池田信夫氏が彼のブログで「成長戦略の考え方*」と言う記事を載せているが、この記事を読んで、次のような疑問が湧いた。
記事では、コブ・ダグラス型の生産関数
Y=K^α*L1^(-α)
を変形した単位労働あたりの生産量を表す式
y=f(k)=k^α・・・(1)
をまず紹介している。
そして、資本の増分Δkは
Δk=sy-(n+d)k・・・(2)
となるので、Δk=0となる点以上に需要は増やすことができないと述べられている。
しかし、コブ・ダグラス型の生産関数は、その名の通り、資本と労働をつぎ込んだらこれだけ生産できるというものである。池田氏は、これには、需要は入っていないと言っているが、元々生産力を表す式なので需要の入っていないのは当たり前ではないだろうか。
また、ここではYは所得とされているが、Yは生産可能な量であり、これを需要側の変数である所得とどうして言えるのだろう。
更にsy=(n+d)kで表される点についても、生産関数に需要が入っていない以上、「生産はそれ以上増やすことができない」と言うのならまだしも、「成長率は資本・労働市場の均衡条件k0で決まり、需要はそれ以上増やすことができないのだ」とどうして言えるのだろうか。それにこの式は、単に単位労働当りの資本が増えないという条件であるというだけにも見えるのだが。また、この点がstableであるとどうして言えるのだろうか?
一部経済学者?にだけしか通用しない論理では、いくら理系の素養があっても、理解不能であろう。普通の経済学を学んだ人の見解も聞いてみたいものである。
(補足)
y=f(k)=k^αが収穫逓減の曲線になるということは、単位労働あたりの生産量が、単位労働あたりの資本の低減関数になるということで、これは、たとえばいくら機械を入れても、扱える台数は限度があるのできわめて当然のことといえよう。コブ・ダグラス型の生産関数ともっともらしい名前がついてはいるが、定性的には当たり前のことを言っているにすぎない。ただ定量的にどうかはよく分からない。
(n+d)kは資本の減少というのは、少し説明が必要だろう。
まず、資本の減損率をdとすれば、dkは資本滅耗による寄与を表す。
また、人口成長率をnとすれば、この割合で労働が投下されると仮定(これも無理があると思うのだが)するとその時のkをk’と置くと
k’=K/{L(1+n)}となる。ここで1/(1+n)をテイラー展開(補足欄参照)して、1次までの近似をとれば、k’=K/L*(1-n)=k(1-n)であるから、結局人口成長に対応する必要資本量は-nkとなる。これは、人間をつぎ込めば、機械は少なくても済むということだろう。理屈としてはそうなのだが、人口が増えたらそれを労働を投入という仮定はどうなんだろう。
いずれにしても、「(n+d)kは資本の減少(正確にいうと人口成長に対応する必要資本量)」と池田氏が言っている( )内は明らかな誤りだろう。
また、nを無視すれば、この式が表すのは、資本が滅耗する範囲で投資をするということで、通常の企業がよくやっている、減価償却の範囲内で設備投資をやるということだ。これが続く間は、経済の成長はないだろう。
テイラー展開は、経済学専攻の者には難しいかもしれないが、⊿xが十分に小さい時
f(x+⊿x)≒f(x)+f'(x)⊿x+・・・(’は微分を表す)
と近似できるというものだ。よって、nが十分小さければ
1/(1+n)≒1-n
と近似できる。
経済学会の重鎮である宇沢弘文氏は、その著書「経済学の考え方」で、「サプライサイドの経済学」について、「市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつものである」とばっさり切り捨てておられる。
ランキング参加中! ⇒
「時空の流離人(風と雲の郷 本館)」はこちら
「本の宇宙(そら)」(風と雲の郷 貴賓館)はこちら
○関連ブログ記事
・la_causette
・ドクター国松の日本の国はここがおかしい
・ニコブログ
記事では、コブ・ダグラス型の生産関数
Y=K^α*L1^(-α)
を変形した単位労働あたりの生産量を表す式
y=f(k)=k^α・・・(1)
をまず紹介している。
そして、資本の増分Δkは
Δk=sy-(n+d)k・・・(2)
となるので、Δk=0となる点以上に需要は増やすことができないと述べられている。
しかし、コブ・ダグラス型の生産関数は、その名の通り、資本と労働をつぎ込んだらこれだけ生産できるというものである。池田氏は、これには、需要は入っていないと言っているが、元々生産力を表す式なので需要の入っていないのは当たり前ではないだろうか。
また、ここではYは所得とされているが、Yは生産可能な量であり、これを需要側の変数である所得とどうして言えるのだろう。
更にsy=(n+d)kで表される点についても、生産関数に需要が入っていない以上、「生産はそれ以上増やすことができない」と言うのならまだしも、「成長率は資本・労働市場の均衡条件k0で決まり、需要はそれ以上増やすことができないのだ」とどうして言えるのだろうか。それにこの式は、単に単位労働当りの資本が増えないという条件であるというだけにも見えるのだが。また、この点がstableであるとどうして言えるのだろうか?
一部経済学者?にだけしか通用しない論理では、いくら理系の素養があっても、理解不能であろう。普通の経済学を学んだ人の見解も聞いてみたいものである。
(補足)
y=f(k)=k^αが収穫逓減の曲線になるということは、単位労働あたりの生産量が、単位労働あたりの資本の低減関数になるということで、これは、たとえばいくら機械を入れても、扱える台数は限度があるのできわめて当然のことといえよう。コブ・ダグラス型の生産関数ともっともらしい名前がついてはいるが、定性的には当たり前のことを言っているにすぎない。ただ定量的にどうかはよく分からない。
(n+d)kは資本の減少というのは、少し説明が必要だろう。
まず、資本の減損率をdとすれば、dkは資本滅耗による寄与を表す。
また、人口成長率をnとすれば、この割合で労働が投下されると仮定(これも無理があると思うのだが)するとその時のkをk’と置くと
k’=K/{L(1+n)}となる。ここで1/(1+n)をテイラー展開(補足欄参照)して、1次までの近似をとれば、k’=K/L*(1-n)=k(1-n)であるから、結局人口成長に対応する必要資本量は-nkとなる。これは、人間をつぎ込めば、機械は少なくても済むということだろう。理屈としてはそうなのだが、人口が増えたらそれを労働を投入という仮定はどうなんだろう。
いずれにしても、「(n+d)kは資本の減少(正確にいうと人口成長に対応する必要資本量)」と池田氏が言っている( )内は明らかな誤りだろう。
また、nを無視すれば、この式が表すのは、資本が滅耗する範囲で投資をするということで、通常の企業がよくやっている、減価償却の範囲内で設備投資をやるということだ。これが続く間は、経済の成長はないだろう。
テイラー展開は、経済学専攻の者には難しいかもしれないが、⊿xが十分に小さい時
f(x+⊿x)≒f(x)+f'(x)⊿x+・・・(’は微分を表す)
と近似できるというものだ。よって、nが十分小さければ
1/(1+n)≒1-n
と近似できる。
経済学会の重鎮である宇沢弘文氏は、その著書「経済学の考え方」で、「サプライサイドの経済学」について、「市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつものである」とばっさり切り捨てておられる。
ランキング参加中! ⇒
「時空の流離人(風と雲の郷 本館)」はこちら
「本の宇宙(そら)」(風と雲の郷 貴賓館)はこちら
○関連ブログ記事
・la_causette
・ドクター国松の日本の国はここがおかしい
・ニコブログ
ええ、一国の財、サービスの生産力の潜在力を発現させるのは需要である事には間違いありません。その上に新技術や資源配分の改善が積み重なり、新たな成長要素を産みます。
ウェブサイトととしては以下もあります。
http://hakase-jyuku.com/mankiw/
経済学の基礎的枠組みを知る意味で読まれた方がよいと思います。
池田信夫はメディア関係が専門でNHK時代はアナログ・ハイビジョンに関わったようです。
マンキューの経済学、経済学徒の間では人気が高いようですが、まだ読んだことがありません。(値段が高いので・・・(汗))
確かに短期はマンキューの言う通りなのでしょうが、長期だって、供給力だけでなく、それに需要が伴っていないと、果たして供給だけで生活水準が決まるかは疑問があります。
>ところで、池田氏は教授としては一芸採用ですから、経済学者としては色物の類です。
えっ~そうなんですか?どんな一芸なのかな(笑)
「クラシック・カーであろうと現代車であろうと、人がアクセルを踏まなければ動かない。つまりは人の動こうとする意思行動により車は走る」
当方はブログ更新を怠けていましたが、
文理両道の充実ぶりはすごいですね。
ところで、経済学関連の記事を一通り読ませていただきました。自身の勉強にもなりますので、それぞれにコメントさせて頂きます。
マンキューの「マクロ経済学」には、経済学的に確かといえる命題として以下が挙げられています。
「長期においては、一国の財、サービスの生産力がその国民の生活水準を決定する」
「短期においては、総需要が一国で生産される財、サービスの量に影響を与える」
これを自分なりに比喩にすれば、後者は
「クラシック・カーであろうと現代車であろうと、人がアクセルを踏まなければ動かない。」
前者は「等しくアクセルを踏んでも、両車のスピードは異なる。つまりは車の構造が可能速度を決定する。」
ところで、池田氏は教授としては一芸採用ですから、経済学者としては色物の類です。
風竜胆⇒風龍肝
なるほど、私の早とちりでした。趙さんのところで見ましたらおっしゃり通りでした。書けないのならともかく、書けるのに違った字で書くとは馬鹿にしていますね。まあ、書けない場合には私のようにカナで表記すればよいので、それを自分の気に入ったやり方で押し通すとは非礼ですね。中国を支那、ミャンマーをビルマと、精一杯の侮蔑感をこめていまだに呼んでいる手合いが大勢いますが、ここまで書いて、この書き方は漢字違いとは少し違っていることに気がつきました。
彼女の姓名を超醜禽などと書いたらどう反応するか。もっとも、彼女の生国では大昔から中華と自称しているくせに、近隣諸国をやれ南蛮だ、やれ東夷だ、西戎だ、北荻だと未開人や獣になぞらえて呼んでいる国ですから。日本も邪馬台国と言うひどい読み方と言うかひどい漢字を当てていますから、その4千年の血を受け継いでいる彼女がそうするのも当然でしょうか。
私は一連の投稿が彼女の尻尾を踏んだせいか書込み禁止になっていますが、名前を超醜禽と書いたらどう反応するかみものですね。
風竜胆⇒風龍肝
となっていました。
竜と龍はたしかにどちらも使われますが、本人の選んだ字をわざわざ変える必要はないと思いますし、竜胆(りんどう)は龍胆と書くことはほとんどないと思います。
また、胆を肝とは、内臓ならどれも同じということでしょうか。あのブログは、あまりにばかばかしいので、これ以上コメントする気はないのですが、この辺りに、彼女の性格を感じてしまいます。
そうですか。けれど、下の文は彼女のブログから写したものですが、趙秋はどう見ても同じ漢字に見えます。
>「赤口」ってどういう意味?? ~迷信に振り回される日本人~
⇒ 趙秋瑾
池田さんの過去の記事で、翻訳をわざと?曲解してそれを元に鳩山さんを批判してたものがありました。
とにかく、池田さんはズバズバ書くので、誤りは多いですが、頭の体操になると思って読んでいます。
それから、池田信夫ブログに投稿していたときの私の名前は 福田恒存をやっつける会会長 と言うものでした。1月ほど前から思うところがあって今の井上信三に変えています。
最後に、風竜胆さんは池田ブログに投稿しようとしたらh拒否されたと書いていらっしゃいましたが、今回池田ブログを久しぶりに見て、場所が変わったので書き込みできるかなと思って試してみましたが、書き込めませんでした。池田と言う人はずいぶん執念深いと言うか、物事を万事怠りなく行う人だなあと感心しました。
ただ、最近、仲良しクラブ度が以前よりいっそう強まったかなと感じています。
学問を志す者は、自分と違う意見にも謙虚に耳を傾けることが大事だろうと思うのですが・・・。
私が池田ブログを初めて読んだのが昨年の1月ごろ。読んだきっかけが、彼の気に食わないことを書いたと言う理由だけで、彼から訴訟を起こすと脅されていたあるブログを読んだことでした。
2月ごろの彼の文章には疑問のあるものが目立ちましたので、それを指摘する投稿を繰り替えしましたら、逆恨みしたのか書込み禁止。おまけに、私の書込み禁止処分までは投稿即表示で、投稿には何の規制もなかったのですが、私を書込み禁止にすると同時に、投稿には登録制を導入した上に、事前検閲制も導入する始末。己の無知や不勉強が暴露されることを恐れたのでしょう。
もっとも、私は、特に彼の専門である経済学とか、IT分野についての知識はほとんどないに等しい者ですが、その私が読んでも明らかにおかしいと言うようなことを自慢げに大威張りで書いていたので誤りを指摘するコメントを投稿しただけでしたが。たものです。
その当時は彼の書いた10の文章のうち、私がよく知っているものに限っても3つほどは誤りがあったというほどひどいものでした。私の知識がないものについて触れた文章を含めると、おそらく半分は間違ったことを書いていたのではないでしょうか。それでページビューが百万だとか自慢しているのですから噴飯ものです。
なお、私が書込み禁止を食らった直接の契機は、確か健康保険の高額医療費助成制度についての問題で、彼がそういう制度があることすら知らないで保険について論じていることについて投稿したところ、彼の追従者たちが彼の誤りを肯定し、かえって私を非難するようなことを合唱し始めたので、私も向きになって反論していたところ、書き込み禁止にされ、同時に投稿を登録制にした、と言ういきさつでした。
まあ、将来も私のようなあわて者が出てきて、化けの皮がはがされることを恐れたんでしょうが、100万ぺージビューとか豪語している彼のブログの読者も、私の経験からは、そのほとんどはまともなものではないと想像されます。その後は彼のブログはほとんど見ていませんが、私の経験からすると、彼の書いているもののうち少なくとも3分の1はでたらめのような気がします。貴方のお書きになったアインシュタインの憂鬱の元になったマッハとニーチェと、成長戦略は・・・決まるのか、と言う彼の文章です。
私はそれら2つの彼の文章の内容については不案内ですが、それらについての貴方の論評は正鵠を居ていると感じられました。ともかく、彼はその態度が唯我独尊、何事も自分が対象でなければ尾様らにというような志向の持ち主のような輩で、誤りを指摘しても素直に認めることがほとんどと言うか全くありません。
こういうでたらめを書いている手合いが、彼の言うことを信ずれば1ヶ月に百万ページビューと言う膨大な読者がいて、それなりの影響力を及ぼしているものと考えると嫌になります。まあ、貴方のこのブログを知るきっかけになった趙秋キンさんも、彼と比較するとあhるかに小物ですが、思考形態は彼と同質、それに氏素性で言えば中国人特有の厚黒的態度とあいまって、付き合いたくない人間ではあります。