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音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

家で聴くオペラ (7) 夏休み鑑賞会 『椿姫』

2008-09-13 | 家で聴くオペラ
夏休み鑑賞会第一弾『蝶々夫人』に続いて手にした映像は『椿姫』。
やっぱり自分が好きなおかずから食べる人間であることを再度確認。
今日鑑賞するのは、2003年のエクサン・プロヴァンス音楽祭からの公演です。

作品が好きなのはもちろんですが、
1)ヴィオレッタを歌うドランシュというソプラノを初めて聴く機会である
2)2007年シーズンのメトの『椿姫』でも歌ったポレンザーニがアルフレードを歌う
3)そして、メト同シーズンの『マクベス』で端正な歌唱を聞かせたルチーチがジェルモンを歌う
という、これら3つの理由も大きい。
というわけで、すっかり注意はキャストに向かっていたので、視聴前までは、
演出には全く気が向いてませんでした。
だって、『椿姫』は普通に演出してくれれば、失敗しようのない傑作ですよ!
それはもう料理でいえば、市販のルーを使って作るカレーと同じ。
こだわってスパイスに凝って作れば、一味も二味もおいしくなるけれど、市販のルーでもまずはおいしい。
音楽が素晴らしいのだから、きちんとそれについていってくれさえすればいいんです!
しかし、この映像を見てびっくり!
今や、そんな願いも叶わないらしい・・。
何でカレーに、マヨネーズやらケチャップやら、わけのわからないものを入れようとするのでしょうか?

まず、この公演では、ヴィオレッタをマリリン・モンローに見立てているらしいことは、
この映像が市販化されたベル・エアという会社から発売されているDVDのジャケット
(冒頭の写真)にもあるとおり。

うーん、、、二人の共通項といえば、時代に振り回されるという境遇にあったことくらいで、
全然タイプが違う人間だと私は思うのですが、、。

衣装のドレスには、ネオン・カラーの蛍光灯が仕込まれたりしていて、
80年代のバンドによるMTVのビデオ・クリップを思い出します。
(ワム!、デュラン・デュラン、、ああ、懐かしい、、。)
80年代回顧趣味はファッションだけかと思えば、こんなオペラの演出の場にまで、、。

しかも、ヴィオレッタを歌うドランシュ、やや歯並びが悪いのか、
特にこの公演のメークのもとでは、ものすごいドラキュラ顔に見えます。
一幕の、ドゥミ・モンド(裏社交界。社交界に属している男性が、愛人などを伴って現れる世界。
愛人とはもちろん、ヴィオレッタのような高級娼婦たちである。)のパーティーのシーンも、
出席者全員、まるでゴス・パーティーのよう、、。
あの、、、一応、このパーティーに現れる男性たちは当時の上流社会の男性たちで、
しかも娼婦とはいえ、同伴する女性にも同格のマナーと会話のセンスが求められているんですが、、。
むしろ、限りなくかように真の社交界と似ていながら、れっきとした線がドゥミ・モンドとの間に
存在している、
このことにこそ、この『椿姫』の悲劇性があるのに、このムスバッハの演出では、
そのあたりがあまりにうやむやです。

ヴィオレッタは幕の最後まで、自分は”道をふみ誤った女(オペラの原題”ラ・トラヴィアータ”は直訳すると、
そういう意味です。)”であり、
決して、ドゥミ・モンドではない表の世界で恋をすることは許されないのだわ、と嘆き、
また、アルフレードの父ジェルモンが表の世界の都合のよい論理によって、
ヴィオレッタとアルフレードの真剣な恋を引き裂く結果になる、
これらのことは、すべてこの表の世界とドゥミ・モンドの間にはっきりと存在している
境界線があってこそ、のはずです。

どうして、このような演出を?と頭をひねらされるのは第二幕も同じ。
父ジェルモンがヴィオレッタにアルフレードのことをあきらめさせようとする場面。
私は我が目を疑いましたです。
説得するうちにヴィオレッタの美貌
(ドランシュのドラキュラちっくなルックスはこの際忘れなければならない。)にくらっと来た
父ジェルモンは、あろうことか、マリリン風ヴィオレッタに色めき立っている風なのです!!!
父ジェルモンをケネディ兄弟扱いするとは、、泣けてきます。

私が一部のヨーロッパの歌劇場でよく上演されている前衛的な演出を受け入れにくく、
まだそれならばメトのような保守的な演出の方が救われると感じる理由は、
前者が、”こんなアイディアがあるんですよ~”という発見を誇示するためだけにに、
越えてはいけない物語の大前提とか骨組みを越え、また、無視してしまう、
そこにあるのだと感じます。


(ルチーチ演じる強面の父ジェルモンとドランシュ演じるドラキュラ系マリリン風ヴィオレッタ)

このシーンは、表世界の論理と娘への愛情で武装した父ジェルモンと、
今や自分の存在のたった一つの理由となっているアルフレードとの愛を何としてでも
守ろうとするヴィオレッタの一騎打ちの場面なはずです。

この構図をはっきりさせるためには、余計なことを一切含めるべきでない。
ジェルモンがヴィオレッタに色心を抱くなんて論外です。
そんな程度の解釈を見せて、観客に”ほう、そういう見方もあったか。”と
思わせたところで、それが、『椿姫』の物語を語るのに、一体何ほどの意味があるというのか?
どんなに奇抜なアイディアでも、きちんと物語に沿っていれば、私は構わないと思っていますが、
これだから、こういった前衛的な演出が、口さがないアメリカ人オペラヘッドに、
”ユーロトラッシュ”(ヨーロッパのごみ屑)などと言われてしまうのです。

また、こういった個別のアイディアのみに演出が頼り切っているのも問題。
ヴィオレッタが跪いて歌う中、車の中から撮影したと思われる、
後ろに走り去る夜中の道路の路面の映像がずっとうしろで流れているのも、
そういった”個別のアイディア”の一例ですが、
鑑賞後、ひたすら道路で泣き崩れていたなあ、ヴィオレッタは、という印象しか残らない。
ウェブには、”轢き逃げされたヴィオレッタ”とこの映像を揶揄しているコメントも見られましたが、無理もありません。

オケはパリ管。
音そのものはチャーミングで、第一幕の前奏曲から幕が開いてすぐあたりまでの短い間は、
この物語の舞台であるパリの軽妙な感じも出ていて、いいのですが、
これは指揮者の佐渡氏の指示なのか、全体を通して非常にプラスチック的な音作り。
演出に合わせた意図的なものであるとするなら、成功はしているとは思いますが、格調の高さは一切のぞめません。

そして、ディテールの話をすれば、合唱が音に入り損ねたり、
ポレンザーニとオケの息が全く合っていないなど、え??と思わされる場面が見られました。
エクサン・プロヴァンスの舞台やオケ・ピットの構造がどのようになっているのか知りませんが、
まるで、舞台から指揮者が見えていないのではないか?と思ったほど。
しかし、オペラの指揮者は、歌い手の歌のリズムや呼吸を感じ取れなければいけないと思う。
そういう意味では佐渡氏、ちょっと微妙です。

演出に驚かされて歌手についてのコメントが最後になってしまいました。

まずアルフレードを歌ったポレンザーニ。
この2003年の映像では、非常に若々しく、理想的なアルフレードです。
たたずまい、声の若々しさ、歌い方も丁寧ですばらしい。
オケと息が合わない個所と、ブレスが少し微妙な個所はありましたが、
全体的で見ると、メインのキャスト中、最も魅力的な歌を聴かせたのは彼でした。
それに比べると、メトで2007年に、ルネ・フレミングのヴィオレッタを相手にアルフレードを歌ったときは、
少しおっさんくさい感じが漂っていて、なんだかとうが立っているような気がしたものです。
たった4、5年でなぜそう老ける?
発声に関しても、ここ最近生で聴いたものとはだいぶ印象が違っていて、
アルフレード役に関しては、一番いい時期は過ぎてしまったかも、、という気もします。

4,5年のうちに何があった?と言えば、ルチーチも負けてません。
2007年シーズンのメトの『マクベス』の、あの夫人に尻に敷かれっぱなしで、
おどおど、ぎくぎくした感じと同一人物とは思えぬ、
眼光鋭いジェルモンで、むしろ、ジェルモンにしてはちょっとキャラクターが強すぎるかも、と思えたほど。
ということは、あのマクベスは演技、、?いよいよ、今シーズンメトで披露する
ルーナ伯爵、リゴレット、そしてジェルモンの三役が楽しみです。
声はこの頃から端正で綺麗。ニ幕でアルフレードと絡む場面はテンションも高く、
この映像で最も見ごたえのあるシーン。
しかし、最後にヴィオレッタに会いに来るシーンもなぜか強面で、
最後まで、かなり怖い親父系のジェルモンなのでした。

男性歌唱陣が頑張っているのに比べると、やや残念だったのがドランシュの歌唱の出来。
声そのものは綺麗だと思うのですが、簡単に言うと、この役に必要なものが備わっていない、
ということに尽きるでしょうか?

彼女はフランスのソプラノで、ヴィオレッタ役よりもむしろ、
ラモーとかグルックといった作品等で評価が高いようなのですが、
このヴィオレッタ役を聴く限り、あるところから上の音域になると、
突然声が痩せてしまうというか、シャローで、絞りだすような発声になってしまうのが致命的。
高音が頭から抜けてこないで、喉の奥でうがいをしているような音になってしまうのも気になります。
また、ディクションのせいもあるかもしれませんが、
発声がイタリア・オペラ、特にこのヴィオレッタ役の一幕で必要とされるベル・カント的な
サウンドではあまりないので、このヴィオレッタ役にはやや違和感があります。
ベル・カント~ヴェルディなどのイタリアものよりは、むしろ、
リヒャルト・シュトラウスとか、モーツァルトの作品に向いた声質なのではないかと思います。

努力型の人ではあるようで、細かいパッセージは決してぼろぼろではないし、
またレチタティーヴォ(アリアや重唱に対し、台詞の代わりともいえる、
朗唱的な部分)の歌い方には
工夫が見られますが、
むしろ、アリアなどのビッグ・シーンで、声質と役とのミスマッチさと、
技量の不足が露呈してしまっています。
まず、この役に必要な基本的な技術を会得するところから始めなければ。
それがないところを補おうとするのか、感情過多な歌唱が多く見られたのも辛かった。
基本的な技術がないところに感情過多な歌を歌っても、それは砂で城を作ろうとするようなものです。

ニ幕の"Amami, Alfredo"、これほど盛り上がらないAmamiも珍しいです。

参考までに、以前当ブログでご紹介した
2007年のメトでルース・アン・スウェンソンの代役をつとめ観客から大喝采を受けたエルモネラ・ヤホ
ライブのAmamiがYou Tubeにあがっているのでご紹介します。
(ただしこの映像はメトのものではありません。どこの歌劇場のものか、等、詳細は不明です。)
まだ荒削りではありますが、きちんと伝わるものがある。
こういう歌を聴きたいものです。

それから三幕のジェルモンからの手紙を読むシーン。ここはこんなに感情を込めず、
枯れた感じで読んでほしい。なんと言っても、もうあきらめの境地に入っているわけですから。

というわけで、ヴィオレッタ役として比較的に安定した評価を得ているゲオルギューが、
もう十年ほどこの役を一線で歌っており、今だ決定的に彼女に続くヴィオレッタ歌いが
出ていない、というあたりに寂しいものを感じます。
ドランシュは残念ながら、そういった次代のヴィオレッタ歌いになるとは思えません。
他の若手に頑張ってもらわなければ!


Mireille Delunsch (Violetta)
Matthew Polenzani (Alfredo)
Zeljko Lucic (Germont)
Damiana Pinti (Flora)
Genevieve Kaemmerien (Annina)
Orchestre de Paris and EuropaChor Akademie
Conductor: Yutaka Sado
Director: Peter Mussbach
Performed at Theatre de l'Archeveche for Aix-en-Provence on July 9, 2003

*** ヴェルディ 椿姫 Verdi La Traviata ***

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2 コメント

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好き嫌い (yol)
2008-09-15 12:39:18
マリリン・モンローをイメージしたヴィオレッタなんて面白い発想だわね。

ミュージカル「レント」(だっけ?)も元は「ラ・ボエーム」が下地よね?
オペラって基本的なものしか観たことはないのだけれど、本や記事を読むと色々な演出バージョンがあるのに驚かされます。

私はどうしてもコンサバ傾向から抜けられないところがあって、やはり王道たる作品は王道であって欲しい、前衛?何それ?というのが基本理念です。

例えロシア方面の舞台セットがシャビーなものであっても、やはり本流に沿った、王道をいっているものが好き。

これはバレエにも言えていて、「白鳥」や「眠り」などもたまにおや?あれ?という現代チックにおきかえたものがあるけど、どんなに面白いと言えども、後々まで心を惹かれることはまず今まで無いのです。

頑固者なのでここはなかなか崩せそうに無いのかもしれない。
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レントといえば (Madokakip)
2008-09-16 12:30:48
 yol嬢、

>ミュージカル「レント」(だっけ?)も元は「ラ・ボエーム」が下地よね?

そうよ。でも、タイムリーなことに、
9/7を持って、ブロードウェイでの上演が終わってしまいました。
12年ものロング・ランを誇っていたのに、、。
これで、しぶとく残っているのは、オペラ座の怪人くらいになってしまいました。
『レント』は何年か前に映画化もされて、
巻き返しなるか?と思ったのだけど、結局、クローズに。
これで、いかに『ラ・ボエーム』がすごいかがわかるわよね。
初演から12年どころか、112年(!)も経っているのに、
尚色褪せず、観客の心を捉え続けているんだから。
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