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Terminator-明暗境界線-

2006-07-26 23:44:47 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

難航に難航を重ねた業務企画も一段落して、納品した成果物のチェックも無事に終了し、ようやく多少は自分の時間も持てるようになった。
正直言って、難航した業務は成果物の品質に問題のあることも多いのだが、今回はその点も無事にクリアしたので、本当によかったよかった。
というわけで、今日は久々に晴れたこともあり、撮影がてらメーカー系ギャラリーをチェックしにいった。


今回のお目当ては、ニコンサロンで開催されている小林静輝展「都市回廊」なのだが、同時にプレイスMでも平行して「都市回廊II」が開催されていたため、まずはプレイスMの方を訪れてみた。
プレイスMでの展示を観た印象は、個人的に好きな作品ではあるものの、なにか腑に落ちないというか、行間に感じられる抑制されたなにか、であった。それは、作家自身が「あえて無難にまとることを選択した」かのような抑制であり、もうひとつの展示におけるガチンコ勝負を十分に予感させるものであった。


果たせるかな、ニコンサロンにおける展示は、まさしくガチンコ勝負そのものだった。
意表をついた展開と仕掛けで(特にプレイスMでの展示を観た後では)、自分なんぞは一撃でノックアウトである。まだ展示期間が残っているので、具体的な内容には言及しないが、プレイスMとニコンサロンでの展示が相互に極めてよく補完しあっているのは間違いない。ただ、あえて言えばニコンサロンの展示は写真という世界を超越した位置にあるが、プレイスMの展示はあくまでも写真という世界の内側にあり、写真愛好者へ向けている点が、最も根本的な相違点ではないかと思う。
もちろん、ニコンサロンでの展示だけでも十分に高い水準に到達しているのだが、可能であればプレイスMへも足を運んでほしい。


ニコンサロンを出た後は、コニカミノルタプラザへ足を向ける。こちらのお目当ては2005年度のフォト・プレミオ年度賞受賞発表展だが、いずれの展示も既に観ていたので、半ばお祝いを意を表しに行ったようなものでもある。
ただ、こちらにも意外な要素が皆無だったわけではなく、例えば特別賞に選出されたある展示など、白状してしまうと「作品を観て、初めて展示を観ていたことを思い出した」ような有様だった。とはいえ、自分の写真に対する感性などはたかが知れているので、まぁ意外というのはおこがましい限りなのかもしれない。
そして、おこがましいついでに言わせていただくなら、やはり山方伸写真展「bee fly」の年度大賞受賞は、非常にうれしい意外性に富んでいたといえるだろう。
山方氏の「bee fly」は、写真の世界における昨今の流れといささか距離のある展示だと思っていたので、そもそもメーカー系ギャラリーでの展示が決まったこと自体、非常にうれしい驚きを禁じえなかったし、まして大賞を受けるとは、まったく予想していなかった。もちろん、自分自身も山方氏の「bee fly」は高く評価していたが、同時に写真という世界を超越した位置にある展示だとも思っていたため、写真という世界の内側の人々がどのように受け止めるのか、率直に言って疑問を持っていたのだ。


自分は「写真という世界」と、あたかも確固たる職能集団でも存在しているかのように書くが、当然ながらそのようなものは実在しない。
ただ、写真をこよなく愛好する人々が漫然かつ漠然と意識する、曖昧模糊としていながらも明らかに特定の方向へと収斂される価値観というか、概念上の空間が存在していることは、多くの人々が肯定するところであろう。
そして、この「写真という世界」の内側に属する人々は、まずなによりも写真を愛好し、写真の価値を高め、さらには写真のすばらしさを広めようと、自らが「写真をどれほどまでに愛好し、かつ価値を高めるために努力しているか」を、積極的に発信し続けている。また、同時に「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としているが、その論拠は往々にしてあいまいで、論拠があいまいであることには極めて無自覚だったりもする。
おそらく、写真という世界の明暗境界線は、写真の有する価値に対して、根源的な疑義を呈することが可能か否か、もっと端的に言ってしまうなら、写真が大好きで写真はすばらしいものだと「無邪気かつナイーブに公言できる」か否か、その点にあるのではないかと思う。


自分は写真を映像メディアのひとつだと捉えているし、その価値判断については、まったく何の関心も持っていない。
そして、写真作品についても「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としているものより、作家自身が写真という存在の価値に対して、心ひそかに疑問を抱いているかのような作品のほうを愛好し、かつ肯定的に評価している。


写真という表現手段を選択しながら、作家自身が「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としないのは、ある意味で自己否定にさえつながりかねない危うさを秘めているし、少なくとも「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としている人々から疎外されるリスクを背負うこととなる。
そのような危険を冒してもなお、既に形成されている世界の価値観を超え、新たな世界を拓こうとする人々に対して、自分は心から敬意を表したいと願うし、また自分もそうありたいと心がけているのだ。



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