森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
花・髪切と思考の
浮游空間
カレンダー
2008年10月 | ||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
1 | 2 | 3 | 4 | |||||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | ||
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | ||
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | ||
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | |||
|
goo ブログ
最新の投稿
8月6日(土)のつぶやき |
8月5日(金)のつぶやき |
6月4日(土)のつぶやき |
4月10日(日)のつぶやき |
2月10日(水)のつぶやき |
11月12日(木)のつぶやき |
10月26日(月)のつぶやき |
10月25日(日)のつぶやき |
10月18日(日)のつぶやき |
10月17日(土)のつぶやき |
カテゴリ
tweet(762) |
太田光(7) |
加藤周一のこと(15) |
社会とメディア(210) |
◆橋下なるもの(77) |
◆消費税/税の使い途(71) |
二大政党と政党再編(31) |
日米関係と平和(169) |
◆世相を拾う(70) |
片言集または花(67) |
本棚(53) |
鳩山・菅時代(110) |
麻生・福田・安倍時代(725) |
福岡五輪幻想(45) |
医療(36) |
スポーツ(10) |
カミキリムシ/浮游空間日記(77) |
最新のコメント
Unknown/自殺つづくイラク帰還自衛隊員 |
これお・ぷてら/7月27日(土)のつぶやき |
亀仙人/亀田戦、抗議電話・メールなど4万件突破 |
inflatables/生活保護引き下げ発言にみる欺瞞 |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/国民の負担率は低いというけれど。 |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/[橋下市政]健康を奪い財政悪化招く敬老パス有料化 |
最新のトラックバック
ブックマーク
■ dr.stoneflyの戯れ言 |
■ machineryの日々 |
■ えちごっぺのヘタレ日記 |
■ すくらむ |
■ 代替案 |
■ 非国民通信 |
■ coleoの日記;浮游空間 |
■ bookmarks@coleo |
■ 浮游空間日記 |
過去の記事
検索
URLをメールで送信する | |
(for PC & MOBILE) |
公的資金投入は誰を助ける
世界を揺るがしている金融危機を「一世紀に一度の危機」といったのはグリーンスパンFRB前議長だが、事態は、その指摘があながち大げさとはいえないもののようにも思える。
本日のテレビ番組では、米下院政府改革委員会での公聴会のもようを伝えていた。その中で同氏は、議長時代に「過ちを犯した」と、サブプライムローン問題に端を発した金融危機に関連して、融資監督上の誤りを認めていた。要するに、氏の発言は、金融機関側にとって、規制よりも利益追求が株主や株式資本を保護をすると考えたことが誤りだったというものだ。
グリーンスパンの想像を超えて、深化した危機。信用度の低い高金利型住宅ローンを証券化し、金融商品として売り出す。そこに世界中の投資家たちが群がる。
返済能力のない者にどんどん貸し出し、その債権を売買自由な証券にかえ売りさばくのだから、このシステムそのものがギャンブルじみている。
100年に一度の危機は、こんな形で日本にも波紋をよんでいる。
24日の東京市場は円高・株安が急速にすすみ、円相場は一時1ドル=94.75円と13年ぶりの高値をつけた。金融危機を背景にして、景気の先行き懸念がいちだんと強まったためだ。急激な円高をうけ、東京株式市場は一部上場銘柄の9割が値を下げ、平均株価は8000円を割った。
すでに米国は70兆円を超える公的資金の投入を決めた。日本では、金融機関への公的資金の投入を可能にする新金融機能強化法案を24日閣議決定し、政府は国会に提出した。法案は、今年期限切れになった旧法を4年延長するものだが、報道によれば、資本投入を活用する金融機関の枠の拡大、資本投入の条件緩和などが変更点とされている。また、最終的な損失がでた場合、血税で穴埋めする。
けれど、公的資金の投入ははたしてどんな役割を果たしているのか。衆院財務金融委員会で佐々木憲昭議員が明らかにした(参照)。
氏によれば、銀行から中小企業への貸し出しが、96年3月時点は約263兆円だったのに、今年8月には179兆円に減っている。この12年間に銀行への公的資金は資本注入だけで計12兆4000億円も注入されている一方での、中小企業への貸し渋り、貸しはがしの実態が浮き彫りにされたといえる。銀行はまともな役割を果たしていない。
だから、深刻な中小企業の資金繰りに手を差し伸べることが今求められているのだが、公的資金の投入は役にたたないことが実績で示されているわけだ。むしろ公的資金は、本来何の責任もない国民の税金を使って、金融機関の責任を免罪するようなものだ。
国民にむかっては自己責任をあれほど強調する政府だが、大銀行になると、こんな免罪も厭わないのだから、大企業・大資本優遇は極まっているといわざるをえない。
公的資金投入はいったい誰を助けるのか。
(「世相を拾う」08216)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
企業の権益を守るためにある- 社会保障国民会議
恐縮ですが、私事からはじめます。
昨日は、来年予定している全国的な、大きなイベントのために、下見を兼ね、開催予定地の皆さんとの懇談などに、青年たちとともに一日を費やしました。一日の行程を終え、最後は博多ですから、もつ鍋を一緒につつきました。青年というのは、ふだん病院などで働く医師であり、看護師であり、薬剤師、調理師などとして働く若者たちです。彼らは、医療分野で働く者たちですから、いわゆる社会的な使命感が人一倍強い。いいかえれば、彼らは自らの存在が他者によって支えられていることを自認しているということです。他者の存在を前提にしているということです。
これを一つの立場としてとらえるなら、それは本来、いわゆる自己責任論という考え方と真っ向から対立するはずのものだと私は思います。しかし、このかた、日本では自己責任を問うのが当たり前のような、それにふれないとまちがいであるかのような風潮がまかり通ってきました。
一昨日、当ブログは、日本での新自由主義のゆきづまりに言及しました。
そこで、強調したのは、この新自由主義がそれまでの日本社会の安定に寄与してきた3つの柱を、逆に侵食してきたことでした。その3つとは、企業社会と自民党の旧来の利益誘導型政治、そして社会保障制度でした。エントリでは、そのうちの企業社会について少しばかり掘り下げました。
新自由主義はそれを下支えする運動があると指摘したのはハーヴェイでしたが、ファナティックなまでの、小泉元首相の「改革を止めるな」というアジテーションへの期待、共感として、まさに運動として表されたのが自己責任論でした(参照)。
ところで、ごく最近、東京都で医療機関側の受け入れ不能も重なって、結局、妊婦が死亡するという痛ましい事故が起こりました。この件をめぐって、舛添厚労相と石原都知事が泥を投げ合っています。一方が厚労省の責任を問題視すれば、片や都の責任を追及する。こんな図式が伝えられています。醜い姿をよくここまで晒すものだと私には思えるのです。
根底に医師不足という実態が横たわっていて、それが現場の受け入れ不能状態をもたらす一因になっているのは、いわばいわずもがなであって、その限りでは石原氏の指摘はまちがいではないといえます。けれど、たしかに厚労省がすすめようとする療養病床削減計画になびくような計画を東京都がたてなかったことは私も承知していますが、当の石原氏自身の社会保障にたいするこれまでの姿勢は、居丈高に厚労省の責任を追及する姿と整合するのでしょうか。そうではない、こう思うのです。石原氏の視線が、先にあげた医療分野で働く若い労働者の視線とはたして同じものなのでしょうか。周りに自分とは異なる存在がある、それに自分が支えられているという視野を、石原氏がもちえたでしょうか。いちいちここであげることはしませんが、事実はちがうのではないでしょうか。
一方の舛添大臣。都に責任を押し付けることで、自らへの批判をかわそうという意図が明々白々です。
しかし、こんな事件も最近まで受け入れ側を単に追及するだけの報道がほとんでではなかったでしょうか。今でもこのようにその傾向は依然として残っていますが、それでも背景に社会的構造があることに目が向き始めています。医師不足に端的に表されるような医療のいたるところでの崩壊現象がある。産科崩壊の実態がある。
医療崩壊は一年、二年でつくられたものではありません。医師養成数を絞りに絞ってきましたし、診療報酬制度を最大限活用して供給側の機能再編を上から図ってきました。一方で、自己責任論の変形ともいえる受益者負担の考え方でもって厚労省は患者・利用者の負担増を迫ってきたといえます。
社会保障の面では、新自由主義は、たとえば以上のような施策に貫かれてきました。
社会保障は、財政面、財政赤字を理由にして、税金のつかいみちでより大企業を優遇する方向にするための削減の対象となってきました。その結果、大企業の空前の利益確保の一方で、貧困、格差がすすんでいったといえます。
もともと、日本の社会保障制度は欧米にくらべて脆弱だといわれてきました。労働者が企業社会という中に置かれ、いわば自己完結的な枠組みによって矛盾をそのなかに閉じ込めてしまうので、労働者の社会保障などは埒外に置かれてきたといえるでしょう。ですから、日本の社会保障は、企業社会とは無縁の、あるいは農業や中小企業などもふくめた自民党の旧来の利益誘導型政治とは関係のない人びと、つまり高齢者や健康ではなく仕事につけない人、母子家庭など限られた対象のものではなかったでしょうか。
このような役割をもってきた社会保障にも手をつけていったのが新自由主義、構造改革です。
一昨日、大企業優遇の政治を温存し、消費税もあげる方向で構造改革を手直しするのか、それとも大企業に応分の負担を求め、構造改革をやめるのか、これが争点だといいました。
社会保障のほころびが明らかになって、いよいよ国民の反発は後期高齢者制度でみられたように従来にないものとなっています。舛添氏のこの間の発言は、それを見事に反映し右往左往を繰り返したものですが、構造改革路線のいくらかの修正にみえながら、同時に、社会保障国民会議がくりかえし消費税増税をほのめかしているように、依然、大企業の権益をいかに確保するのか、この点に支配層の関心が集中していることにかわりはありません。
(「世相を拾う」08215)
■こちらもお願い⇒