Metropolitan Opera Opening Night Gala
<前編から続く>
最初のインターミッションをはさんで、マスネの『マノン』から第三幕。
ポネルが演出するこの舞台、第一場のクール・ラ・レーヌのお祭りの場面は、
ゼッフィレッリ演出の『ラ・ボエーム』のカフェ・モミュスのシーンとつい比べたくなるグランドさ。
空中には綱渡り用の綱が張られ、そこを行ったり来たりする曲芸師の姿も。
ただし、『ラ・ボエーム』が徹底的に写実的な感じがするのに対し、
こちらの『マノン』は、例えばプセット、ジャヴォット、ロゼットといった
脇役のボンネットを極端に大きくして、まるで、『不思議の国のアリス』の
いかれ帽子屋(マッド・ハッター)のような頭と体の比率に見せていたり、
写実的な描写には全くこだわらずに、むしろ祭りの”雰囲気”の再現に重心が置かれています。
ちなみに、私の連れは、マスネの『マノン』を嫌っていて、特にこの三幕一場で、
ギヨーが歌う Dig et dig et don!というフレーズを聴くとむしずが走るといい、
”マスネが舞台で屁をひって立ち去る音楽”とまで形容している。
言いすぎだろう、、、それ。
しかし、私も二場の修道院のシーンは好きだけど、この一場に関しては、正直、似た感想で、
詰め物的、というか、舞台を華やかにするためだけに作られたような音楽に聴こえるので、
聴いていて若干辛い。
『椿姫』の夜会のシーンでは、バレエのための音楽という体裁をとっていても、
きちんと曲のベースに、その後起こる事件へのテンションが時限爆弾のように
刻々と高まっているのとは、実に対照的です。
オープニング・ナイトにこの作品が選ばれたのも、まさにその華やかさゆえ、なのですが、
しかし、この豪華な演出でなければ、苦痛度がもっと高まっていたことは間違いありません。
ルネ・フレミングの衣装を担当したのは、シャネルのカール・ラガーフェルド。
これまた、祭りのシーンのセットで貴重となっている淡いライラックの色と、
あまりに似通っているともいえる、グレーとライラックの中間のような色のドレスをデザイン。
ただし、彼女の肌の色に非常に良くあっていて、美しく見せる色を採用しているあたりはさすが。
このドレスもバックが美しくて、少し高めの位置から裾をドレープさせて落としている
デザインは非常に凝っているのですが、オペラの舞台というのは、
歌手が客席に後ろを向ける時間が非常に短いので、
もうちょっと前身ごろのデザインに工夫が欲しかった気がします。
首周りのラインがあまりシャープでないために、やや野暮ったい感じがするのと、
胸とスカートの部分の切り替えの部分も、ただ縫い合わせてあるだけで、
なんのアクセントづけもないので、平面的で、べたーっとして見え、
後ろから観たときの美しさに比べると、前がまだ縫いかけなのかな?とも思えるほど平凡でした。
スカートの裾から少し上のところに、裾に平行して、クリスタルを縫い付けてあったりして、
ディテールにはものすごく凝っており、きっと側で見ると非常に美しい衣装なんでしょうが、
この細かさは、舞台を遠目で鑑賞している人に見えるのか、というのはやや疑問です。
ただし、下の写真にあるとおり、修道院のシーンでは、このドレスの上に、
黒いケープを重ねて登場するのですが、このケープをつけると、
襟ぐりや腰周りの野暮ったさが消え、とてもスタイリッシュな印象に。
『椿姫』でやや暴走してしまったのか、ルネ・フレミングがこの『マノン』のしょっぱなから
少し声が荒れだしたのが残念。
少し重めの声である割には、高音がいつも比較的安定している彼女なのですが、
今日は珍しく、この『マノン』で高音のコントロールにてこずっている感がありました。
二場の修道院の場で、デ・グリューを誘惑する際の彼女の演技のアプローチは、
議論も多いことでしょう。
というのも、祈祷台の上に仰向けに体を投げ出すという、
あまりにあからさまな誘惑の仕方に、思わず観客からどっという笑いが起こったからです。
本当に恐ろしいことです、
修道院という聖なる場所で、マノンへの未練と肉欲に耐えるデ・グリューの苦悶。
それを、Dig et dig et dongのような屁を先にひった割には、
うまく音楽にのせているマスネであるのに、この、たった一つの演技の方向性の誤りが、
全くこの物語の印象を違うものにしてしまったのです。
そういえば、DVD化された昨シーズンの『マノン・レスコー』(こちらはプッチーニの作品)の
ライブ・イン・HDにのった公演のインタビューの中で、デ・グリュー役を歌ったジョルダーニが、
”マスネのマノンとプッチーニのマノン・レスコーの違いは?”
と聞かれ(そして奇しくも、その時のインタビュアーはフレミング)、
”プッチーニの作品が、マノンとデ・グリューの恋、ほとんどそれしか描写していないのに対し、
マスネのマノンは、教会対煩悩の葛藤とか、恋以外のことにもポイントが置かれていること。”
と言っていましたっけ。
その大事なポイントである、教会と煩悩の対立が、コミカルな絵に終わってしまっては、
これが全幕の公演だったとしたら、噴飯ものだったことでしょう。
しかし、今日のガラでは、ややフレミングが、演技や歌を、ガラ仕様に組みなおしたのでは?
と思わされる場面が多く、この場面も、本当に作品が伝えたいことはとりあえず横に置き、
とにかく観客へのエンターテイメントに徹し、ピントが多少外れていても、
楽しんでもらえればよし!という方向を目指した場合、一つのアプローチの仕方ではあると思います。
レスコーを歌ったのはドウェイン・クロフト。彼はキャリアも長く、
舞台での立ち姿が美しいので、このあたりの役では安心して見ていられますが、
いつまでたっても彼らしさ・個性があまり出てこないのはなぜなのでしょう、、?至って地味、です。
登場場面は多くないながら、存在感があったのは、デ・グリュー父を演じたロバート・ロイド。
自分の思い通りに生きてくれない息子への苛立ちと怒り、許すということを知らない頑固さを、
巧みに歌い込んでいました。
パートは違えど(ロイドはバス)、ジェルモン父を歌ったトーマス・ハンプソンに、
彼のように役の性格をきちんと分析し、それを歌に込めるという姿勢が1/100あったなら、、。
ヴァルガスはこちらの作品でも真摯な歌唱を聴かせ、
”消え去れ、優しい面影よ Ah! Fuyez, douce image "も気合の入った、
彼にしては熱唱といえるものでしたが、ただ、それでも、まだ、
少し綺麗にまとまりすぎているというのか、もう少しドラマティックでもいいのだけれど、、
というのが私の感想です。
徒歩通勤の指揮者、マルコ・アルミリアートが指揮をすると、
レヴァインが振るときよりも、オケからずっとのびのびした音が出てくるような気がします。
歌手へのサポートも巧みで、この作品まではオケも好調。
『椿姫』、そして『マノン』、各一幕ずつとはいえ、共に二場ずつあるので、
すでにこれだけでも、時間的に結構な量で、すでにお腹いっぱいの観客も多いはず。
『カプリッチョ』は、リヒャルト・シュトラウスの他の作品、
例えば『ばらの騎士』や『サロメ』などと言った作品に比べると、
少なくともメトでは(そして多分、世界のオペラハウスでも)、
上演頻度が少ない作品ではありますが、オペラにとって、音楽と言葉のどちらが大切か?という
非常に重要なテーマを、若くして未亡人となった伯爵夫人と二人の男性との
三角関係に重ね合わせて描いた、興味深い作品。
二人の男性がそれぞれ作曲家と詩人、つまり音楽と言葉を暗示していて、
伯爵夫人がどちらの男性を選ぶか、というプロットが、
音楽と言葉のどちらが重要か、という命題と重なっているわけです。
この彼女の選択が、三人が制作に関わっているオペラ作品のエンディングをも
決める、ということで、今日演奏される、この最終シーンでは、
”オペラのエンディング”という言葉がしばしば使われ、
それが、この『カプリッチョ』を最後の演目として持ってきた理由となっていると思われるのですが、
(そして、余韻のある終わり方もガラのエンディングにぴったり。)
作品の知名度という点では、『椿姫』、『マノン』に続いて、
上のものから段々と下がっていく結果になってしまったので、
なんと、二度目のインターミッションを挟んで『カプリッチョ』が始まる頃には、
帰ってしまったお客さんも少なくなく、空席がちらほら見られました。
オープニング・ナイトは、オペラヘッドが観客に占める率が一番低い公演だと私は見ていますが、
オープニング・ナイトは何よりも社交の場である、というタイプのお客さんにとっては、
この『カプリッチョ』は、最もどうでもいい、興味のわかない、辛抱の要る演目なのでしょう。
しかし、そんな早退組のお客様はお生憎様、としか申し上げようがない。
なぜなら、ルネ・フレミングの持ち味が最も良く出ていたのがこの作品だったから。
ジョン・ガリアーノがデザインした衣装を身にまとい、舞台に現れたルネ・フレミングの姿は、
まさに関西の派手なおばちゃん風。
写真ではこの迫力を十分にお伝えできないのがもどかしいが、
微妙に写りこんでいる、ターコイズやら金やら黒でできたプリント、
これが、背中では全身に及んでいるのだ。
そして、そのプリントが、なんともウィーンのアール・ヌーヴォーっぽい雰囲気をかもし出していて、
その派手なことは、まるで背中に彫りものをほどこしているかのような凄い迫力である。
まさに、悪趣味スレスレなのだけれども、少なくとも、セットの雰囲気に合わせて工夫を凝らし、
それを衣装に反映させようとした、そのチャレンジ精神は評価されてよいと思う。
(オペラは1770年代のパリという設定だが、コックスの演出では年代を1910-20年あたりに動かしている。)
しかし、この関西のおばちゃん風の上着を脱いだ後、下に着たドレスに現れた、
このゾウリムシのような、ポケットのような変な布は何、、?
体の左側から布に流れを生み出す効果を上げているのはよいのですが、
遠めに観ていると、ポケットの付いたドレスという感じで、かなり変ではありました。
ドレスのフォーム自体は美しいだけに、このゾウリムシ・ポケットは残念。
リスクが本当に、損失として顕在化してしまった、とでもいえばよいでしょうか、、。
それでも、目に優しい美しさ、ということであれば、前の二作品のデザイナーたちの
ドレスに軍配があがるでしょうが、リスクを承知でユニークな作品を提示したガリアーノの、
その心意気は買いたいと思います。
そして、ゾウリムシごときで心配することなかれ!!
なぜならば、フレミングの歌が、これまでのどの作品よりも、作品にフィットしていて、
今日のオープニング・ナイト・ガラの中で、最も聴きごたえのある作品となったからです。
惜しむらくはオケ。この長丁場の拘束時間(特にガラはインターミッションも、
通常の公演よりも長めになる傾向にあるので。)に、
やや疲れが出たか、もしくはこの作品がややリハーサル不足なのか、
サマーズ率いる演奏は、『椿姫』や『マノン』に比べると演奏の切れ味に欠けたのが残念。
特にオーケストレーションに関しては、『マノン』なんかに比べて、
ずっと複雑かつ面白く出来ている作品なので、オケが調子がよければ、もっともっと手ごたえのある、美しいものが聴けたはずです。
とにかく、ルネ・フレミングの、どこか人生に倦怠感を感じているような、
それでいて、何かを信じたい、と焦燥感も感じているような、
それら全てを洗練された態度にカモフラージュして、、と、
深みのある役作りが光っていました。
この演目に関しては、ガラ・バージョンをかなぐり捨て、本来の全幕公演に最も近いアプローチで
役に取り組んでいたような気がします。
まあ、しかし、当然といえば当然ですね。
演目の『カプリッチョ』自体、ガラ・バージョンをかなぐり捨てた、
かなりマニアックな演目なわけですから、、。
しかし、その”ガラにはマニアックすぎるのでは、、”と思われる危惧を押しても
プログラムに乗せただけあって、ルネ・フレミングの持ち味と良さが十全に出きっていました。
また、この最終場面は、ほとんど彼女のワンマン・ピース的な演奏なのですが、
一人でぐいぐいと舞台をひっぱっていく様は頼もしく、各作品ごとで色々な批判があっても、
やっぱり、それなりに力がある人なのだ、と実感。
今日の彼女と同じことを、同じくらいの存在感でこなせる歌手が他にどれだけいるのか?
と言われると、答えに窮しますから。
まずは(ゲルプ氏在任期間中は)今シーズンで最後になるであろうと思われる、
このスター依存型幕ものガラ。
”レトロ”もさることながら、こういったタイプのガラを支えられる力のある歌手の数が
現在極めて少ない、ということの方が実のところなのかもしれません。
Giuseppe Verdi LA TRAVIATA Act II
Renee Fleming (Violetta)
Ramon Vargas (Alfredo)
Thomas Hampson (Germont)
Theodore Hanslowe (Flora Bervoix)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Kathryn Day (Annina)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (A Messenger)
Conductor: James Levine
Production: Franco Zeffirelli
Costume Design for Renee Fleming: Christian Lacroix
Jules Massenet MANON Act III
Renee Fleming (Manon Lescaut)
Ramon Vargas (The Chevalier des Grieux)
Dwayne Croft (Lescaut)
Robert Lloyd (Count des Grieux)
Monica Yunus (Poussette)
Reveka Evangelia Mavrovitis (Javotte)
Ginger Costa-Jackson (Rosette)
Bernard Fitch (Guillot de Morfontaine)
John Hancock (De Bretigny)
Jason Hendrix (The Porter of the Seminary)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Costume for Renee Fleming: Karl Lagerfeld for Chanel
Richard Strauss CAPRICCIO Final Scene
Renee Fleming (The Countess)
Michael Devlin (Major-Domo)
Conductor: Patrick Summers
Production: John Cox
Costume for Renee Fleming: John Galliano
Grand Tier Box Odd/Front
ON
*** オープニング・ナイト・ガラ Opening Night Gala ***
<前編から続く>
最初のインターミッションをはさんで、マスネの『マノン』から第三幕。
ポネルが演出するこの舞台、第一場のクール・ラ・レーヌのお祭りの場面は、
ゼッフィレッリ演出の『ラ・ボエーム』のカフェ・モミュスのシーンとつい比べたくなるグランドさ。
空中には綱渡り用の綱が張られ、そこを行ったり来たりする曲芸師の姿も。
ただし、『ラ・ボエーム』が徹底的に写実的な感じがするのに対し、
こちらの『マノン』は、例えばプセット、ジャヴォット、ロゼットといった
脇役のボンネットを極端に大きくして、まるで、『不思議の国のアリス』の
いかれ帽子屋(マッド・ハッター)のような頭と体の比率に見せていたり、
写実的な描写には全くこだわらずに、むしろ祭りの”雰囲気”の再現に重心が置かれています。
ちなみに、私の連れは、マスネの『マノン』を嫌っていて、特にこの三幕一場で、
ギヨーが歌う Dig et dig et don!というフレーズを聴くとむしずが走るといい、
”マスネが舞台で屁をひって立ち去る音楽”とまで形容している。
言いすぎだろう、、、それ。
しかし、私も二場の修道院のシーンは好きだけど、この一場に関しては、正直、似た感想で、
詰め物的、というか、舞台を華やかにするためだけに作られたような音楽に聴こえるので、
聴いていて若干辛い。
『椿姫』の夜会のシーンでは、バレエのための音楽という体裁をとっていても、
きちんと曲のベースに、その後起こる事件へのテンションが時限爆弾のように
刻々と高まっているのとは、実に対照的です。
オープニング・ナイトにこの作品が選ばれたのも、まさにその華やかさゆえ、なのですが、
しかし、この豪華な演出でなければ、苦痛度がもっと高まっていたことは間違いありません。
ルネ・フレミングの衣装を担当したのは、シャネルのカール・ラガーフェルド。
これまた、祭りのシーンのセットで貴重となっている淡いライラックの色と、
あまりに似通っているともいえる、グレーとライラックの中間のような色のドレスをデザイン。
ただし、彼女の肌の色に非常に良くあっていて、美しく見せる色を採用しているあたりはさすが。
このドレスもバックが美しくて、少し高めの位置から裾をドレープさせて落としている
デザインは非常に凝っているのですが、オペラの舞台というのは、
歌手が客席に後ろを向ける時間が非常に短いので、
もうちょっと前身ごろのデザインに工夫が欲しかった気がします。
首周りのラインがあまりシャープでないために、やや野暮ったい感じがするのと、
胸とスカートの部分の切り替えの部分も、ただ縫い合わせてあるだけで、
なんのアクセントづけもないので、平面的で、べたーっとして見え、
後ろから観たときの美しさに比べると、前がまだ縫いかけなのかな?とも思えるほど平凡でした。
スカートの裾から少し上のところに、裾に平行して、クリスタルを縫い付けてあったりして、
ディテールにはものすごく凝っており、きっと側で見ると非常に美しい衣装なんでしょうが、
この細かさは、舞台を遠目で鑑賞している人に見えるのか、というのはやや疑問です。
ただし、下の写真にあるとおり、修道院のシーンでは、このドレスの上に、
黒いケープを重ねて登場するのですが、このケープをつけると、
襟ぐりや腰周りの野暮ったさが消え、とてもスタイリッシュな印象に。
『椿姫』でやや暴走してしまったのか、ルネ・フレミングがこの『マノン』のしょっぱなから
少し声が荒れだしたのが残念。
少し重めの声である割には、高音がいつも比較的安定している彼女なのですが、
今日は珍しく、この『マノン』で高音のコントロールにてこずっている感がありました。
二場の修道院の場で、デ・グリューを誘惑する際の彼女の演技のアプローチは、
議論も多いことでしょう。
というのも、祈祷台の上に仰向けに体を投げ出すという、
あまりにあからさまな誘惑の仕方に、思わず観客からどっという笑いが起こったからです。
本当に恐ろしいことです、
修道院という聖なる場所で、マノンへの未練と肉欲に耐えるデ・グリューの苦悶。
それを、Dig et dig et dongのような屁を先にひった割には、
うまく音楽にのせているマスネであるのに、この、たった一つの演技の方向性の誤りが、
全くこの物語の印象を違うものにしてしまったのです。
そういえば、DVD化された昨シーズンの『マノン・レスコー』(こちらはプッチーニの作品)の
ライブ・イン・HDにのった公演のインタビューの中で、デ・グリュー役を歌ったジョルダーニが、
”マスネのマノンとプッチーニのマノン・レスコーの違いは?”
と聞かれ(そして奇しくも、その時のインタビュアーはフレミング)、
”プッチーニの作品が、マノンとデ・グリューの恋、ほとんどそれしか描写していないのに対し、
マスネのマノンは、教会対煩悩の葛藤とか、恋以外のことにもポイントが置かれていること。”
と言っていましたっけ。
その大事なポイントである、教会と煩悩の対立が、コミカルな絵に終わってしまっては、
これが全幕の公演だったとしたら、噴飯ものだったことでしょう。
しかし、今日のガラでは、ややフレミングが、演技や歌を、ガラ仕様に組みなおしたのでは?
と思わされる場面が多く、この場面も、本当に作品が伝えたいことはとりあえず横に置き、
とにかく観客へのエンターテイメントに徹し、ピントが多少外れていても、
楽しんでもらえればよし!という方向を目指した場合、一つのアプローチの仕方ではあると思います。
レスコーを歌ったのはドウェイン・クロフト。彼はキャリアも長く、
舞台での立ち姿が美しいので、このあたりの役では安心して見ていられますが、
いつまでたっても彼らしさ・個性があまり出てこないのはなぜなのでしょう、、?至って地味、です。
登場場面は多くないながら、存在感があったのは、デ・グリュー父を演じたロバート・ロイド。
自分の思い通りに生きてくれない息子への苛立ちと怒り、許すということを知らない頑固さを、
巧みに歌い込んでいました。
パートは違えど(ロイドはバス)、ジェルモン父を歌ったトーマス・ハンプソンに、
彼のように役の性格をきちんと分析し、それを歌に込めるという姿勢が1/100あったなら、、。
ヴァルガスはこちらの作品でも真摯な歌唱を聴かせ、
”消え去れ、優しい面影よ Ah! Fuyez, douce image "も気合の入った、
彼にしては熱唱といえるものでしたが、ただ、それでも、まだ、
少し綺麗にまとまりすぎているというのか、もう少しドラマティックでもいいのだけれど、、
というのが私の感想です。
徒歩通勤の指揮者、マルコ・アルミリアートが指揮をすると、
レヴァインが振るときよりも、オケからずっとのびのびした音が出てくるような気がします。
歌手へのサポートも巧みで、この作品まではオケも好調。
『椿姫』、そして『マノン』、各一幕ずつとはいえ、共に二場ずつあるので、
すでにこれだけでも、時間的に結構な量で、すでにお腹いっぱいの観客も多いはず。
『カプリッチョ』は、リヒャルト・シュトラウスの他の作品、
例えば『ばらの騎士』や『サロメ』などと言った作品に比べると、
少なくともメトでは(そして多分、世界のオペラハウスでも)、
上演頻度が少ない作品ではありますが、オペラにとって、音楽と言葉のどちらが大切か?という
非常に重要なテーマを、若くして未亡人となった伯爵夫人と二人の男性との
三角関係に重ね合わせて描いた、興味深い作品。
二人の男性がそれぞれ作曲家と詩人、つまり音楽と言葉を暗示していて、
伯爵夫人がどちらの男性を選ぶか、というプロットが、
音楽と言葉のどちらが重要か、という命題と重なっているわけです。
この彼女の選択が、三人が制作に関わっているオペラ作品のエンディングをも
決める、ということで、今日演奏される、この最終シーンでは、
”オペラのエンディング”という言葉がしばしば使われ、
それが、この『カプリッチョ』を最後の演目として持ってきた理由となっていると思われるのですが、
(そして、余韻のある終わり方もガラのエンディングにぴったり。)
作品の知名度という点では、『椿姫』、『マノン』に続いて、
上のものから段々と下がっていく結果になってしまったので、
なんと、二度目のインターミッションを挟んで『カプリッチョ』が始まる頃には、
帰ってしまったお客さんも少なくなく、空席がちらほら見られました。
オープニング・ナイトは、オペラヘッドが観客に占める率が一番低い公演だと私は見ていますが、
オープニング・ナイトは何よりも社交の場である、というタイプのお客さんにとっては、
この『カプリッチョ』は、最もどうでもいい、興味のわかない、辛抱の要る演目なのでしょう。
しかし、そんな早退組のお客様はお生憎様、としか申し上げようがない。
なぜなら、ルネ・フレミングの持ち味が最も良く出ていたのがこの作品だったから。
ジョン・ガリアーノがデザインした衣装を身にまとい、舞台に現れたルネ・フレミングの姿は、
まさに関西の派手なおばちゃん風。
写真ではこの迫力を十分にお伝えできないのがもどかしいが、
微妙に写りこんでいる、ターコイズやら金やら黒でできたプリント、
これが、背中では全身に及んでいるのだ。
そして、そのプリントが、なんともウィーンのアール・ヌーヴォーっぽい雰囲気をかもし出していて、
その派手なことは、まるで背中に彫りものをほどこしているかのような凄い迫力である。
まさに、悪趣味スレスレなのだけれども、少なくとも、セットの雰囲気に合わせて工夫を凝らし、
それを衣装に反映させようとした、そのチャレンジ精神は評価されてよいと思う。
(オペラは1770年代のパリという設定だが、コックスの演出では年代を1910-20年あたりに動かしている。)
しかし、この関西のおばちゃん風の上着を脱いだ後、下に着たドレスに現れた、
このゾウリムシのような、ポケットのような変な布は何、、?
体の左側から布に流れを生み出す効果を上げているのはよいのですが、
遠めに観ていると、ポケットの付いたドレスという感じで、かなり変ではありました。
ドレスのフォーム自体は美しいだけに、このゾウリムシ・ポケットは残念。
リスクが本当に、損失として顕在化してしまった、とでもいえばよいでしょうか、、。
それでも、目に優しい美しさ、ということであれば、前の二作品のデザイナーたちの
ドレスに軍配があがるでしょうが、リスクを承知でユニークな作品を提示したガリアーノの、
その心意気は買いたいと思います。
そして、ゾウリムシごときで心配することなかれ!!
なぜならば、フレミングの歌が、これまでのどの作品よりも、作品にフィットしていて、
今日のオープニング・ナイト・ガラの中で、最も聴きごたえのある作品となったからです。
惜しむらくはオケ。この長丁場の拘束時間(特にガラはインターミッションも、
通常の公演よりも長めになる傾向にあるので。)に、
やや疲れが出たか、もしくはこの作品がややリハーサル不足なのか、
サマーズ率いる演奏は、『椿姫』や『マノン』に比べると演奏の切れ味に欠けたのが残念。
特にオーケストレーションに関しては、『マノン』なんかに比べて、
ずっと複雑かつ面白く出来ている作品なので、オケが調子がよければ、もっともっと手ごたえのある、美しいものが聴けたはずです。
とにかく、ルネ・フレミングの、どこか人生に倦怠感を感じているような、
それでいて、何かを信じたい、と焦燥感も感じているような、
それら全てを洗練された態度にカモフラージュして、、と、
深みのある役作りが光っていました。
この演目に関しては、ガラ・バージョンをかなぐり捨て、本来の全幕公演に最も近いアプローチで
役に取り組んでいたような気がします。
まあ、しかし、当然といえば当然ですね。
演目の『カプリッチョ』自体、ガラ・バージョンをかなぐり捨てた、
かなりマニアックな演目なわけですから、、。
しかし、その”ガラにはマニアックすぎるのでは、、”と思われる危惧を押しても
プログラムに乗せただけあって、ルネ・フレミングの持ち味と良さが十全に出きっていました。
また、この最終場面は、ほとんど彼女のワンマン・ピース的な演奏なのですが、
一人でぐいぐいと舞台をひっぱっていく様は頼もしく、各作品ごとで色々な批判があっても、
やっぱり、それなりに力がある人なのだ、と実感。
今日の彼女と同じことを、同じくらいの存在感でこなせる歌手が他にどれだけいるのか?
と言われると、答えに窮しますから。
まずは(ゲルプ氏在任期間中は)今シーズンで最後になるであろうと思われる、
このスター依存型幕ものガラ。
”レトロ”もさることながら、こういったタイプのガラを支えられる力のある歌手の数が
現在極めて少ない、ということの方が実のところなのかもしれません。
Giuseppe Verdi LA TRAVIATA Act II
Renee Fleming (Violetta)
Ramon Vargas (Alfredo)
Thomas Hampson (Germont)
Theodore Hanslowe (Flora Bervoix)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Kathryn Day (Annina)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (A Messenger)
Conductor: James Levine
Production: Franco Zeffirelli
Costume Design for Renee Fleming: Christian Lacroix
Jules Massenet MANON Act III
Renee Fleming (Manon Lescaut)
Ramon Vargas (The Chevalier des Grieux)
Dwayne Croft (Lescaut)
Robert Lloyd (Count des Grieux)
Monica Yunus (Poussette)
Reveka Evangelia Mavrovitis (Javotte)
Ginger Costa-Jackson (Rosette)
Bernard Fitch (Guillot de Morfontaine)
John Hancock (De Bretigny)
Jason Hendrix (The Porter of the Seminary)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Costume for Renee Fleming: Karl Lagerfeld for Chanel
Richard Strauss CAPRICCIO Final Scene
Renee Fleming (The Countess)
Michael Devlin (Major-Domo)
Conductor: Patrick Summers
Production: John Cox
Costume for Renee Fleming: John Galliano
Grand Tier Box Odd/Front
ON
*** オープニング・ナイト・ガラ Opening Night Gala ***