久しぶりに「物語」らしい本を読んだ。時間とともに流れていく、家庭や周りの人々の暮らし、人と人との繋がり、喜び苦しみが次第に過去の歴史になっていくところ。
こういうジャンルがあり、最近まで、長くこういう読書の楽しみ方をしてきたのだったと思いながら、落ち着いた時間の中で、登場人物たちの喜怒哀楽とともに過ごした。
大きく言えば「人間愛」の物語であり、そして、有名な言葉を引くまでもなく、不幸は自分だけの思い込みにすぎない「愛の形」で作られているのだ、ということが今更のように実感される。生きるということの本質は、愛なのかエゴなのか、酷なことに、時はそれを鮮明にする前に流れ去ることである。
* * *
裏表紙より
1964年のある大雪の夜。医師デイヴィッドと妻ノラは男女の双子に恵まれるが、女児はダウン症だった。デイヴィッドは妻を悲しませたくないがために、とっさに娘を人手に渡し、妻には死産だったと偽るのだったが・・・・。
一見裕福で幸せそうな夫婦、娘を預かった孤独な女、別々に育てられる兄妹----たった一つの嘘によって、それぞれの人生がもつれた糸のように複雑に絡み合っていく。
デヴィッドは整形外科医だったが、雪のため産科医が事故に遭い、切羽詰った妻の出産に彼が子どもを取り上げることになった。最初に生まれたのは元気な男児だった、しかしあとの子どもは女の子で、一見してすぐにダウン症の明確な兆候を確認した。さまざまな思いが錯綜する中で、仕事場で、付き添いの看護師の好意を感じていた、それを利用した形で、そのまま施設に預けに行くように頼む。
そこから話が始まる。
看護師は離れた施設に車を飛ばすが、中に入った途端、冷え冷えとした空気、放置されたような荒れた建物におびえた。彼女はついに自分の手にか弱い娘を抱きしめて帰宅し、育てることにする。
一方デヴィッドはやはり罪の意識と、妻のなくした子に対する愛情の板ばさみになり、辛い日常から逃れるために苦しんでいた。
妻も息子の成長に癒されながらも、顔を見ることも出来ずに亡くした娘の面影を思い続けていた。
夫婦の間は子どもの話が始まるたびに次第に冷えていった。
そんな中でも,なにも知らない子どもは、這い歩き、学校に通い、成長していった。
男の子(ポール)は才能を認められ、好きなギタリストになることに決めていたが、デヴィッドは堅実な仕事について欲しかった。
彼には貧しく育った過去があり、今の生活を受け入れて、彼にも理解して欲しかった。
だが、ポールはジュリアードに入り自分の道を進むようになる。
看護師(キャロライン)に育てられた娘フィービも成長した。
ダウン症から来る心臓疾患も、平均して見られる短命という症例も彼女は無事に潜り抜けてきた。
キャロラインたちのダウン症の子を持つ人々の輪は、一般教育を受ける権利を獲得し、フィービは多少緩慢ではあるが不自由なく話し書くことが出来た。
デイヴィッドもまたダウン症の姉を持っていたが早くに亡くなっていた。その当時の家族写真は過去を思い、記憶をとどめる大切な一枚だった。
彼は写真にのめりこみ、いつか世間からも評価されるようになった。
キャロラインはフィービの写真を入れた手紙をデイヴィッドに送り続けていたが。
彼は一度もフィービに会うことはなかった。
妻ノラは妹と興した旅行会社で成功し、忙しい毎日を送るようになった。
デイヴィッドは退職して、診療所を開き貧富を超えて多くの人々の病を診ていた。
* * *
母性愛と、社会を背負った父親の、相容れない部分が深い溝を作っていく。
そして二人の成長と、25年という年月がいつの間にか全てのものを巻き込んで物語の世界に連れて行く。
ただ、私は、話題になった「八月の蝉」という本が好きではなかった。読みかけてはみるが、多少理解できないところもあって途中で読むのを止めてしまったが。どこか似たような雰囲気も感じた。
この「メモリー・キーパーの娘」のようなテーマは読む人全てに受け入れられるものなのだろうか。大きなお世話かもしれないがそんな名作は稀だろう。
この本のような母性愛、父性の表し方の違いも全ての人に当てはまるとは限らず、昨今、主夫という言葉も出来たことを思った。
だが、子どもを持つこと育てること、登場人物の哀しい背景とも相まって、出来れば読んでみてとお勧めする、悲しく暖かい、後味のいい、よく出来た作品だった。
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