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令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

家待・青春編(二)(16)萌(も)えし楊(やなぎ)か

2010年10月15日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年10月29日】

春雨に えしやなぎか 梅の花 友におくれぬ 常の物かも


家持 関東行幸みゆきの留守
書持ふみもちが 当主代役
家の取り仕切りは 大刀自おおとじ坂上郎女さかうえのいらつめ
書持ふみもちは 名ばかり当主
しかし 気弱書持ふみもちは 
せずもがなの気遣いに  心を痛めていた

気疲れ書持ふみもち
けともなると 一日の気重きおもしかかる
うつらしにと 旅人たびと残せし 歌びかえを開く

正月むつき立ち 春のきたらば かくしこそ 梅をきつつ たのしきを
《正月の 新春来たぞ 今日の日を 梅呼びめて 楽しゅう過ごそ》
                         ―大弐だいに紀卿きのまえつきみ―〈巻五・八一五〉

〈おお これは 大宰府での梅花うめはなうたげ
紀卿きのまえつきみ殿の 発句ほっく
 あの方が  梅を招かれたか〉

み冬つぎ 春はきたれど 梅の花 君にしあらねば く人もなし
《冬過ぎて 春なったけど 梅花うめはなを 紀卿あんた以外に 招く人ない》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇一〉
梅の花 み山としみに ありともや かくのみ君は 見れど飽かにせむ
梅花うめはなが 山といっぱい 咲いたかて あのうたげほど められへんわ》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇二〉
春雨に えしやなぎか 梅の花 友におくれぬ 常の物かも
《春雨が 呼んだ楊か いつもり 梅と一緒に 芽吹めぶやなぎか》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇三〉
梅の花 何時いつは折らじと いとはねど 咲きのさかりは 惜しきものなり
梅花うめはなは 何時いつに折っても 構へんが 咲き誇る時 折るのは惜しで》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇四〉
遊ぶうちの 楽しき庭に 梅柳 折りかざしてば 思ひ無みかも
遊呆ほうけてる 楽しい庭で うめやなぎ 折り髪挿かざしたら 思うことない》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇五〉

わがそのに 梅の花散る ひきかたの あめより雪の 流れ来るかも
《梅の花 空に舞うに 散って来る 天から雪が 降ってきたんか》
                         ―主人あるじ―〈巻五・八二二〉

〈おう 第壱組結句けっくは 父上か〉

御苑生みそのふの 百木ももきの梅の 散る花の あめに飛びあがり 雪と降りけむ
御苑生みそのうを 埋める梅の木 散る花が 天まで飛んで 雪になったか》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇六〉

歌作り 全てを忘れ 書持ふみもちの心安らぐ時 


家待・青春編(二)(17)木(こ)の間(ま)立ちくき

2010年10月12日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月2日】

あしひきの 山れば
      ほととぎす 立ちくき 鳴かぬ日はなし



恭仁くにきょうでは 新都の建設が進んでいた
内舎人うちとねり家持 恭仁に 仮居やしき構えて 帰らず

書持ふみもち 庭での 草花手入れに余念がない
心優しい書持ふみもち 幼少よりの 花で心
家持留守の 鬱屈うっくつ
ごもりの 歌作りばかりではと
庭いっぱいの草花世話に  精を出す

遷都令明けての 天平十三年〈741〉四月
恭仁京家持に 書持ふみもちからの歌が届く

たちばなは 常花とこはなにもが ほととぎす 住むとかば 聞かぬ日けむ
《橘が 年中ねんじゅうばなで あって欲し 鳴くほととぎす 毎日聞ける》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇九〉
たまく あふちを家に 植ゑたらば 山霍公鳥ほととぎす れずむかも
薬玉たま作る 栴檀せんだんばなを 植えたなら 山ほととぎす ずっと来るかな》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九一〇〉

書持ふみもちが 季節を教えてくれたか
 彷徨さまよい続ける みかどに従い 
 その挙句あげくが 恭仁遷都
 山深い地での生活くらし
 なるほど  花とほととぎす か〉
鬱屈中うっくつなかの 歌便り 
ほっとの家持  その日のうちの返し歌

あしひきの 山れば ほととぎす 立ちくき 鳴かぬ日はなし
《山裾で 暮らしてるんで ほととぎす くぐって 毎日鳴くよ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一一〉
ほととぎす なにの心そ 橘の たまく月し 来鳴きとよむる
《ほととぎす どんな積りか 花時期どきと ごて実時期みどきに 来て鳴くのんは》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一二〉
ほととぎす あふちの枝に 行きてば 花は散らむな 珠と見るまで
《ほととぎす 栴檀せんだん枝に 居ついたら 花散るやろな 玉散るみたい》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一三〉

自らの 気鬱きうつに沈む家持に
書持ふみもちの訴えは 届かない

たちばなは 常花とこはなにもが ほととぎす 住むとかば 聞かぬ日けむ
《兄上が 年中ねんじゅうばなで あって欲し 傍にったら 毎日逢える》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九〇九〉
たまく あふちを家に 植ゑたらば 山霍公鳥ほととぎす れずむかも
薬玉たま作る 栴檀せんだんばなを 植えたなら 兄上ずっと てくれるかな》
                         ―大伴書持おおとものふみもち―〈巻十七・三九一〇〉


家待・青春編(二)(18)咲ける秋萩

2010年10月08日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月5日】

秋の野に 咲ける秋萩
         秋風に なびけるうへに 秋の露置けり



新京しんきょうでの 独り暮らし
旧都となった 平城ならなつかしい

大嬢おおいらつめとのふみり取り 
それでも いやしきれないうつごころ
ふと 見つけし 紀郎女きのいらつめ 
もどし策との 相聞送付
奇遇出合いの 宮中振られの娘子おとめ
千載せんざい一遇いちぐう 今ぞの誘い

ことごとくに 敗れ去り
家持は  天平十五年〈743〉の 秋を迎えていた
〈友は  男が良い 女は もうこりごり〉
同じ内舎人うちとねり 石川広成いしかわのひろなり
権勢とは縁遠い  立ち居振る舞い
父を  故文武天皇とし 
聖武帝の兄に当たるとうも
当人は  首を振る

家人いえひとに 恋過ぎめやも かはづ鳴く 泉の里に 年の経ぬれば
《泉川 蛙鳴く里 なごて 家にる人 恋しいこっちゃ》
                         ―石川広成いしかわのひろなり―〈巻四・六九六〉

そんな  広成に 家持は 親近感を覚えていた
今日も 独り身のすさびに 創りし歌を 広成へ

秋の野に 咲ける秋萩 秋風に なびけるうへに 秋の露置けり
《秋の野に 咲くあきはぎは 秋風に 靡く花先 秋露つゆ置いとおる》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻八・一五九七〉
男鹿をしかの 朝立つ野辺の 秋萩に 珠と見るまで 置ける白露しらつゆ
男鹿おすしかの 朝立つ野原 咲く秋萩はぎに 白露置いて まるでたまやで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻八・一五九八〉
さ男鹿の 胸別むなわけにかも 秋萩の 散り過ぎにける さかりかもぬる
男鹿おすしかが 分け通ったで 散ったんか 秋萩はなの盛りが 過ぎたんやろか》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻八・一五九九〉

広成からは なぞらえた返しが来る

妻恋ひに 鹿鳴く山辺の 秋萩は 露霜つゆしも寒み さかり過ぎ行く
《連れ求め 鹿しか鳴く山の 秋萩は 露霜さむて 盛り終わるで》
                         ―石川広成いしかわのひろなり―〈巻八・一六〇〇〉
めづらしき 君が家なる はなすすき 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも
風情ふぜいある あんたの家の 薄花すすきばな 穂ぉ出る秋が 仕舞う惜しい》
                         ―石川広成いしかわのひろなり―〈巻八・一六〇一〉

広成の歌を得て家持 独りをかこってうた

山彦やまびこの 相とよむまで 妻恋ひに 鹿鳴く山辺やまへに 独りのみして
《山彦が こだまするまで 連れ呼んで 鹿しか鳴く山に わし独りやで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻八・一六〇二〉
この頃の 朝明あさけに聞けば あしひきの 山呼びとよめ さ男鹿鳴くも
《今頃の 夜明け男鹿おじかの 声聞くと 山ひびかして 鳴いとおるがな》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻八・一六〇三〉


家待・青春編(二)(19)久邇(くに)の都は

2010年10月05日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月9日】

つくる 久邇くにの都は
        山川の さやけき見れば うべ知らすらし



恭仁くにの都 建設が着々すすみ 
帝都の様相  整えつつあった
聖武帝は 四月に続き八月にも 近江紫香楽しがらき行幸みゆき
家持は  恭仁に残っていた

気ごころ知れた  友との逢瀬おうせが 重なる

つくる 久邇くにの都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし
《新らしに 造る久邇宮くにみや 山川が 清々すがすがしいて 成る程思う》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻六・一〇三七〉
故郷ふるさとは 遠くもあらず 一重ひとへ山 越ゆるがからに 思ひそあが
奈良なら旧都みやこ とおもないのに 山一つ 越えるよってに 遠い思てた》
                         ―高丘河内たかおかのかふち―〈巻六・一〇三八〉
わが背子せこと 二人しれば 山高み 里には月は 照らずともよし
《二人して ればこの里 山こて 月照らへんが それでもええで》
                         ―高丘河内たかおかのかふち―〈巻六・一〇三九〉

あれほど 恋しく思っていた 奈良の旧都みやこ
しみじみと  思われるが 
新都の輝きが  思いを過去へと押しやる

秋されば 春日かすがの山の 黄葉もみち見る 奈良の都の 荒るらく惜しも
《秋きたら 春日の山は 黄葉もみじする そんな奈良宮ならみや 荒れるん惜しな》
                         ―大原おおはらの今城いまき―〈巻八・一六〇四〉
高円たかまとの 野辺の秋萩 このころの あかとき露に 咲きにけむかも
高円の  野辺の秋萩 今頃は 夜明けの露で 咲いたやろうか》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻八・一六〇五〉

親しの友 八束やつかの屋敷で開かれた
安積皇子あさかのみこを迎えてのうたげ 

時に  とみに力を付け始めた 
藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ 
藤原氏政権再興を願う  光明皇后の引きにより
この年天平十五年〈743〉五月  参議昇進
光明・聖武との子  
阿部内親王を  皇太子に立てたとはいえ
安積皇子あさかのみこは 聖武帝ただ一人の皇子
ためにする 担ぎ勢力
しゅつげんせぬかに 神経を尖らせていた
一方 橘諸兄たちばなのもろえ 奈良麻呂父子おやこ
徐々の圧迫に  焦燥の念を深めている

八束やつかと共に 政治まつりごとの平穏を望む 家持
頼りとする安積皇子あさかのみこの同席を得
珍しく 酩酊めいていしていた

ひさかたの 雨はりしく 思ふ子が 宿やど今夜こよひは あかして行かむ
《雨降って 帰られんけど かまへんで あの児の家で 夜明かしするわ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻六・一〇四〇〉


家待・青春編(二)(20)一つ松

2010年10月01日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月12日】

一つ松 幾代か経ぬる
       吹く風の 声のきよきは 年深みかも



「おお 恭仁くにみやこが一望だ」
うたげは この一本松の場所が良い」
天平十六年〈744〉新春 
展望良い丘に うたげは張られた

聖武帝が 東国行幸みゆきたれ
諸国を巡り 
ここ恭仁京くにきょうに都され 足掛け五年を数える

帝の御心みこころは 如何いかがであったろうか
「咲く花のにおうがごとき」 
たたえられた平城ならの都
宮廷は爛熟らんじゅく頽廃たいはいの度を加え
貴族の権謀けんぼう術数じゅっすうは極に向かい
社会不安は増すばかり 
加えて 
悪疫あくえき流行 
藤原氏四兄弟の死  
藤原広嗣ひろつぐ九州挙兵
乱平定待たずの行幸みゆき
不安募る平城帝都には  とても戻れぬと
山青く水清い  この地に留まられた・・・か

市原王おおきみ 
 この眺め  新たな年にふさわしいではありませぬか
 ぜひともの  一首を」
家持は 市原王いちはらおうに 歌を請うた

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声のきよきは 年深みかも
《風の音 爽やかなんも そのはずや この一本松まつのきの 年輪とし見た分かる》
                         ―市原王いちはらのおおきみ―〈巻六・一〇四二〉

「これは お見事な寿ことほぎ」
「では わたしも みやこ永遠とわを願って」

玉きはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとそ思ふ
《限りある 人の命は 分からんが 枝結ぶんは 永遠とわ思うから》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻六・一〇四三〉

たび重なる 紫香楽しがらき離宮への行幸みゆき
昨年十月には 紫香楽の地での大仏造立ぞうりゅうみことのり
追うかの様に  
十二月 恭仁造作ぞうさく停止の令
恭仁宮の前途に  暗雲立ち込める


家待・青春編(二)(21)和豆香(わづか)そま山

2010年09月28日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月16日】

わごおほきみ あめらさむと 思はねば
           おほにそ見ける 和豆香わづかそま山



天平十六年〈744〉一月十一日  
てい 難波宮なにわのみや行幸みゆき
同行安積皇子あさかのみこ 
桜井頓宮とんぐうで 恭仁くにきょうへの引き返し
「脚の病」発症につきの帰還 
二日後 十三日 「身罷みまかり」の報 難波へ
恭仁留守官  仲麻呂
憶測おくそくあるも 証拠立てのすべなし

過ぎにし 酩酊めいていの秋うたげを思い
悲痛家持  断腸の思い

けまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 
わごおほきみ 皇子みこみこと  万代よろづよに したまはまし 大日本おほやまと
 
《言葉にするも はばかられもし おそれ多いが 天皇おおきみ様の
 御子おこみことが 万世ばんせいまでも お治めなさる このもとの》
久邇くにみやこは うちなびく 春さりぬれば 山辺やまへには 花咲きををり 河瀬かはせには 年魚あゆさ走り 
いやに さかゆる時に 逆言およづれの 狂言たはごととかも
 
恭仁の都は  春来たならば 山いっぱいに 花咲き誇り 清い川には 若鮎飛んで
 日毎ひごと栄える 思うていたに 事もあろうに 嘘やでそんな》 
白栲しろたへに 舎人とねりよそひて 和豆香わづか山 御輿みこし立たして ひさかたの あめらしぬれ 
こいまろび ひづち泣けども せむすべも

舎人とねりことごと 喪服を付けて 和豆香わずかの山に 葬列そうれつ御輿みこし 天の支配に お出かけされた
 身体からだ打ち伏せ 泣き叫んでも どう仕様しょうて 戸惑いおるよ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻三・四七五〉

わごおほきみ あめらさむと 思はねば おほにそ見ける 和豆香わづかそま山
皇子おうじさん 治めなさると 知らんから 気にせんかった 和豆香わずかの山よ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻三・四七六〉
あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき わごおほきみかも
皇子おうじさん 山光るに 咲いた花 その花散って さみしいかぎり》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻三・四七七〉


家待・青春編(二)(22)見(め)しし活道(いくぢ)の

2010年09月21日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月19日】

しきかも 皇子みこみこと
        ありがよひ しし活道いくぢの みちは荒れにけり



憔悴しょうすいごころを 引きずり
家持は付き従っていた 
帝は 恭仁くにへは戻らず
難波をあとに 和泉宮 安曇あずみ 紫香楽しがらき宮へ
内舎人うちとねり如きに 
帝のお心 何処いづこにありやの 詮索せんさくかなわぬが
独り  悔しさを 噛み殺していた

暫しのいとまいて 家持は 恭仁へと走る
皇子の御門ごもんを前に 思わずに 涙がこぼれる

けまくも あやにかしこし わごおほきみ 皇子みこみこと 
もののふの 八十やそともを つどへ あともたまひ 
朝猟あさかりに 鹿猪しし踏み起し 暮猟ゆふかりに 鶉雉とりふみ立て おほ御馬みうまの 口おさ
 
《口にするのも 畏れい 天皇おおきみさんの 御子みこさんが
 多くの臣下けらい 召し集め
 朝の狩りには けもの追い 夕べの狩りで 鳥飛ばす 手綱たづな引かれて 馬とどめ》
御心みこころを あきらめし 活道いくぢ山 
木立こだちしげに 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし
 
心晴々はればれされた 活道山いくじやま
 木立こだち鬱蒼うっそう 花散って 世の中うん こんなんか》
大夫ますらをの こころり起し 剣刀つるきたち 腰に取りき あづさ弓 ゆぎ取りひて 天地あめつちと いや遠長とほながに 万代よろづよ
武人心ぶじんごころを 振り興し つるぎや刀 腰にき 弓取り持って ゆき背負い 天地悠久てんちゆうきゅう  万世ばんせまで》
かくしもがもと たのめりし 皇子みこ御門みかどの 五月蝿さばへなす さわ舎人とねりは 
白栲しろたへに ころも取り着て つねなりし ゑま振舞ふりまひ いや日異ひけに かはらふ見れば 悲しきろかも

《お仕え仕様しょうと 頼みした みやどこ つどうてた 舎人とねり
喪服 身につけて にこやか姿 変わり果て 打ち沈むんは 悲してならん》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻三・四七八〉

しきかも 皇子みこみことの ありがよひ しし活道いくぢの みちは荒れにけり
《痛ましや 御子みこみことが かよい見た 活道いくじの路は 荒れ果てて仕舞た》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻三・四七九〉
大伴おほともの 名ゆぎおびて 万代よろづよに たのみし心 何処いづくか寄せむ
《大伴の 名に相応ふさわしい ゆぎ背負い 仕える決心こころ 寄せどころない》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻三・四八〇〉

皇子の御門ごもんを後にし 
恭仁の仮居やしきに立ち寄った家持
待っていたのは  思いもかけない知らせ
今をときめく 仲麻呂が御曹司おんぞうし
久須麻呂くすまろ様からの
事もあろうに えんぐみ申し出

藤原家とのえにし結び
小躍りの胸に 旅人たびとさとし」が彷彿ほうふつ浮かぶ
思わずに  ぶるぶると首を振る
次第に 対立の様相深める とうきつ
「諭し」を考えれば  
いずれともくみしないが上策
さりとて 無下むげの断りは 
痛くもない腹さぐられとなろう

家持は  天を仰いだ


家待・青春編(二)(23)いと若みかも

2010年09月17日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月23日】

春の雨は いやしき降るに
        梅の花  いまだ咲かなく いと若みかも



〈まだ 年端としはも行かぬに いかにも策略めく〉
亡き妻おみなめの忘れ形見の女児 当年九才

家持は  ある尼を思い出していた
養育むすめに 懸想けそう男 尼への斟酌しんしゃく心での申出

手もすまに 植ゑし萩にや かへりては 見れども飽かず こころつくさむ
《手ぇ掛けて 育てた萩花はぎは でるより 散りはせんかと 気ィむだけか》
                         ―作者未詳さくしゃみしょう―〈巻八・一六三三〉
衣手ころもでに 水渋みしぶつくまで 植ゑし田を 引板ひきたわがへ まもれる苦し
ふくの袖 水垢みずあか付けて 植えた田を 鳴子なるこ縄張り 見張り辛いか》
                         ―作者未詳さくしゃみしょう―〈巻八・一六三四〉

困惑尼を察し  助け船の家持

〈尼〉佐保川の 水をき上げて 植ゑし田を
〈家持〉刈る早飯わさいひは 独りなるべし
《佐保川の 水き止めて 植えた田の
   一番めしを 食うのんひとり〈わしや〉》
                         ―尼・家持―〈巻八・一六三五〉 

〈今は 手塩てしお娘どころでない 大伴家の存亡
 時勢の移りを思えば 「とう」と結ぶも一策
 いやいや 安積皇子あさかのみこのこともある
 さりとて 「きつ諸兄もろえ様も 押され気味・・・〉
躊躇ちゅうちょ困惑家持 右へ左へ揺れ動く

春の雨は いやしき降るに 梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも
春雨はるさめが 盛んに降るが 梅花うめはなは まだ咲かへんで 木ィ若いんや》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻四・七八六〉
いめのごと 思ほゆるかも しきやし 君が使の 数多まねく通へば
《夢みたい 思うてまっせ 勿体もったない あんたの使い しょっちゅ来るのん》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻四・七八七〉
うら若み 花咲きがたき 梅をゑて 人のことしげみ 思ひそわがする
《若木やで  まだ花咲かん 梅やのに まだかまだかは 気が気やないで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻四・七八八〉
こころぐく 思ほゆるかも 春がすみ たなびく時に ことの通へば
《春霞 棚引たなび季節じきに 誘い受け はっきりせんと すまんことです》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻四・七八九〉
春風の おとにしなば ありさりて 今ならずとも 君がまにまに
《春風が ちゃんと吹いたら 時期を見て 気持ちに そのうちします》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻四・七九〇〉

久須麻呂から  
確固の思いのたけと 拙速せっそくびの歌が届く

奥山おくやまの いはかげにふる すがの根の ねもころわれも 相思あひおもはずあれや
《奥山の 岩陰いわかげすがの 根ぇみたい わしの思いは しっかりしてる》
                         ―藤原久須麻呂ふじわらのくすまろ―〈巻四・七九一〉
春雨はるさめを 待つとにしあらし わが屋戸やどの 若木わかぎの梅も いまだふふめり
《若木梅 春雨待って 咲くみたい うちの梅かて まだ蕾やわ》
                         ―藤原久須麻呂ふじわらのくすまろ―〈巻四・七九二〉

返し歌を手に  家持 その場にへたり込む


家待・青春編(二)(24)網ささましを

2010年09月14日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月26日】

橘の にほへるその
        ほととぎす 鳴くと人ぐ 網ささましを



〈あの誇らしげな 槌音つちおとは 
 何処どこへ行ってしまったのか
 三年を超える きょう生活くらし
 奈良恋しさが  和らぎ
 恭仁の新興息吹いぶきに 
 身をゆだねようとしていたに

 帝の御心みこころ 紫香楽しがらきを都にとの おもむ
 しかるに  
 一月の朝議では 恭仁か難波なにわかの選択
 僅差きんさで 恭仁に決したと思いきや
 二月  帝留守の難波で 
 元正上皇 橘諸兄もろえ様の手で 難波皇都こうとの勅〉

訳の分らぬ事態に 茫然ぼうぜん自失じしつの家持

思考混濁こんだくの家持を 難題が襲う
突然の 奈良麻呂よりの 密使おとな
高潔政道回帰が為まともなせいじ とりもどすため 大伴佐伯助力必須おおともさえき ちからがいるぞ
 麻呂準備万端の折いざそのときが きたりしときは 呼応参集約定懇願とものあつまり やくそくねがう
―――――――――――――――
この年  天平十六年〈744〉四月
家持は  奈良の佐保邸にいた
くだんの 久須麻呂申し出 奈良麻呂の誘い
気鬱きうつの極みは 帝へのいとま願いとなった

〈「さとし」に
 世渡りが為 歌作うたつくりがかなめとありしが
 人付き合いが  ままならぬ今
 歌はしばらく 作り停止ちょうじとなろう
 名残なごりの歌 とどめ置くか〉

橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴くの雨に 移ろひぬらむ
《橘の 花の香りは ほととぎす 鳴く夜の雨で 消えて仕舞うんか》
                        ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一六〉
ほととぎす 声なつかし あみささば 花は過ぐとも れずか鳴かむ
《ほととぎす 夜の声え 網したら 花散ったかて ずっと鳴くかな》
                        ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一七〉
橘の にほへるそのに ほととぎす 鳴くと人ぐ 網ささましを
《橘の 咲く他所よその庭 ほととぎす 鳴くて聞いたで うちも網張ろ》
                        ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一八〉
青丹よし 奈良の都は りぬれど もとほととぎす 鳴かずあらなくに
奈良ならみやこ 古い都に なったけど ほととぎす鳴く 昔のままに》
                        ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九一九〉
うづら鳴く ふるしと人は 思へれど 花橘の にほふこの屋戸やど
うずら鳴き さみしと人は 思うけど 橘花はな変わらんと 匂う庭やで》
                        ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九二〇〉
杜若かきつはた きぬりつけ 大夫ますらをの 着襲きそかりする 月はにけり
杜若かきつばた ふくりつけて 大夫ますらおが 薬狩かりする季節 やって来たんや》
                        ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九二一〉

無心での歌作り  
そこここに 橘 奈良 大夫ますらおが顔を出す
この後  一年半に及ぶ 歌無作


家待・青春編(二)(25)味原(あぢふ)の宮は

2010年09月10日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年11月30日】

・・・・・御食みけむこふ 味原あぢふの宮は 見れど飽かぬかも


旧き都の 難波の浜は 西に開けし 先進門戸もんこ
仁徳にんとく こうとく再興おこし 今またこの地 帝都となるか

やすみしし わご大君おほきみの ありがよふ 難波の宮は 鯨魚いさな取り 海片附かたつきて 玉ひりふ 浜辺はまへを近み 
あさはふる 波のさわき 夕凪ゆふなぎに かぢ聞ゆ
 
天皇おおきみが いつもられる 難波宮なにわみや 鯨も捕れる 海つづき 玉を拾える 浜ちこ
 朝寄せてくる 波音なみ響き 夕凪はまに 梶の音》 
あかときの 寝覚ねさめに聞けば 海石いくりの 潮干しほひむた うらには 千鳥妻呼び あしには たづ鳴きとよ 
《夜明け寝覚ねざめに 潮引くと で千鳥 連れ呼んで 葦辺あしべほうで 鶴が鳴く》 
見る人の かたりにすれば 聞く人の 見まくりする 御食みけむこふ 味原あぢふの宮は 見れど飽かぬかも
《見た人みんな めそやし 聞いた人らは 見たい言う ほんまえとこ 味原あじふの宮は》
                        ―田辺福麻呂歌集たなべのさきまろがかしゅう―〈巻六・一〇六二〉

ありがよふ 難波なにはの宮は 海近み あま童女をとめらが 乗れる船見ゆ
《いつも来る 難波の宮は 海ちこて 海人あま乙女おとめらが 乗る船見える》
                        ―田辺福麻呂歌集たなべのさきまろがかしゅう―〈巻六・一〇六三〉
れば 葦辺に騒く 白鶴しらたづの 妻呼ぶ声は 宮もとどろに
《潮引いて 葦辺で騒ぐ 白鶴の 連れ呼ぶ声が 宮内みやうち響く》
                        ―田辺福麻呂歌集たなべのさきまろがかしゅう―〈巻六・一〇六四〉

時は天平 四四ししの年 春は如月きさらぎ 皮切りに
霜降る月の 終わるまで 元正げんしょ上皇 難波宮
天皇不在 気にもせず 左大臣だいじん諸兄もろえ 傍に置き
ここが都と 居座って 難波なにわ拠点に 此処ここ彼処かしこ
傍若無人ぼうじゃくぶじん 行幸みゆきする 異常事態に 官人つかえびと
みかど仲麻呂 紫香楽派 諸兄もろえ上皇 難波派の
いずれに着くか 日和見ひよりみを すれど決まらず 年暮れる


家待・青春編(二)(26)たち易(かは)りける

2010年09月07日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年12月3日】

咲く花の 色はかはらず
        ももしきの 大宮人ぞ たちかはりける



家持が逼塞ひっそくを決め込んだ 
天平十六年〈744〉四月 
帝のおわす 紫香楽しがらき宮にて
西北の山で  火事騒ぎ
その後も 山火事頻発ひんぱつ
たまらず 帝は 七月難波へ
冬十一月 大仏たい骨柱こつばしら建立こんりゅうの儀 帝紫香楽へ
越年  
翌十七年〈745〉四月  周辺山で 相次ぐ山火事
干ばつ  連続地震の発生
五月二日 官人を集め 「都を何処いずこに」の諮問しもん
こぞっての  平城帰還答申
紫香楽 人無く 放火頻々ひんぴん 大仏造立ぞうりゅう挫折
人々 恭仁を捨て 続々平城なら
五月十一日 ていも後追うように 平城へと
九月 聖武帝 難波なにわにて発病 重体に
政情不安  渦巻く中 
皇嗣こうし問題を視野に 奈良麻呂みつぼう
月末 てい病状回復 密謀不発
こうして  
混乱の  天平十七年〈745〉は暮れて行く
―――――――――――――――
恭仁宮遷都 三年で 宮の造作ぞうさく 中止なり
都流浪の  日々過ごし 一年半で 廃都なる
やっと馴れたる  山暮し 親しみ増した 泉川
捨てて平城ならへと 戻り行く 荒れた旧都みやこに たたずめば
人去り果てて  山静か 槌音絶えて 瀬音のみ

政争犠牲 民衆強いる 右往左往の 生活くらしの苦労
事を起こすは みな人の子で 耐えてしのぶも また人の子ぞ

三香みかの原 久邇くにの都は 山高く 川の瀬清し 住みよしと 人は言へども りよしと われは思へど 
みかの原 恭仁くにの都は 山たこて 川瀬きようて 住みいて みんな言うてる このわしも えとこやなと 思うのに》 
りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり しけやし かくありけるか 
廃都ふるうになった 里やから 誰ぁれも人が とおらへん 家もすっかり 荒れてもた なんとはかない ことやろか》 
三諸みもろつく 鹿背山せやまに 咲く花の 色めづらしく ももとりの 声なつかしく 
りがし 住みよき里の 荒るらく惜しも

鹿背かせ山裾やますそ 咲く花は 綺麗きれえ咲いてる 鳴く鳥の 声も変わらん この里は
 昔のままで あってし 住みいとこや 思うのに 荒れて仕舞しもうて 惜しいことやで》
                         ―田辺福麻呂歌集たなべのさきまろがかしゅう―〈巻六・一〇五九〉

三香みかの原 久邇くにみやこは 荒れにけり 大宮人おほみやびとの 移ろひぬれば
《仕えてた 人はみいんな ってもて 恭仁の都は 荒れて仕舞しもうた》
                         ―田辺福麻呂歌集たなべのさきまろがかしゅう―〈巻六・一〇六〇〉
咲く花の 色はかはらず ももしきの 大宮人ぞ たちかはりける
《咲いている  花はなんにも 変わらへん 仕えてた人 居らへんだけや》
                         ―田辺福麻呂歌集たなべのさきまろがかしゅう―〈巻六・一〇六一〉


家待・青春編(二)(27)降れる白雪

2010年09月03日 | 家待・青春編(二)内舎人青雲
【掲載日:平成22年12月7日】

大宮の 内にもにも 光るまで
           降れる白雪  見れど飽かぬかも



家持は 安堵あんどの新年を迎えた
よろこばしい 招請しょうせいであった
天平十八年〈746〉正月 
平城宮  大雪
これぞ吉兆きっちょうと 橘諸兄たちばなのもろえ筆頭に 重臣諸王
元正上皇御座所ござしょへ 雪掻き参上
直ちに 諸卿大夫たゆう招請しょうせい
新年の宮中大宴会となった 
席には 確執かくしつ二派の頭首 
中立諸公も こぞって居並んでいた

上皇寿歌ことほぎうた要請での 歌披露が うたげを盛り上げる

降る雪の 白髪しろかみまでに 大君に 仕へまつれば 貴くもあるか
《降る雪の 白い頭に なるまでも お仕え出来て 勿体もったないです》
                         ―橘諸兄たちばなのもろえ―〈巻十七・三九二二〉
あめの下 すでにおほひて 降る雪の 光りを見れば 貴くもあるか
《この地上 全部おおって 降る雪の 輝き見たら 有り難いです》
                         ―紀清人きのきよひと―〈巻十七・三九二三〉
山のかひ 其処そことも見えず 一昨日をとつひも 昨日きのふ今日けふも 雪の降れれば
山谷やまたにが 何処どこか分からん 一昨日おとついも 昨日きのうも今日も 雪降ったんで》
                         ―紀男梶きのをかぢ―〈巻十七・三九二四〉
あらたしき 年のはじめに とよの年 しるすとならし 雪の降れるは
《新しい 年の初めに 雪降って 豊年ほうねんなるん 間違まちがいなしや》
                         ―葛井諸会ふぢゐのもろあひ―〈巻十七・三九二五〉
大宮の 内にもにも 光るまで 降れる白雪 見れど飽かぬかも
《大宮の 内外うちそとともに 輝いて 降る白雪は 見飽きしません》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〈巻十七・三九二六〉

諸兄もろえ欣快きんかいを見 家持も 心を軽くしていた
しかし  上皇要請の歌披露には及んだものの
家持の「さとし」堅持けんじの用心 
なおもゆるまぬ日々が続く
―――――――――――――――
聖武天皇しょうむてんのう彷徨五年の経緯】
藤原きょう 亡きあとは 橘諸兄もろえ 牛耳ぎゅうじ取る
反発広嗣ひろつぐ 乱起こす 意気込みあれど 腰砕け
帝はうろたえ 関東へ 彷徨ほうこう果ての 行き着きは 
諸兄所縁ゆかりの みかの原 これが改め みやこ 
えにし平城なら宮 捨てられて 藤原再興おこし 影が差す
知恵者仲麻呂 行基ぎょうきもち 天皇すめらみことに 取り入りて
紫香楽しがらき宮を 造営し 大仏ほとけ造立ぞうりゅう みことのり
紫香楽しがらきの 宮造り 費用ついえ莫大ばくだい 民疲弊ひへい
の造営 中止なり 紫香楽みやこ 実現か
そうはさせじと 諸兄もろえ卿 反撃期して 策を練る
元正げんしょ上皇 策受けて みかど安積あさかを 共に連れ
難波宮への 行幸ぎょうこうは 安積あさか天皇 画策か
事の成就じょうじゅを 前にして 皇子おうじ亡くなり 策挫折ざせつ
仲麻呂ていを 紫香楽しがらきへ 都ここぞの 示威しい示す
難波残りし 諸兄らは 皇都こうと難波の ちょく下す
紫香楽宮で 大仏の 芯柱はしらが出来て 建立こんりゅう
元正招かれ  紫香楽へ これで決着 思えしが
紫香楽宮で 火事しきり 日照り地震の 頻発ひんぱつ
災害元凶もとは 悪政と 人心揺れて 世はみだ
何処いずこの 諮問たずねには 平城なら帰るべし 一色ひといろ
ついにみかどは 平城なら帰還 彷徨ほうこう五年 ここに止む