<旅行2日目つづき>
さて、ダンケルクに別れを告げた私が次に向かったのは、カレー。ダンケルクから約40kmくらい離れた、人口7万4千人くらいの街になります。ダンケルクからは電車で2時間と少し(TER)。ここから船にのってドーバー海峡(フランスではカレー海峡と呼称)に渡ります。
なんとカレー港とドーバー港、直線距離で40km程度で、本当に近い(Googleマップで算出)。
ダンケルクよりも早く付くだろうし(ドーバー港~ダンケルク港の直線距離:約50-60 km)、スピットファイアの燃料もダンケルクに行くより使わずにすんだのではなかろうか。
カレーは劇中でコリンズに「ダンケルクは遠すぎる。なぜカレーじゃないのか(=カレーから救出しないのか?)/Dunkirk is so far. Why can't they load at Calais?」と言われた街ですが、イギリス等との交易の窓口でもあったり地理的な近さもあったり、イギリス支配下にあったこともあったり(1347年から1558年までイギリス領土。エリザベス1世の姉・メアリー女王の治世の時に失陥)、イギリス人にとっては大陸におけるイギリスの拠点都市として馴染のある街なのかも。
到着したカレー駅(原宿駅より少し大きいくらいの駅舎)を降りて、いざ港に。シャトルバスか、それともタクシーがあるとの情報を得てましたので、どちらかでフェリーポート(港)まで向かう…予定だったのですが、いつまでたってもどちらも現れず。短気な私は「ええい、ままよ」と徒歩でフェリーポートまで向かいました(だいたい30分程度で着くとgoogle先生が)。街中にちょいちょいフェリーポートまでの看板もあるし、遠くにフェリーが停泊してたのも見えたし、うん大丈夫…と楽天的に考えて。

カレー駅。本当にチマッとしてた。
結論として、もう二度とやらない(血反吐)
少なくとも、ゴロゴロを持って30分も石畳の街を30分歩いてフェリーポートに行かないです...orz。
最初のうちは良かったんですが、だんだん重く感じるキャリーケース(石畳だから余計に)、本当にここなのか?!と疑わしい徒歩客専用の入り口+そこから結構いりくんた道が続いていつまでも歩く道…。
Google先生の言う通り、30分で確かに到着したけれど、荷物(特にキャリーケース)を持ったままだとキツイので、同じ条件だったら二度目は無いな…と思いました。
ところで、カレーといえば、ダンケルク同様、WW IやWW IIで破壊された街で、Google検索で「ダンケルク カレー」と検索すると、その他の検索ワードとして「犠牲」などの言葉が出てくる都市でもあります。
1940年6月5日の東京朝日新聞でも、ダンケルクの英兵30万人帰還の記事の中で「『(ダンケルク脱出作戦の)この裏で特記すべきは4日にわたる壮烈なるカレーの市街地戦である。しかしカレーは4日の後遂に喪われた。この時傷を負わない英兵は僅かに30名にすぎなかったが、この犠牲的死守によって英遠征軍は脱出作戦に成功した。カレーの英司令官はドイツより時間つきで降伏を求められたが彼は拒絶した』と(チャーチルは)述べた」とあり、そこに少しばかりスン…となるという。<( )内、ガバ鳥による補足
この後にロンドンでチャーチル博物館・戦時執務室を見学したときにも、壁に広がる地図と、そこに書かれたDunkirkやCalaisの地名に言葉もなく。ゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じた映画、「Darkest hour(邦題:ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男)」でもその描写がありましたが。
上記の記事の中で言及されている司令官(ニコルソン准将)は1940年5月26日のカレー失陥の後に捕虜となり、数年後に収容所で死亡するわけですが(転落死とも自殺とも)、ダンケルクの奇跡と呼ばれた撤退戦の裏には救援が間に合わなかった/見捨てられた悲劇もあったわけで。
『私は、カレーは死守し、守備隊に海路退却を許さない決心をした。(中略)数少ない、このような立派な、訓練された軍隊を2日か3日の時間を稼ぐというおぼつかない利益のため、しかもその日時を利用できるかどうかもわからないのに、犠牲にすることは辛い限りであった。守備隊を引き上げないという最終決定は、五月二十六日の夜に行われた。それまで駆逐艦を待機させてあった。(中略)ダンケルクの救出を妨げる原因は他にもあったかもしれないが、カレーの防衛によって稼いだ3日間のおかげで、グラヴリーヌの水路が確保されたことは確かである。』(W.チャーチル『第二次世界大戦』より抜粋)
とはいえ、1940年5月16日にはすでにダンケルクに限らずヨーロッパ大陸に派遣されたイギリス軍に対して「危険状況における大兵団の撤退について討論」が検討され始め、かつ5/14にはBBCラジオを通じて海軍より民間の小型ボートの登録要請もでていたので、時間やリソースの問題もからんでいたんでしょうか。来たるべき本土決戦に備えてRAFも「出し惜しみ」をしていたように。
<RAFの戦闘機集団司令官のダウディング大将はフランス防衛のための戦いへの(新たな)イギリス空軍戦闘機部隊投入を拒否している。

古い街らしいな..と思った塔を歩きながら激写
ということで、そんなこんなの考えをしつつ、旧い都市らしい空気を醸していた市街をゴロゴロ荷物を引きづり歩き、なんとかチェックインの時刻ギリギリ(出港時刻1時間前)にフェリーポートに到着しました。暑くて汗だくになってフェリーの窓口に駆け込む羽目になりましたが。
私「すみません、チェックイン!チケット、あああ、Hello, Mr. I’d like to check-in a ferry for Dover that I booked…(唾をとばす)ぶっふぉ」←ばか
さて、無事にチェックインを終えた私は、Pedestrian assembly pointで待てと書かれていたので、そのポイントで待機してフェリーにつれていってくれるバス(+出国入国審査)を待つことに。
しかし、いつまでたっても(出発30分前になっても)案内アナウンスがないし係の人もやってこない。
Pedestrian/Foot Passenger(乗り物無しの徒歩乗客)どこからいつフェリーに乗ればいいのか問題の発生(私の中で)。
乗り場からフェリーにつれていってくれるバスはいつどこから出発するのか、チェックインの時の説明や館内アナウンスを聞き逃したのか(フランス語の後に英語でアナウンスがあるから聞き逃したとは思いにくいが)、そして出国審査と入国審査はどうするのか、出航まであと30分なのにどうするんだろうか、ぐるんぐるんと頭の中を嫌な予感が駆け巡る。

不安…。
不安な気持ちでアナウンス/係員を待ち続けること○○分、ようやく表れた係員らしき人に女性が話しかけたのを見つけたので、彼女に便乗して質問をすることに。
私「予約したドーバー行の便に乗りたいんですが、どうやって乗れば良いですか?どのバスに乗ればいいの?」(半泣きブロークン英語で質問する私)
係員さん’Oh! You are lucky! I’ll take you with her!’ (忘れようのない単語)
私’Thanks!’(喜びで打ち震える私)
ラッキーなことに、質問した係員さんがまさに案内の担当者であり、かつ先に質問をしていた彼女も一緒のフェリーに乗る徒歩の乗客で、(フェリーに乗るための)連絡バスに連れて行ってくれて、そのまま一緒に出国+入国審査をすることに(カレーの港でフランス出国+イギリス入国審査をしてしまう)。

安心…(バスの中でぐったり)
バスに乗ってドキドキしながら言われるがままに事務所に出たり入ったりして出国+入国審査を受けて、言われるがままにバスで荷物検査を受けて、ゴロゴロ荷物を引きづりながら、なんとかフェリーに乗船です。いやね、もうドキドキしすぎて、バスに乗るときに”Bon voyage”のカード(フェリーに乗船する際に渡す)を貰ったのはいいのですが、その写真をとる余裕もない時間でございました…(チキンだから)。
ちなみにターミナルビルのPedestrian assembly pointには他にも沢山の徒歩乗客する人たち(小学生集団、買い物おばちゃん集団など)がいて、いざとなったらその人たちに付いて行けば良いかな…と思っていたのですが、結局ドーバー行のフェリーに徒歩で乗る客は、私+女性(私より先に質問してた人)+フランス人家族4人の6人のみで、まっったく私の憶測とは外れていたので、分らないときは係員/スタッフに質問をするべきだ、たとえ英語が聞き取れなくても別の人にも聞いてみるなどして何回かアタックするべきだ、と心の底から思いましたね。
(閑話休題)
ということで、フェリーに乗っていざドーバーへ出航。約32km、約90分の船旅です(本当に近い!)。
それにしてもドイツがイギリス上陸を目的としたアシカ作戦は失敗だったけど、当時の技術でどれくらいの時間やプロセスでイギリス南部に到達して侵攻していくスケジュールだったんですかね?
もしこれが全面的に実現してたら、ラムゼー中将ひきいるイギリス海軍だったり、RAFの第11戦闘機群(司令官:パーク少将)だったりがドーバー海峡でドイツ海軍・空軍を迎え撃ってた展開になってたんでしょうか。←BOB(バトルオブブリテン)のことはおいといて。

さよならカレー、さよならフランス…。
ということで、フェリーは沢山のお客をのせて(自転車、車、バスの乗客)、30分遅れで出発。波も穏やか。船の中ではポンドが使用され、すでに雰囲気はイギリスな感じ。アナウンスも英語が先でフランス語の方が後になりました(当然ですが、カレー港ではフランス語→英語の順番でアナウンス)。
売店にはイギリスのメーカーのサンドイッチや、英語表示のポテチが売られておりました。乗務員もイギリス人が多く、雰囲気がいっきにイギリス。フランスで戦っていたトミーたちがムーンストーン号に乗った時の雰囲気に、ほんの少しだけ触れた気分でした(見慣れた文字の表示、見慣れた食器や紅茶…)。ということで、船内とドーバー海峡を楽しみながらの航海となりました。

スピットファイアのポテチとサンドイッチ。美味しかった。

穏やかなドーバー海峡。ダイナモ作戦当時も(奇跡的に)波は穏やかだったそうな。海に対して船が本当に心細いくらい小さく見える。‘O God, thy sea is so great and my boat is so small.'(神よ、海は広く、私の船はあまりにも小さい)
ところで、劇中ではトミーがドーセット(イングランド南西部の街;ドーソン親子+ジョージの住んでいる街)の白い崖をみて「ドーバー?」と問いかける元となった、ドーバーの白い崖(ホワイトクリフ)ですが、本当に白いです…。そして大きい。遠く離れた地点からでもはっきりとした大きさの白い崖が見えるくらい。流石は英国の通称「アルビオン」の元となった崖なだけはあります。
イギリスからフランスに行くときは遠ざかり、フランスからイギリスに帰ってくるときには近づいてくるので、イングランドから大陸へ渡っていくイギリス人にとって、白い崖は故国(イギリス)のランドマーク的なものなのかもしれません。トミーたちもフランスに出征して行くときに、遠ざかっていくドーバーの白い崖を船から見ていたのかも。

フェリーから見えたドーバーの白い崖(ホワイトクリフ)
そんなこんなで、ドーバー港に到着して下船した私は、これまたヒーヒー荷物を引きづりながらホテルへと向かいました(フランス人家族に先にタクシー譲ったら、次がいつまでも来なかった…)。
<出国審査はカレーで済ませたからノーチェック
ホテル(B&B)へエッチラオッチラ歩いて行く途中、巨大な白い崖に圧倒されつつ(本当に大きい)、ホテルに到着(20時30分くらい。北に位置する関係で、日が落ちるのが遅いせいで20時でも暗くならない)。
好みドストライク+いたれりつくせりのB&Bの部屋でくつろぎながら、イングランドの鍵と呼ばれたドーバーでの散策の予定を練って旅行2日目の夜が更けていくのでした。

圧倒された白い崖(ホテルに行く道から撮影)


ドストライクだったB&Bの部屋(また泊まりたい…)
(ドーバー編に続く)
旅行2日目の移動)
ダンケルク駅→カレー駅(SNCF鉄道);2時間程度
カレー駅→カレー港:徒歩30分
カレー港→ドーバー港;フェリー(P&Oフェリー)で90分程度
ドーバー港→ドーバー駅近く;徒歩30分程度
iphoneに入ってるアプリで算出されたウォーキング+ランニングの距離)
旅行2日目:17.2 km
【追記】2019/2/18
ドーバー海峡(フランス~イギリス)を行き来するフェリーの会社はP&O ferries社、DFDS seaways社の2社(2018年7月現在)。P&O社はカレー~ドーバー、DFDS seaways社はダンケルク~ドーバー及びカレー~ドーバー間を運航。DFDS seaways社のフェリーについては、徒歩の乗客(=自家用車や自転車等の乗り物に乗っていない客)は利用できないため注意。
Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. ダンケルク海岸線、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
4. アシカ作戦、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
5. バトルオブブリテン 戦闘機集団レーダー網、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
6.Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・ドーバー城・ダイナモ作戦室編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
7. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・海峡フェリー編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
8. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・カレー編」<twitterモーメント> (参照2018-04-24)
9. 山室良(2017年8月28日付)「いま,ダンケルクが熱い! ……ような気がするので,本物のダンケルクへ行ってみた」<https://www.4gamer.net/games/138/G013889/20170825090/> (2018-04-23参照)
10. 読売新聞「英兵撤退完了」1940年6月5日1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
11. 読売新聞「ダンケルク要塞占領 海岸線独軍に帰す」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
12. ジョン・ベダー(昭和46年)『スピットファイア』(山本 親雄 翻訳)、サンケイ新聞社出版局
13. 東京朝日新聞「英兵三十万人生還 英国首相演説 三万人は遂に犠牲」1940年6月5日2版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
さて、ダンケルクに別れを告げた私が次に向かったのは、カレー。ダンケルクから約40kmくらい離れた、人口7万4千人くらいの街になります。ダンケルクからは電車で2時間と少し(TER)。ここから船にのってドーバー海峡(フランスではカレー海峡と呼称)に渡ります。
なんとカレー港とドーバー港、直線距離で40km程度で、本当に近い(Googleマップで算出)。
ダンケルクよりも早く付くだろうし(ドーバー港~ダンケルク港の直線距離:約50-60 km)、スピットファイアの燃料もダンケルクに行くより使わずにすんだのではなかろうか。
カレーは劇中でコリンズに「ダンケルクは遠すぎる。なぜカレーじゃないのか(=カレーから救出しないのか?)/Dunkirk is so far. Why can't they load at Calais?」と言われた街ですが、イギリス等との交易の窓口でもあったり地理的な近さもあったり、イギリス支配下にあったこともあったり(1347年から1558年までイギリス領土。エリザベス1世の姉・メアリー女王の治世の時に失陥)、イギリス人にとっては大陸におけるイギリスの拠点都市として馴染のある街なのかも。
到着したカレー駅(原宿駅より少し大きいくらいの駅舎)を降りて、いざ港に。シャトルバスか、それともタクシーがあるとの情報を得てましたので、どちらかでフェリーポート(港)まで向かう…予定だったのですが、いつまでたってもどちらも現れず。短気な私は「ええい、ままよ」と徒歩でフェリーポートまで向かいました(だいたい30分程度で着くとgoogle先生が)。街中にちょいちょいフェリーポートまでの看板もあるし、遠くにフェリーが停泊してたのも見えたし、うん大丈夫…と楽天的に考えて。

カレー駅。本当にチマッとしてた。
結論として、もう二度とやらない(血反吐)
少なくとも、ゴロゴロを持って30分も石畳の街を30分歩いてフェリーポートに行かないです...orz。
最初のうちは良かったんですが、だんだん重く感じるキャリーケース(石畳だから余計に)、本当にここなのか?!と疑わしい徒歩客専用の入り口+そこから結構いりくんた道が続いていつまでも歩く道…。
Google先生の言う通り、30分で確かに到着したけれど、荷物(特にキャリーケース)を持ったままだとキツイので、同じ条件だったら二度目は無いな…と思いました。
ところで、カレーといえば、ダンケルク同様、WW IやWW IIで破壊された街で、Google検索で「ダンケルク カレー」と検索すると、その他の検索ワードとして「犠牲」などの言葉が出てくる都市でもあります。
1940年6月5日の東京朝日新聞でも、ダンケルクの英兵30万人帰還の記事の中で「『(ダンケルク脱出作戦の)この裏で特記すべきは4日にわたる壮烈なるカレーの市街地戦である。しかしカレーは4日の後遂に喪われた。この時傷を負わない英兵は僅かに30名にすぎなかったが、この犠牲的死守によって英遠征軍は脱出作戦に成功した。カレーの英司令官はドイツより時間つきで降伏を求められたが彼は拒絶した』と(チャーチルは)述べた」とあり、そこに少しばかりスン…となるという。<( )内、ガバ鳥による補足
この後にロンドンでチャーチル博物館・戦時執務室を見学したときにも、壁に広がる地図と、そこに書かれたDunkirkやCalaisの地名に言葉もなく。ゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じた映画、「Darkest hour(邦題:ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男)」でもその描写がありましたが。
上記の記事の中で言及されている司令官(ニコルソン准将)は1940年5月26日のカレー失陥の後に捕虜となり、数年後に収容所で死亡するわけですが(転落死とも自殺とも)、ダンケルクの奇跡と呼ばれた撤退戦の裏には救援が間に合わなかった/見捨てられた悲劇もあったわけで。
『私は、カレーは死守し、守備隊に海路退却を許さない決心をした。(中略)数少ない、このような立派な、訓練された軍隊を2日か3日の時間を稼ぐというおぼつかない利益のため、しかもその日時を利用できるかどうかもわからないのに、犠牲にすることは辛い限りであった。守備隊を引き上げないという最終決定は、五月二十六日の夜に行われた。それまで駆逐艦を待機させてあった。(中略)ダンケルクの救出を妨げる原因は他にもあったかもしれないが、カレーの防衛によって稼いだ3日間のおかげで、グラヴリーヌの水路が確保されたことは確かである。』(W.チャーチル『第二次世界大戦』より抜粋)
とはいえ、1940年5月16日にはすでにダンケルクに限らずヨーロッパ大陸に派遣されたイギリス軍に対して「危険状況における大兵団の撤退について討論」が検討され始め、かつ5/14にはBBCラジオを通じて海軍より民間の小型ボートの登録要請もでていたので、時間やリソースの問題もからんでいたんでしょうか。来たるべき本土決戦に備えてRAFも「出し惜しみ」をしていたように。
<RAFの戦闘機集団司令官のダウディング大将はフランス防衛のための戦いへの(新たな)イギリス空軍戦闘機部隊投入を拒否している。

古い街らしいな..と思った塔を歩きながら激写
ということで、そんなこんなの考えをしつつ、旧い都市らしい空気を醸していた市街をゴロゴロ荷物を引きづり歩き、なんとかチェックインの時刻ギリギリ(出港時刻1時間前)にフェリーポートに到着しました。暑くて汗だくになってフェリーの窓口に駆け込む羽目になりましたが。
私「すみません、チェックイン!チケット、あああ、Hello, Mr. I’d like to check-in a ferry for Dover that I booked…(唾をとばす)ぶっふぉ」←ばか
さて、無事にチェックインを終えた私は、Pedestrian assembly pointで待てと書かれていたので、そのポイントで待機してフェリーにつれていってくれるバス(+出国入国審査)を待つことに。
しかし、いつまでたっても(出発30分前になっても)案内アナウンスがないし係の人もやってこない。
Pedestrian/Foot Passenger(乗り物無しの徒歩乗客)どこからいつフェリーに乗ればいいのか問題の発生(私の中で)。
乗り場からフェリーにつれていってくれるバスはいつどこから出発するのか、チェックインの時の説明や館内アナウンスを聞き逃したのか(フランス語の後に英語でアナウンスがあるから聞き逃したとは思いにくいが)、そして出国審査と入国審査はどうするのか、出航まであと30分なのにどうするんだろうか、ぐるんぐるんと頭の中を嫌な予感が駆け巡る。

不安…。
不安な気持ちでアナウンス/係員を待ち続けること○○分、ようやく表れた係員らしき人に女性が話しかけたのを見つけたので、彼女に便乗して質問をすることに。
私「予約したドーバー行の便に乗りたいんですが、どうやって乗れば良いですか?どのバスに乗ればいいの?」(半泣きブロークン英語で質問する私)
係員さん’Oh! You are lucky! I’ll take you with her!’ (忘れようのない単語)
私’Thanks!’(喜びで打ち震える私)
ラッキーなことに、質問した係員さんがまさに案内の担当者であり、かつ先に質問をしていた彼女も一緒のフェリーに乗る徒歩の乗客で、(フェリーに乗るための)連絡バスに連れて行ってくれて、そのまま一緒に出国+入国審査をすることに(カレーの港でフランス出国+イギリス入国審査をしてしまう)。

安心…(バスの中でぐったり)
バスに乗ってドキドキしながら言われるがままに事務所に出たり入ったりして出国+入国審査を受けて、言われるがままにバスで荷物検査を受けて、ゴロゴロ荷物を引きづりながら、なんとかフェリーに乗船です。いやね、もうドキドキしすぎて、バスに乗るときに”Bon voyage”のカード(フェリーに乗船する際に渡す)を貰ったのはいいのですが、その写真をとる余裕もない時間でございました…(チキンだから)。
ちなみにターミナルビルのPedestrian assembly pointには他にも沢山の徒歩乗客する人たち(小学生集団、買い物おばちゃん集団など)がいて、いざとなったらその人たちに付いて行けば良いかな…と思っていたのですが、結局ドーバー行のフェリーに徒歩で乗る客は、私+女性(私より先に質問してた人)+フランス人家族4人の6人のみで、まっったく私の憶測とは外れていたので、分らないときは係員/スタッフに質問をするべきだ、たとえ英語が聞き取れなくても別の人にも聞いてみるなどして何回かアタックするべきだ、と心の底から思いましたね。
(閑話休題)
ということで、フェリーに乗っていざドーバーへ出航。約32km、約90分の船旅です(本当に近い!)。
それにしてもドイツがイギリス上陸を目的としたアシカ作戦は失敗だったけど、当時の技術でどれくらいの時間やプロセスでイギリス南部に到達して侵攻していくスケジュールだったんですかね?
もしこれが全面的に実現してたら、ラムゼー中将ひきいるイギリス海軍だったり、RAFの第11戦闘機群(司令官:パーク少将)だったりがドーバー海峡でドイツ海軍・空軍を迎え撃ってた展開になってたんでしょうか。←BOB(バトルオブブリテン)のことはおいといて。

さよならカレー、さよならフランス…。
ということで、フェリーは沢山のお客をのせて(自転車、車、バスの乗客)、30分遅れで出発。波も穏やか。船の中ではポンドが使用され、すでに雰囲気はイギリスな感じ。アナウンスも英語が先でフランス語の方が後になりました(当然ですが、カレー港ではフランス語→英語の順番でアナウンス)。
売店にはイギリスのメーカーのサンドイッチや、英語表示のポテチが売られておりました。乗務員もイギリス人が多く、雰囲気がいっきにイギリス。フランスで戦っていたトミーたちがムーンストーン号に乗った時の雰囲気に、ほんの少しだけ触れた気分でした(見慣れた文字の表示、見慣れた食器や紅茶…)。ということで、船内とドーバー海峡を楽しみながらの航海となりました。

スピットファイアのポテチとサンドイッチ。美味しかった。

穏やかなドーバー海峡。ダイナモ作戦当時も(奇跡的に)波は穏やかだったそうな。海に対して船が本当に心細いくらい小さく見える。‘O God, thy sea is so great and my boat is so small.'(神よ、海は広く、私の船はあまりにも小さい)
ところで、劇中ではトミーがドーセット(イングランド南西部の街;ドーソン親子+ジョージの住んでいる街)の白い崖をみて「ドーバー?」と問いかける元となった、ドーバーの白い崖(ホワイトクリフ)ですが、本当に白いです…。そして大きい。遠く離れた地点からでもはっきりとした大きさの白い崖が見えるくらい。流石は英国の通称「アルビオン」の元となった崖なだけはあります。
イギリスからフランスに行くときは遠ざかり、フランスからイギリスに帰ってくるときには近づいてくるので、イングランドから大陸へ渡っていくイギリス人にとって、白い崖は故国(イギリス)のランドマーク的なものなのかもしれません。トミーたちもフランスに出征して行くときに、遠ざかっていくドーバーの白い崖を船から見ていたのかも。

フェリーから見えたドーバーの白い崖(ホワイトクリフ)
そんなこんなで、ドーバー港に到着して下船した私は、これまたヒーヒー荷物を引きづりながらホテルへと向かいました(フランス人家族に先にタクシー譲ったら、次がいつまでも来なかった…)。
<出国審査はカレーで済ませたからノーチェック
ホテル(B&B)へエッチラオッチラ歩いて行く途中、巨大な白い崖に圧倒されつつ(本当に大きい)、ホテルに到着(20時30分くらい。北に位置する関係で、日が落ちるのが遅いせいで20時でも暗くならない)。
好みドストライク+いたれりつくせりのB&Bの部屋でくつろぎながら、イングランドの鍵と呼ばれたドーバーでの散策の予定を練って旅行2日目の夜が更けていくのでした。

圧倒された白い崖(ホテルに行く道から撮影)


ドストライクだったB&Bの部屋(また泊まりたい…)
(ドーバー編に続く)
旅行2日目の移動)
ダンケルク駅→カレー駅(SNCF鉄道);2時間程度
カレー駅→カレー港:徒歩30分
カレー港→ドーバー港;フェリー(P&Oフェリー)で90分程度
ドーバー港→ドーバー駅近く;徒歩30分程度
iphoneに入ってるアプリで算出されたウォーキング+ランニングの距離)
旅行2日目:17.2 km
【追記】2019/2/18
ドーバー海峡(フランス~イギリス)を行き来するフェリーの会社はP&O ferries社、DFDS seaways社の2社(2018年7月現在)。P&O社はカレー~ドーバー、DFDS seaways社はダンケルク~ドーバー及びカレー~ドーバー間を運航。DFDS seaways社のフェリーについては、徒歩の乗客(=自家用車や自転車等の乗り物に乗っていない客)は利用できないため注意。
Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. ダンケルク海岸線、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
4. アシカ作戦、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
5. バトルオブブリテン 戦闘機集団レーダー網、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
6.Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・ドーバー城・ダイナモ作戦室編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
7. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・海峡フェリー編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
8. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・カレー編」<twitterモーメント> (参照2018-04-24)
9. 山室良(2017年8月28日付)「いま,ダンケルクが熱い! ……ような気がするので,本物のダンケルクへ行ってみた」<https://www.4gamer.net/games/138/G013889/20170825090/> (2018-04-23参照)
10. 読売新聞「英兵撤退完了」1940年6月5日1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
11. 読売新聞「ダンケルク要塞占領 海岸線独軍に帰す」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
12. ジョン・ベダー(昭和46年)『スピットファイア』(山本 親雄 翻訳)、サンケイ新聞社出版局
13. 東京朝日新聞「英兵三十万人生還 英国首相演説 三万人は遂に犠牲」1940年6月5日2版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
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