森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
花・髪切と思考の
浮游空間
*応援お願いします*
カレンダー
2024年9月 | ||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | ||
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | ||
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | ||
29 | 30 | |||||||
|
goo ブログ
最新の投稿
8月6日(土)のつぶやき |
8月5日(金)のつぶやき |
6月4日(土)のつぶやき |
4月10日(日)のつぶやき |
2月10日(水)のつぶやき |
11月12日(木)のつぶやき |
10月26日(月)のつぶやき |
10月25日(日)のつぶやき |
10月18日(日)のつぶやき |
10月17日(土)のつぶやき |
カテゴリ
tweet(762) |
太田光(7) |
加藤周一のこと(15) |
社会とメディア(210) |
◆橋下なるもの(77) |
◆消費税/税の使い途(71) |
二大政党と政党再編(31) |
日米関係と平和(169) |
◆世相を拾う(70) |
片言集または花(67) |
本棚(53) |
鳩山・菅時代(110) |
麻生・福田・安倍時代(725) |
福岡五輪幻想(45) |
医療(36) |
スポーツ(10) |
カミキリムシ/浮游空間日記(77) |
最新のコメント
Unknown/自殺つづくイラク帰還自衛隊員 |
これお・ぷてら/7月27日(土)のつぶやき |
亀仙人/亀田戦、抗議電話・メールなど4万件突破 |
inflatables/生活保護引き下げ発言にみる欺瞞 |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/国民の負担率は低いというけれど。 |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/[橋下市政]健康を奪い財政悪化招く敬老パス有料化 |
最新のトラックバック
ブックマーク
■ dr.stoneflyの戯れ言 |
■ machineryの日々 |
■ えちごっぺのヘタレ日記 |
■ すくらむ |
■ 代替案 |
■ 非国民通信 |
■ coleoの日記;浮游空間 |
■ bookmarks@coleo |
■ 浮游空間日記 |
過去の記事
検索
URLをメールで送信する | |
(for PC & MOBILE) |
メディアと市民─「マスコミの人間に心はあるのか」に思う
京都府亀岡市で集団登校中の小学生ら10人の列に無免許の少年が運転する軽乗用車が突っ込んだ事故で出動した救急救命センターのブログ記事に関心が寄せられています。
タイトルにあるように、メディアの報道姿勢に強く疑問を呈しています。
人の命と健康に常にむきあっている医療にかかわる側からすれば、むろんその家族や知人、関係者への配慮もふくめてはじめてケアとして成り立っています。ですから、診療施設内を、たとえばわが者顔に行動するメディアの姿勢は、それを阻害するものとしてとらえられるのは避けがたいものだと思えます。その側からの厳しい批判が、(マスコミの人間に)心はあるのかという一つの言葉に象徴されています。もちろんそこには、人間ならば、「ご家族の映像を勝手に撮影」するようなことはない、「取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込」むことはないという判断があってのことです。
だから、ある意味で、これはマスコミは人間なのかというに等しい、これ以上の強烈な批判はないのではないかとさえ思えるものです。
寄せられているコメントから察すると、この記事に賛同し、メディアの姿勢への厳しい反発を明らかにし、批判するものが大半だといってもよいのではないかと推測されます。
記事が問うように、家族、医療者、関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのか。これは、知る限り、つねに語られ、両者の間に超えがたい困難をもたらしてきた一つの命題のような気がしてなりません。つまり、市民とメディアの間の信頼関係というものが著しく損なわれていることを示している。それは、先にふれたこの記事にたいするコメントにも表れています。そこでは報道にたいする不信の根深さがみてとれます。
そしてこうした報道不信は、恐れていたように、報道にたいする規制を求める声に連なっていきます。コメントのなかの一つをひろってみます。
たしかに、報道の自由と市民の人権があたかも対立しているかのようにもみえます。しかし、ほんとうに両者は対立するものなのか、緊張しつつ、相互に高めあう関係は築けないのでしょうか。
もちろん私たちには表現の自由が憲法で保障されています。ならばメディアにも表現の自由があると考えて不自然ではもちろんありません。ただ、メディアは社会の公器ともいわれるように、それが公共性をもつことについて誰も否定しないでしょう。むしろ公共性をもつメディアだからこそ報道にまつわる人権侵害がもたらされる可能性をはらんでいるともいえます。
すると、メディアが公共性をもつ以上、個人の自由と同じようにこの表現の自由をとらえられるのか、という問題が派生するように思えます。表現の自由がもともと個人がもつ自然権だと解釈すれば、これを前提にしてはじめてメディアの表現の自由がもたらされるというものではないか、と考えたいのです。
個人が自らの将来、そして社会の将来を選びとるための必要な情報を提供するのがメディアです。だとすると、メディアには、とりわけ権力にたいする監視と、社会や個人をとりまく環境にたいする監視という役割が課せられるのではないでしょうか。
この点で、救急救命センターの提起は、あらためてメディアのあり方を鋭く問うものだと受け止めなければならないように思えます。
その上で考えるのは、つぎのようなことです。
私たちは誰でも好奇心をもっています。しかし、その好奇心がメディアのセンセーショナルな報道という競争や商業主義に煽られることもときにはありそうです。だとすると、それを一方で反省しつつ、市民のための報道を求めうるのは私たち以外にはありません。マスコミの人間の心を腐らせないようにするのは私たちだともいえるのでしょう。メディアに権力にたいする監視を求める以上、心を腐らせないようにするのは規制によっては不可能にちがいありません。
なによりも自らと社会の運命を選びとるのは私たちなのですから。
*応援をよろしく ⇒
*こちらもお願い⇒
本日,京都府亀岡市で悲しい事故が起こりました.当ドクターヘリも出動し対応しています.検証されるべき事項は沢山ありますが,1つの命をすくい上げようと誰しもが全力をしくしました.結果,望まない終末になることもあります.その後のご家族の心のケアには人として,医療者として十分な対応を心掛けております.当然,院内や病院敷地内に勝手に入り込み,勝手に取材,写真をとるマスコミには取材の許可を出しませんし,取材拒否の旨をきちんと伝えております.もちろん必要があれば病院から情報を伝えます.
しかしながら,読売新聞,毎日新聞,朝日新聞など各社の記者(個人名を出しても良いと思いますが)は霊安室の前にカメラをかまえ,お帰りになるご家族の映像を勝手に撮影していました.再三にわたって取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込んできました.
ご家族,医療者,関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのでしょうか.このブログが多くの方に読まれていることは十分に存じ上げております.だからこそ敢えてここで述べます.
4月23日 マスコミの人間に心はあるのか
タイトルにあるように、メディアの報道姿勢に強く疑問を呈しています。
人の命と健康に常にむきあっている医療にかかわる側からすれば、むろんその家族や知人、関係者への配慮もふくめてはじめてケアとして成り立っています。ですから、診療施設内を、たとえばわが者顔に行動するメディアの姿勢は、それを阻害するものとしてとらえられるのは避けがたいものだと思えます。その側からの厳しい批判が、(マスコミの人間に)心はあるのかという一つの言葉に象徴されています。もちろんそこには、人間ならば、「ご家族の映像を勝手に撮影」するようなことはない、「取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込」むことはないという判断があってのことです。
だから、ある意味で、これはマスコミは人間なのかというに等しい、これ以上の強烈な批判はないのではないかとさえ思えるものです。
寄せられているコメントから察すると、この記事に賛同し、メディアの姿勢への厳しい反発を明らかにし、批判するものが大半だといってもよいのではないかと推測されます。
記事が問うように、家族、医療者、関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのか。これは、知る限り、つねに語られ、両者の間に超えがたい困難をもたらしてきた一つの命題のような気がしてなりません。つまり、市民とメディアの間の信頼関係というものが著しく損なわれていることを示している。それは、先にふれたこの記事にたいするコメントにも表れています。そこでは報道にたいする不信の根深さがみてとれます。
そしてこうした報道不信は、恐れていたように、報道にたいする規制を求める声に連なっていきます。コメントのなかの一つをひろってみます。
マスコミは同様のことを繰り返してきて、批判を受けると自分たちの都合の良い形で検証番組で反省している素振りを見せるだけです。何かというと、「報道の自由」だとか「我々には報道する義務がある」だの正義ぶるのはやめて欲しい。加えて、マスコミは他の業種については「質が悪い」などと執拗な批判を加えますが、最も質が悪いのは新聞記者をはじめ、マスコミの人間ではないでしょうか。なんらかのマスコミを規制する法制化が必要だと思います。
たしかに、報道の自由と市民の人権があたかも対立しているかのようにもみえます。しかし、ほんとうに両者は対立するものなのか、緊張しつつ、相互に高めあう関係は築けないのでしょうか。
もちろん私たちには表現の自由が憲法で保障されています。ならばメディアにも表現の自由があると考えて不自然ではもちろんありません。ただ、メディアは社会の公器ともいわれるように、それが公共性をもつことについて誰も否定しないでしょう。むしろ公共性をもつメディアだからこそ報道にまつわる人権侵害がもたらされる可能性をはらんでいるともいえます。
すると、メディアが公共性をもつ以上、個人の自由と同じようにこの表現の自由をとらえられるのか、という問題が派生するように思えます。表現の自由がもともと個人がもつ自然権だと解釈すれば、これを前提にしてはじめてメディアの表現の自由がもたらされるというものではないか、と考えたいのです。
個人が自らの将来、そして社会の将来を選びとるための必要な情報を提供するのがメディアです。だとすると、メディアには、とりわけ権力にたいする監視と、社会や個人をとりまく環境にたいする監視という役割が課せられるのではないでしょうか。
この点で、救急救命センターの提起は、あらためてメディアのあり方を鋭く問うものだと受け止めなければならないように思えます。
その上で考えるのは、つぎのようなことです。
私たちは誰でも好奇心をもっています。しかし、その好奇心がメディアのセンセーショナルな報道という競争や商業主義に煽られることもときにはありそうです。だとすると、それを一方で反省しつつ、市民のための報道を求めうるのは私たち以外にはありません。マスコミの人間の心を腐らせないようにするのは私たちだともいえるのでしょう。メディアに権力にたいする監視を求める以上、心を腐らせないようにするのは規制によっては不可能にちがいありません。
なによりも自らと社会の運命を選びとるのは私たちなのですから。
*応援をよろしく ⇒
*こちらもお願い⇒
« 4月23日(月)の... | 4月24日(火)の... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |
?
?