかなあ・・・まちがっているかもしれないど、~じゃないかと思わなくもないなあ・・・とか、若者文化として日本語を転化させている。
でも、先日ブログで触れた、階上中学校の生徒さんの答辞に、私は強く、改めて言葉の力を感じとった。
橋上中学校といえば、防災教育といわれ、内外から高く評価され十分な訓練もしていた
わたくしたちでした。
しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、わたくしたちから大切なものを
容赦なく奪っていきました。
天が与えた試練というのはむごすぎるものでした。
つらくて、悔しくたまりません。
しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合っていくことが
これからの、わたくしたちの使命です。
彼は、短い無駄のない文章で、的確な言葉を使い、人の心を打つ。
そして、最後に 『使命です』と、言い切った。強い思いがまたしても、私の心に響く。
美しい日本語を語る会 2002年 は 美しい日本語を定義している。
美しいことばとは、相手を思いやることばや、相手や場面にふさわしいことば、ある事柄を表現するのに
これ以外はないと言えるぴったり合ったことばのことである。