<予習編①より続く>
と、かように熱い思いを語っているセラーズですが、
このアムステルダムの公演をDVDで見て感じたことは、
音楽の方が十分にそれを受け止められていないのでは?ということでした。
音楽の方が描かれようとしている内容の重みに耐えられず、底が抜けてしまった、
とでも表現すればよいでしょうか。
セラーズがインタビューで語っているように、この作品のポイントは、
いかに原爆が悲惨な結果をもたらすか、ということではなく、(彼の言葉を借りれば、
”観客はそのことをすでに知っている”わけですから。)
投下までにどのような葛藤があり、いろいろな人々が実にさまざまな思いで
実験と実際の投下に参加したあり見守った様子を描くことにあり、
リブレットもそのように出来ているのですが、音楽がそのテンションを維持できていないので、
不謹慎な言葉で申し訳ないですが、私個人がいかなる戦争も軍事力の保持にも
反対である立場であることを強調したうえで言うと、オペラ作品としては、
”なんだか葛藤シーンが長すぎる。まだ投下のシーンにならないの?”と感じてしまうのです。
また、少なくとも私くらいの年代までの人間は、学校教育の中で、
広島や長崎の原爆がどれほど言葉にしがたいほど悲しい体験であったか、ということを、
子供の頃から注ぎ込まれているし、また、自分の生まれ育った国で起こったことであるので、
それを”事件”とかある種の”イベント(出来事)”と感じるには、
あまりに近すぎる場所にいるせいもあるかもしれませんが、
ある部分での、ジョン・アダムスの音楽の作り方には、非常に不快な感を持ちました。
その点を含む、ジョン・アダムスとの短いインタビューもDVDにありましたので、
ここに、ご紹介します。
ジョン・アダムスのインタビュー
ピーターと私がこの『ドクター・アトミック』にとりかかったとき、『戦争と平和』のような壮大な叙情詩のようなものを想像していたのですが(笑)、特に私が音楽にとりかかってから、もっと圧縮した時間枠が必要なことに気付きました。この作品の大部分は、原爆爆発前夜という、たった一夜のことを描いています。このことが、観客にテンポとか時間といった側面で、より集中しやすくしているのではないかと思います。オペラでは、詩や音楽の力、そして、舞台上での動き、などを使って、その一定の時間枠から外に広がっていくような感覚を生み出すことに留意しました。
子供の頃、SF映画をよく観た記憶があるのですが、多くの場合、何かひどい事態が発生し、原爆が原因となった汚染、とか、ネバダでの実験、とか、、。そして、それがモンスターとか病などを生み出し、人々がおかしくなっていく、というような、、。
で、そのSF映画から受けた感じを、この作品には取り入れてみたいと思いました。皮肉なやり方ではなく、SF映画的音楽をある種の原型として、1950年代的な閉じられた運命を描いてみたかったのです。
それ以外には、もちろん詩が大きなインスピレーションとなっています。例えば、第一幕で、オッペンハイマー夫妻がベッドに横になっているシーンですが、キティーはロバートの気をひこうとしていますね。夫に愛情をしめしてほしいわけです。オッペンハイマーはそれにこたえるわけですが、その彼の“愛し方”というのは、ボードレールからの詩を朗詠することなんですね。このボードレールの詩を読んでいると、とても官能的で、夢のような、まるで阿片を吸ったときにも似た、美しい女性のかぐわしい髪の匂いをかぐ幻覚が現れては消え、するような感覚を覚えます。
オペラを作曲する最大の醍醐味は、“チャレンジ”、これにつきます。どうやって、砂漠にいる感覚を観客に引き起こすか、そしてその砂漠は、あらゆる人が追われ、実に孤独で、あるものといえば、塔に取り付けられた原爆だけ、という場所ですが、それをどうやって伝えるか。
爆発の場面は絶対に入れなければいけない、と考えていました。中には、“悪趣味だ”という人もいましたが。サンフランシスコで初演した時には、“爆発は遠くで起こるわけだから、あまり大音響でなくていいよ。”なんて言っていたのですが、それが、なんだか、、、(笑)、まるで濡れたマッチを擦ろうとして、なかなか火がつかないときのような感じで、、。なので、とてもさりげないことをやってみたんです。この爆発の時点までの三年間、科学者たちが考えていたことは爆弾のことだけでした。それが突然、原爆投下のニュースを聞いた時、思うのです。“どうしよう。この私が開発した爆弾は、何万という日本人、それも女性や子供たち、というのは当時の広島にいたのはほとんどが彼らだったからですが、の命を奪ってしまった!”
本で私が読んで知ったところでは、爆発のすぐ後、人々が口にしていたのは、ほとんどが、水を求める言葉だった、ということでしたので、若い日本人の女性を探してきて、簡素な読み方で、“お水をください”と、そして子供に、“あっちに行っちゃだめよ。ここにいなさい。”そして、もう一度、“お水をください”と、読み上げてほしい、とお願いしたのです。彼女には、“なんなんですか?これ?”と言われましたが、私には、エンディングにふさわしい言葉だと思われました。指をふりあげて誰かを攻め立てるのでもなく、、。なぜならば、それは誰も事前に完全には知りえなかった事態だったのですから。
と、以上がインタビューの内容ですが、
私が不快に感じたのは、まさに、この彼がいう”SF映画音楽の要素を取り入れた部分”でした。
ここで、私はセラーズがこの題材を非常に誠実に、また、自分にも関係あることとして、
国籍を超えた密接感すら感じさせるやり方でこの作品に取り組んでいるのに対し、
実はアダムスの方には、そのセラーズがもっている感覚を分かち合うレベルには
至っていないように感じました。
このSF映画音楽的要素の導入により、あたかも、この原爆投下という、
日本人にとっては(そして、本来は世界の人にとってもそうあるべきなのですが)
非常にパーソナルな問題が、あたかも、あるサイエンス・フィクションの中の、
一つの事件、出来事のように矮小化されてしまったのです。
歌唱の部分で言うと、軽視できないのは、パスクァリータ役です。
この役には、オッペンハイマー夫妻役の歌手と同等の実力のある、
表現力豊かな歌手が求められていると思います。
残念ながら、このアムステルダムの公演で歌ったコントラルトのエレン・ラビナーは、
少なくともこの公演では、作品のなかのハイライトの一つである重唱をしっかりと支えることが出来ていません。
(初演のSFOの公演ではメゾのベス・クレイトンが歌っていたようです。)
メトでも同役でキャスティングされており、SFOの初演にも参加し、
オッペンハイマー役を創出したといってもよいジェラルド・フィンレーは、
歌唱はなかなかですが、演技がワンパターンで、煙草をふかしながら、
せかせか歩き回るイメージが、鑑賞後も頭をくるくるします。
特に終盤に向って、いろいろな葛藤や感情の起伏がある役なので、
このアムステルダムの公演以降、メトで歌うにあたって、
役作りが進化していることを期待します。
何よりもメトでは演出家が違うので、ピーター・セラーズが抱いたビジョンを
いかに忠実に受け継ぎながら、一味違ったメトらしい舞台にしていくのか、
期待が高まります。
参考までに、アムステルダムの公演で出演した歌手たち自身の言葉で
語られた、諸役の紹介を下にあげておきます。
J・ロバート・オッペンハイマー
マンハッタン計画の監督。計画のリーダーとして、またタフなトップ物理学者として、この第二次世界大戦という時期に、アメリカとヨーロッパから、超一級の頭脳をかき集め、結果、人類の手による最も残虐な兵器を生み出すこととなる。
キティ・オッペンハイマー
“原爆の父”J・ロバート・オッペンハイマーの妻であり、最大の支えであり、彼の心の中にある理性の鏡。作品の中では、希望と光の声としての役割も果たす。
レスリー・グローヴス将軍
ロス・アラモスで行われたマンハッタン計画を監督する軍の指揮者。
この計画で大きな力と発言権を持つ。
エドワード・テラー
原子爆弾および水素爆弾を開発したハンガリーの物理学者。軍事力によって、世界平和が成し遂げられると、固く信じている。
ジャック・ハバード
トリニティー(原爆試験地)のチーフ放射線学者。
ロバート・ウィルソン
マンハッタン計画に携わる若手化学者の一人。トルーマン大統領に宛てて、原爆を戦闘状況において使用しないよう訴える請願書を書く。
ジェイムズ・ノーラン大尉
ロス・アラモスで働く癌・放射線についてのスペシャリスト。
パスクァリータ
オッペンハイマー家に住み込みで子供たちの世話をする、ネイティブ・インディアンの女性。女性的な愛情や自然というものを代弁し、科学の力で世界をコントロールしようとする男性の対称にある、いわゆる“聖なる母”的人物。
そういえば、シーズン前に行われた、
ギルドの"Early Curtain: A Season Preview"というレクチャーで、
『ドクター・アトミック』について、講師のバーンハイマー氏から、
”一般的な会話調のリブレットではなく”云々という話がありましたが、これは少し補足が必要で、
氏が意味したのは、”作者の創作による”一般的な会話調のリブレットではなく、ということのようです。
ピーター・セラーズのインタビューにもあるとおり、機密文書に記載されていた、
実際に交わされた会話というものが、特に研究所のスタッフが登場するシーンで
多く抜粋で採用されているので、おもて見には、普通の会話調に見える部分がそれなりにあります。
しかし、主役級の登場人物の間での会話が極めて少ないのはその通りだと思います。
いよいよ明日、実演鑑賞。
(そしてその公演がライブ・イン・HD、ライブ・ビューイングの映像となります。)
感想ももちろん記事としてあげる予定です。
と、かように熱い思いを語っているセラーズですが、
このアムステルダムの公演をDVDで見て感じたことは、
音楽の方が十分にそれを受け止められていないのでは?ということでした。
音楽の方が描かれようとしている内容の重みに耐えられず、底が抜けてしまった、
とでも表現すればよいでしょうか。
セラーズがインタビューで語っているように、この作品のポイントは、
いかに原爆が悲惨な結果をもたらすか、ということではなく、(彼の言葉を借りれば、
”観客はそのことをすでに知っている”わけですから。)
投下までにどのような葛藤があり、いろいろな人々が実にさまざまな思いで
実験と実際の投下に参加したあり見守った様子を描くことにあり、
リブレットもそのように出来ているのですが、音楽がそのテンションを維持できていないので、
不謹慎な言葉で申し訳ないですが、私個人がいかなる戦争も軍事力の保持にも
反対である立場であることを強調したうえで言うと、オペラ作品としては、
”なんだか葛藤シーンが長すぎる。まだ投下のシーンにならないの?”と感じてしまうのです。
また、少なくとも私くらいの年代までの人間は、学校教育の中で、
広島や長崎の原爆がどれほど言葉にしがたいほど悲しい体験であったか、ということを、
子供の頃から注ぎ込まれているし、また、自分の生まれ育った国で起こったことであるので、
それを”事件”とかある種の”イベント(出来事)”と感じるには、
あまりに近すぎる場所にいるせいもあるかもしれませんが、
ある部分での、ジョン・アダムスの音楽の作り方には、非常に不快な感を持ちました。
その点を含む、ジョン・アダムスとの短いインタビューもDVDにありましたので、
ここに、ご紹介します。
ジョン・アダムスのインタビュー
ピーターと私がこの『ドクター・アトミック』にとりかかったとき、『戦争と平和』のような壮大な叙情詩のようなものを想像していたのですが(笑)、特に私が音楽にとりかかってから、もっと圧縮した時間枠が必要なことに気付きました。この作品の大部分は、原爆爆発前夜という、たった一夜のことを描いています。このことが、観客にテンポとか時間といった側面で、より集中しやすくしているのではないかと思います。オペラでは、詩や音楽の力、そして、舞台上での動き、などを使って、その一定の時間枠から外に広がっていくような感覚を生み出すことに留意しました。
子供の頃、SF映画をよく観た記憶があるのですが、多くの場合、何かひどい事態が発生し、原爆が原因となった汚染、とか、ネバダでの実験、とか、、。そして、それがモンスターとか病などを生み出し、人々がおかしくなっていく、というような、、。
で、そのSF映画から受けた感じを、この作品には取り入れてみたいと思いました。皮肉なやり方ではなく、SF映画的音楽をある種の原型として、1950年代的な閉じられた運命を描いてみたかったのです。
それ以外には、もちろん詩が大きなインスピレーションとなっています。例えば、第一幕で、オッペンハイマー夫妻がベッドに横になっているシーンですが、キティーはロバートの気をひこうとしていますね。夫に愛情をしめしてほしいわけです。オッペンハイマーはそれにこたえるわけですが、その彼の“愛し方”というのは、ボードレールからの詩を朗詠することなんですね。このボードレールの詩を読んでいると、とても官能的で、夢のような、まるで阿片を吸ったときにも似た、美しい女性のかぐわしい髪の匂いをかぐ幻覚が現れては消え、するような感覚を覚えます。
オペラを作曲する最大の醍醐味は、“チャレンジ”、これにつきます。どうやって、砂漠にいる感覚を観客に引き起こすか、そしてその砂漠は、あらゆる人が追われ、実に孤独で、あるものといえば、塔に取り付けられた原爆だけ、という場所ですが、それをどうやって伝えるか。
爆発の場面は絶対に入れなければいけない、と考えていました。中には、“悪趣味だ”という人もいましたが。サンフランシスコで初演した時には、“爆発は遠くで起こるわけだから、あまり大音響でなくていいよ。”なんて言っていたのですが、それが、なんだか、、、(笑)、まるで濡れたマッチを擦ろうとして、なかなか火がつかないときのような感じで、、。なので、とてもさりげないことをやってみたんです。この爆発の時点までの三年間、科学者たちが考えていたことは爆弾のことだけでした。それが突然、原爆投下のニュースを聞いた時、思うのです。“どうしよう。この私が開発した爆弾は、何万という日本人、それも女性や子供たち、というのは当時の広島にいたのはほとんどが彼らだったからですが、の命を奪ってしまった!”
本で私が読んで知ったところでは、爆発のすぐ後、人々が口にしていたのは、ほとんどが、水を求める言葉だった、ということでしたので、若い日本人の女性を探してきて、簡素な読み方で、“お水をください”と、そして子供に、“あっちに行っちゃだめよ。ここにいなさい。”そして、もう一度、“お水をください”と、読み上げてほしい、とお願いしたのです。彼女には、“なんなんですか?これ?”と言われましたが、私には、エンディングにふさわしい言葉だと思われました。指をふりあげて誰かを攻め立てるのでもなく、、。なぜならば、それは誰も事前に完全には知りえなかった事態だったのですから。
と、以上がインタビューの内容ですが、
私が不快に感じたのは、まさに、この彼がいう”SF映画音楽の要素を取り入れた部分”でした。
ここで、私はセラーズがこの題材を非常に誠実に、また、自分にも関係あることとして、
国籍を超えた密接感すら感じさせるやり方でこの作品に取り組んでいるのに対し、
実はアダムスの方には、そのセラーズがもっている感覚を分かち合うレベルには
至っていないように感じました。
このSF映画音楽的要素の導入により、あたかも、この原爆投下という、
日本人にとっては(そして、本来は世界の人にとってもそうあるべきなのですが)
非常にパーソナルな問題が、あたかも、あるサイエンス・フィクションの中の、
一つの事件、出来事のように矮小化されてしまったのです。
歌唱の部分で言うと、軽視できないのは、パスクァリータ役です。
この役には、オッペンハイマー夫妻役の歌手と同等の実力のある、
表現力豊かな歌手が求められていると思います。
残念ながら、このアムステルダムの公演で歌ったコントラルトのエレン・ラビナーは、
少なくともこの公演では、作品のなかのハイライトの一つである重唱をしっかりと支えることが出来ていません。
(初演のSFOの公演ではメゾのベス・クレイトンが歌っていたようです。)
メトでも同役でキャスティングされており、SFOの初演にも参加し、
オッペンハイマー役を創出したといってもよいジェラルド・フィンレーは、
歌唱はなかなかですが、演技がワンパターンで、煙草をふかしながら、
せかせか歩き回るイメージが、鑑賞後も頭をくるくるします。
特に終盤に向って、いろいろな葛藤や感情の起伏がある役なので、
このアムステルダムの公演以降、メトで歌うにあたって、
役作りが進化していることを期待します。
何よりもメトでは演出家が違うので、ピーター・セラーズが抱いたビジョンを
いかに忠実に受け継ぎながら、一味違ったメトらしい舞台にしていくのか、
期待が高まります。
参考までに、アムステルダムの公演で出演した歌手たち自身の言葉で
語られた、諸役の紹介を下にあげておきます。
J・ロバート・オッペンハイマー
マンハッタン計画の監督。計画のリーダーとして、またタフなトップ物理学者として、この第二次世界大戦という時期に、アメリカとヨーロッパから、超一級の頭脳をかき集め、結果、人類の手による最も残虐な兵器を生み出すこととなる。
キティ・オッペンハイマー
“原爆の父”J・ロバート・オッペンハイマーの妻であり、最大の支えであり、彼の心の中にある理性の鏡。作品の中では、希望と光の声としての役割も果たす。
レスリー・グローヴス将軍
ロス・アラモスで行われたマンハッタン計画を監督する軍の指揮者。
この計画で大きな力と発言権を持つ。
エドワード・テラー
原子爆弾および水素爆弾を開発したハンガリーの物理学者。軍事力によって、世界平和が成し遂げられると、固く信じている。
ジャック・ハバード
トリニティー(原爆試験地)のチーフ放射線学者。
ロバート・ウィルソン
マンハッタン計画に携わる若手化学者の一人。トルーマン大統領に宛てて、原爆を戦闘状況において使用しないよう訴える請願書を書く。
ジェイムズ・ノーラン大尉
ロス・アラモスで働く癌・放射線についてのスペシャリスト。
パスクァリータ
オッペンハイマー家に住み込みで子供たちの世話をする、ネイティブ・インディアンの女性。女性的な愛情や自然というものを代弁し、科学の力で世界をコントロールしようとする男性の対称にある、いわゆる“聖なる母”的人物。
そういえば、シーズン前に行われた、
ギルドの"Early Curtain: A Season Preview"というレクチャーで、
『ドクター・アトミック』について、講師のバーンハイマー氏から、
”一般的な会話調のリブレットではなく”云々という話がありましたが、これは少し補足が必要で、
氏が意味したのは、”作者の創作による”一般的な会話調のリブレットではなく、ということのようです。
ピーター・セラーズのインタビューにもあるとおり、機密文書に記載されていた、
実際に交わされた会話というものが、特に研究所のスタッフが登場するシーンで
多く抜粋で採用されているので、おもて見には、普通の会話調に見える部分がそれなりにあります。
しかし、主役級の登場人物の間での会話が極めて少ないのはその通りだと思います。
いよいよ明日、実演鑑賞。
(そしてその公演がライブ・イン・HD、ライブ・ビューイングの映像となります。)
感想ももちろん記事としてあげる予定です。
http://www.guardian.co.uk/music/video/2011/jun/27/glyndebourne-richard-wagner
本公演後、期間限定とはいえ、こうしてすぐに全編をオン・デマンドで観れるとは何という贅沢でしょう!
>ドイツ的というよりすこしオックスブリッジ的
たった今序曲を聴いていますが、オケの演奏も線が細く几帳面で良い意味で細部に目配りの多い行儀の良い感じのする演奏ですね。
もちろん指揮者によっても演奏は変わるでしょうが、非ドイツのオケという意味では似た場所にいるメトとは、
全然違うタイプの演奏をしているのが面白いと思います。
本当に演奏の可能性というのは∞ですね。
グラインドボーンについては私、全然詳しくないのですが、ユロウスキーが指揮ということは、
ロンドン響の演奏なんですよね?きっと、、
演奏をこのようにしているのは、出演している歌手との調和の関係もあるのかもしれませんね。
これからフィンレーが登場する場面を含め、楽しみです!