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橋下市長の無責任とジャーナリズム
ここには、つまるところ無責任極まりない、彼の態度が集約されていると思います。世間では、こんなことは許されない。ちなみに労働契約法では、つぎのようにうたわれています。
第16条
解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。
解雇するには、「客観的に合理的な理由」「社会通念上相当」という二つの要件が必要だとされているわけで、はたして橋下氏のような態度がとれるものかどうか。
たとえば客観的に合理的な理由とは、労働者の労務提供不能、労働能力または的確性の欠如・喪失、傷病やその治癒後の障害のための労働能力の喪失、勤務成績の著しい不良、事故欠勤30日に及んだとき、重要な経歴の詐称などとされているので、分限免職と橋下氏がのべている大阪市音楽団の団員には、これらがあてはまろうとはとても思えません。
もちろん解雇する理由として経営上の必要性というのもありますが、それでも民間では、職種の消滅と他職種への配転不能、経営不振による整理解雇などと限定された形になっています。
大きく譲って音楽団の廃止が避けがたいとしても、やはり他職種への配転などに尽力することが市側に求められると考えるのに無理があるとはいえないように思えます。
だから、橋下氏の勝手に仕事を探せという態度に無責任を感じ強く反発してしまうことになる。
無責任はしかし、これだけではありません。
- 橋下・大阪市長:市立小1/3が統廃合対象 14年度末めど(毎日)
- 橋下市長、敬老パス見直し…「怒り買う案だが」(読売)
- 橋下市長、前市長方針覆す…朝鮮学校に補助なし(読売)
- 橋下市長、私立幼稚園・小中高への補助金も廃止(読売)
- 朝日新聞デジタル:大阪市「4年で職員半減」(朝日)
ここ数カ月の新聞見出しから拾ってみましたが、こうしてみると、市民の生活に身近で直結する分野、たとえば教育や福祉などにねらいを定まえているかのようにさえ思えます。しかも職員も削減というのですから、これで、地方自治体といえるのか。自治体の仕事というものを極力、減らす方向しか、ここからはみえてきません。いいかえると、自治体という公共の責任を放棄するといってよいのかもしれません。むろん公共の責任を放棄するということは、たとえば橋下氏がすでに発表した水道事業にみられるように民営化するというものです。
冒頭の一件、そしてこれらにみられるような、いわば公共の責任を放棄する姿勢は、徹底して自己責任を迫る姿勢と一体のものです。ようは、自己責任を迫ることは、自治体としての公共の立場を忘れた無責任を表明することにほかならないといいきってよいのではないでしょうか。
ここまで景気の停滞のなかで貧困や格差が広がり、たとえば孤立死や幼い子どもたちの死などが伝えられることが少なくありません(参照、参照)。だから、なおさら今、公共の責任が問われているのではないか。
メディアのこうした現状を伝える視点は、一方で、その現状と同じ現象を今後もたらしかねない動向が現に今あるのであれば、それにたいする的確な指摘、告発と批判があってこそ、ジャーナリズム本来の役割を果たしたと評価されるのではないでしょうか。小泉時代、メディアが小泉の政治姿勢をもちあげる一方で煽り、劇場型政治とまでよばれたように、世論がつくりあげられる過程におけるジャーナリズムの位置は大きいでしょう。
この点で、橋下氏の言動にたいするジャーナリズムの姿勢は首をかしげたくなるものだと思えます。小泉時代の繰り返しと後世に語られるようにも思えてなりません。自分の将来あるいは社会の運命を選ぶに足る情報は市民にむけて発信されなければならず、そこにジャーナリズムの使命があると考えるのであれば、橋下氏の無責任を追及する本来の姿勢をジャーナリズムにはもってほしいものです。
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[橋下市長]補助金をちらつかせる愚策
大阪市の橋下徹市長は10日の大阪府・市統合本部会議で、在阪の交響楽団などが1億円の公的支援を競うコンテスト案を提示した。
起伏のある未舗装のコースをバイクで走るモトクロス場を大阪城公園内に特設し、レースイベントを開催する構想も提案した。今後、実現性を検討するという。
補助金見直しを進める市の改革プロジェクトチームは大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)への年1億1000万円の補助金の25%カット案を打ち出している。橋下市長は「補助金をもらうのが当たり前になっている。賞金1億円のコンテストを開き、楽団同士で競わせてはどうか」と提案。音楽イベントの開催など優勝楽団への特典にも言及した。
また、大阪の知名度を世界的に高めるイベントとして、国特別史跡の大阪城公園西の丸庭園でモトクロスレースを開催する案も明かした。市教委によると、特別史跡の現状変更には文化庁の許可が必要だという。
(2012年4月11日07時33分 読売新聞)
橋下市長、楽団が1億補助金競うコンテスト提案
唯一、提案の根拠らしくみえなくもないのは「補助金をもらうのが当たり前になっている」の一点。でも、これとて、たとえば市音楽団の団員たちは市の職員として採用されたきたわけだし、現にその身分にある。もとより市が楽団の運営をおこなうのですから、理路はとおっていないとみるべきではないか。
したがって、市職員労組が以下のような「分限免職」に抗議の意思を示すのは当然すぎるほど当然だと思えます。
大阪市の施策・事業見直し試案で2013年に廃止とされた市音楽団の音楽士36人について、「仕事がないなら、分限(免職)」と発言した橋下市長に対し、市職員労働組合は9日、使用者としての責任を放棄しているとして抗議声明を出したことを明らかにした。
声明は6日付。橋下市長の発言を「雇用者として『(配置転換など雇用継続の努力をする)解雇回避義務の履行』を全く考慮していない」と批判、「発言の真意について説明を行い、誠意を持って応えるべき」と求めた。
(2012年4月10日10時39分 読売新聞)
橋下市長は使用者責任放棄…音楽団「分限免職」
国民の多数が同意できる範囲を仮に常識だとすれば、この抗議声明の趣旨はおそらく常識(の範囲)の内にあるだろうと思われます。日頃、民意、民意といって大阪市民の声を尊重するかのような態度をみせる橋下市長ですが、声明でいう使用者責任が市長にあるという常識はいっさい視野には入らないようです。使用者責任があるとすれば、仮に楽団の廃止が避けられないものであったとしても、雇用責任を果たすようふるまうのが多くの民間でもあるでしょうに。
民意や民間の感覚をもちだす市長であるがゆえに、なおさらそう強く感じます。団員を路頭にまよわすことがあってはならない。そのために最善をつくしてほしいものです。
けれど、この橋下氏による「分限免職」の報道が波紋をよんでいるとみえて、市音楽団とかかわってきた人たちから楽団の廃止を懸念する声があがっているようです。
大阪市の橋下徹市長が、大阪市音楽団(市音)の「直営見直し」を表明したことについて、市音と共演経験などのある作編曲家、指揮者の前田憲男さん(77)、ボブ佐久間さん(62)、宮川彬良さん(51)の3人が、市音存続を求める活動を始めようとしている。「大阪の宝であり、日本に数少ない本格的吹奏楽団をなくすことになる。その価値を理解し、守ってほしい」と大阪市民に呼びかける構えだ。
直営見直しに「待った!」 市音を守って 有名作曲家ら3人が訴え
記事中の彼ら3人は一様に、直営の楽団の存在と実績に価値を認めた上で、その存続を求めています。直営だからこそ、学校への「団員を派遣して指導したり、園児・児童向けの音楽鑑賞会を開いたり、音楽教育も価値ある活動」を重視することも可能なはず。
結局は、市長がもちだした「分限免職」問題は、こうした活動に大阪市の仕事として価値をおくか否かという論点に尽きるようです。市長は、府知事時代にも同様の態度をとっていましたし、これに価値を置かないという意思をあらためて明確にしたわけです。
こうした経緯を踏まえて、冒頭の提案をあらためて考えてみると、支離滅裂なといわれかねないような不整合があるように思えます。
記事にあるように、市音楽団の「分限免職」だけでなく、大阪フィルにたいしても補助金を削減する予定です。この両者をふくめて競わせ、勝者に補助金を「与えてやる」のです。
補助金をエサとしてぶらさげて競わせようとするのですから、これは単なるコンクールとはよべないでしょう。そもそも文化を支援しようとするのなら、支援の対象をきめて等しく支援するという態度が常識的ではないのか。補助金を与えてやるといわんばかりの、上下関係を前提にした行政観がそこに透いてみえるように思えてなりません。
市長はこうも語っています。「補助金をもらうのが当たり前になっている」と。市音楽団は、繰り返せば市直営なのですから、補助金うんぬんで解することはできない、市そのものの運営のはず。
またたとえば大阪の文化は、大阪市の文化というぐあいに限定された形にとどまるものでもないでしょう。大阪市音楽団や大阪フィルを聴く人は大阪市民だけではないはず。補助金削減が予算案に盛り込まれるのを大阪フィルは「0年余り大阪で官民一体で育ててもらった。何とか補助金を維持して、今後も大阪の文化として成長させてほしい」(鈴木貞治・楽団事務局長、毎日・12月9日)と語っていました。が、市長のこんな物言いは、どこかに文化を貶める思想がまずあるように感じないわけにはいきません。
文化を住民とともに育てようという立場に立つのなら、その支援策として補助金を出すことはあっても、出し渋るということはないでしょうから。
文化を軽んじるからこそでてきた陳腐な提案だと断じざるをえません。
それなら、補助金を元に戻して、行政として文化が文化として育つような支援を根幹にすえることをまず考えてほしいものです。
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[橋下市長]特区は社会保障に何をもたらすか
この報告が正しいものだとすると、昨今のたとえばネット上でみられるような生活保護受給者への仮借のない非難やあるいは偏見がうなづけるところではあります。各国とは際立った国民の意識をうらづける背景に何があるのか、そこには日本での宗教の占める位置なんかも関係するのかもしれないとか思ったりもしますが、むろん定かではありません。
こうした日本の意識状況からみると、大阪市が今後やろうと考えていることは一見、これに逆らうかのようにもみえるものです。はたしてそうなのか。
橋下市長がすでに明らかにしていた西成区を特区にする構想に関して、同区の生活保護受給者の自立を支援する提案が予定されているそうです。特区とは、新自由主義的な構造改革の文脈で語られるのが一般的でしたから、それだけにどのような中身で事がすすむのか、関心をはらわざるをえません。
報道によれば、なんでも生活保護受給者の自立をうながすために、受給者が働いた場合、それにより得た収入をプールし、自立の際に返還するという「改革案」とされています。
大阪市の橋下徹市長が活性化に向けた特区構想を打ち出した同市西成区で、生活保護受給者が働いて得た収入を行政側で積み立て、生活保護から抜ける自立時に一括返還して初期生活費に充ててもらう制度を導入するという改革案を、特区構想担当の市特別顧問、鈴木亘・学習院大教授(社会保障論)がまとめたことが7日、分かった。区民の4人に1人が生活保護受給者という状況の中、受給者の就労・自立を促し、市財政を圧迫する生活保護費の縮減にもつながる一石二鳥の案としており、鈴木氏は近く橋下市長に提示する。
不況を背景に、生活保護受給者数は全国的にも過去最多の更新が続いており、厚生労働省も同様の制度創設の検討に入ったが、自治体の事務量増大などの課題がある。西成区で制度が導入されれば全国のモデルケースとなる可能性もあり、成否が注目される。
………
鈴木氏の案では、西成区の受給者に自立支援プログラムによる5年間の就労義務を課し、収入は区の福祉事務所で貯蓄。自立時に返却するとしている。就労報酬額は、3年程度は最低賃金(大阪府は時給786円)の適用除外として同400円程度とし、その後は最低賃金にすると仮定。企業側にも雇用義務を課し、若い労働者と雇用者のマッチングが図れるとともに、就労経験による技術習得にもつながるとしている。
「西成特区」で仰天改革案 生活保護受給者「就労所得貯蓄」で自立支援
先にのべたような提案の骨格は、ようするにワークフェア(workfare)とよばれるもの。大づかみにいえば、生活保護など福祉の受給者に、一定の就労を義務づけ、給付を労働の対価とすることにより、自立を促すと同時に、経済的自立のための技術・技能を身に着けさせようというものです。
そこで 思うのは、提案によって以下のような新たな矛盾が広がるだろうということです。
- 就労して最初の3カ月にしろ最低賃金と異なる賃金を設定しなければならないそれらしき根拠がなく、むしろ最低賃金制を形骸化させる恐れがあること
- 企業側のインセンティブが安価な受給者雇用に働きかねず、むしろ雇用環境に混乱をもたらすこと
最低賃金と異なる金額を設定する根拠がないといいましたが、正確にいえば、実は最低賃金より低い金額を設定することで雇用を促進しようという意思があることは明確でしょう。結局、資本の習性としてより安価な労働力を求め企業が動くということになる(2.)。
しかし、生活保護受給者であっても、他の労働者と同じように働いて最低賃金制の適用から除外するという差異がそこにある以上、そもそもこれを制度として実施してはならないと考えてほしいものです。たしかに現行最低賃金制度にも適用除外事項があるのは承知していますが、それは、若年者、学生など端的にいえば労働生産性上、他と明確に区分できる場合だとされているのですから。だから生活保護受給者の就労は、これと同様の措置になるのか、そうではないだろうと考えるわけです。労働生産性が低いわけでもないのに最低賃金以下の賃金支払いが可能だとすると、明確な差別的扱いといわざるをえないでしょう。
付け加えれば、2007年に最低賃金法が改定されています。改定は、ワーキングプア解消を目指し最低賃金を決める際、「生活保護に係る施策との整合性に配慮する」ことを明記するものでした。また、憲法にうたう生存権を保障する立場を明確にするために、「労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう」との文言も新たに加えられたのです。
このように、最低賃金制と生活保護は表裏の関係にあるともいえ、したがって相互に影響するものです。だから、あえて最低賃金とは異なる体系を持ち込むことによって、生活保護にも、最低賃金制にも悪影響を及ぼしかねない提案だと思えます。
そもそも生活保護はさまざまな理由で就労できない人を対象にするものでしょう。しかも、潜在的な失業者もふくめて職につけない人が多数にのぼる現在の日本の状況は、最初に着手すべきなのは職を求める人びとに雇用を保障できる政策の具体化だと教えているのではないでしょうか。求職者が雇用される環境に今ない以上、こうした二階建てに近い最低賃金体系をもちこめば、状況が悪化しこそすれ、雇用環境の改善をのぞむべくはありません。
しかも、生活保護の本来の対象者を現状でとらえきれているのかという問題も存在します。この生活保護の捕捉率は諸外国に比較しても格段に低いことが指摘されているくらいですし(イギリス;87%、ドイツ:85~90%にたいして日本;19.7%、日弁連)、そもそも生活保護受給対象者をとらえきれずに大量に残したままで、生活保護からの「自立」をこうして上からうながす制度をつくろうとしても、本来の社会保障のあり方としては、木をみて森をみない態度のように思えないでもありません。
生活保護費総体を抑制しようとするあまり、少なからず影響を及ぼすような最低賃金制や雇用環境をいっさい視野に入れていないという、提案として不可欠な要件を欠いているのは否めないように思えます。
生活保護受給者の増加の背景に今日の雇用環境の悪化があることが明らかである以上、そこに着目しないでは、生活保護受給者の自立はもとより、そもそも社会保障を必要とする人のための施策の前提を欠くといってもよいのではないでしょうか。
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[橋下市長]民主主義の対極にある民主主義観
ですが、この人の民主主義の理解は私たちの考えるものとは交差しません。他国の人とのコミュニケーション以上に話が伝わらず、かみあわないようにさえ思えてしまいます。またぞろ、こんなことを言い出しています。先回りしていえば、いつもどおり北朝鮮をだしにつかい、今度も差別意識が彼を貫いているのは少しも変りがありません。
民意をバカにする役立たず学者はいくらでもいる。こういう輩は口ばっかりで小難しい事を言うが、役所に来て組織に指示の一つもできない輩だ。選挙での民意を大切にする。それが民主政の原点だ。民意は危うい。移ろいやすい。不合理な判断もする。しかしそれでも選挙での民意を大切にするのが民主政だ。
http://twitter.com/#!/t_ishin/status/188093000440758272
そういう民意をバカにする連中は北朝鮮に行け!偉そうに民意をバカにする輩ほど北朝鮮では獄中行きだ!僕は危うくても、移ろいやすくても、不安定でも、不合理でも選挙で示された民意をとことん大切にする。そして民意がより良くなるよう国全体で国民のレベルを上げるよう努力する。それが民主政だ。
https://twitter.com/#!/t_ishin/status/188093634871177216
論旨がまさにゆらいでいます。が、彼のいうことの正否は横におくとすれば、民意を尊重する自分(=彼)と異なる意見、つまり民意をバカにする意見とがある。この際の自分とは異なる意見をもつ者は北朝鮮にいけ、これが民主政治だという主旨なのでしょう。
とくに注目したいのは橋下氏の民主主義、政治にたいする理解です。ちなみに彼は民主政といっています。これは一般にいう民主主義と同じで、ちがいがあるとすればとくに政体を指すことくらいでしょうか。
彼の認識では、異なる意見が存在しない状態がすなわち民主主義だということになる。なぜなら、異なる意見をもつ者は外国(=北朝鮮)へいけというのですから。このあたりは以前のエントリで扱いました。かさねていえば、異見があっての民主主義なのに、彼の思い描く民主主義とは、異なる意見のない、カッコつきの「民主主義」、いいかえれば似非民主主義ということにならざるをえません。たとえば戦前の日本の体制翼賛議会のように。
民主主義とは本来、異なる意見をたたかわせるものでしょう。実に手間のかかるプロセスに違いはありませんが、しかしそのプロセスを欠いては多数の人間の英知を結集できず、結局、その英知というものが有効に活用されないままで終わってしまいかねません。
逆に、彼のいう民主政を想像するとすれば、彼の頭の中(だけ)にあるアイデアが生かされるようなことがたとえあったとしても、それが他の人からみて非のうちどころのないようなものとか批判に耐えられるものであるかどうかとはまったく別の問題です。反対意見を認めないという、反対する余地を残さない環境がすでにできあがっているのですから、良かろうと悪かろうと結局、そのアイデアが採用される結果になるに決まっているのです。
橋下氏は、自分とは異なる意見の人を「民意をバカにする連中」とよびました。が、こうして考えてみると、もっとも国民をバカにしているのは、ほかならぬ橋下氏ということになりはしないか。
どういうことなのか。
とりあえず彼はこうのべています。「民意をとことん大切にする」と。
しかし、彼の語った言葉をもう一度、見直してみると、「民意をとことん大切にする」の前に、その意味では正確に「選挙で示された」という言葉が置かれています。
これにかかわってこれまで彼がのべてきたことは、次のように要約できるでしょう。
- 自分は民意を反映した首長だ
- 首長になったら、白紙委任が必要だ
ですから、これは、住民の意見がどうであろうと、そのいかんにかかわらず、自分のやることに口出しはさせないという環境をつくりあげ、それを受容するよう住民に強いるということを意味しています。
こうしてみると、彼の認識は、オレがやる、つべこべいうな、君たちは黙っておけといわんばかりの大衆蔑視に限りなく近く、民主主義とはちょうど対極にある、専制的な政治観といっても過言ではないように思えます。
したがって、民主政などと語る資格がそもそもあるのかどうか、彼には今、厳しく問われているのではないでしょうか。
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勝手にしろといって「分限」を語る専横-橋下市長
大阪市の橋下徹市長は5日、市が同日発表した施策・事業の見直し試案で「2013年度に廃止」とされた市音楽団の音楽士36人の処遇について「単純に事務職に配置転換するのは、これからの時代、通用しない。仕事がないなら、分限(免職)だ」と述べた。
市改革プロジェクトチームの試案では、音楽団を「行政としては不要」としつつ、市が正職員として採用してきたことから、「配置転換先を検討」としていたが、橋下市長は「分限(免職)になる前に自分たちでお客さんを探し、メシを食っていけばいい」と述べ、配置転換を認めない意向を示した。
市音楽団は1923年に発足。国内唯一の自治体直営の吹奏楽団で、市公式行事での演奏や有料公演などを行っている。市は公演収入などを差し引いた運営経費や人件費として年約4億3000万円(2010年度)を負担している。(2012年4月6日08時28分 読売新聞)
橋下市長、市音楽団員の配転認めず「分限免職」
橋下市長が、市音楽団員の首を切るそうです。相手が公務員ですから、これを彼は分限(免職)とよんでいるのですが、百歩譲って、そのような解雇が仮に避けがたかったとしても、彼の発した言葉を疑います。正直、驚きました。
自分たちでお客さんを探し、メシを食っていけばいい
日頃から公務員には民間の感覚が足りないと彼は感じているらしく、この発言でも文脈上でそれらしく「これからの時代,通用しない」などとのべています。しかし、民間でも、こんなことを仮に口にだそうものなら、たちまち指弾されることになりかねない、重大な意味をもつ言葉です。たとえるなら、後は野となれ山となれという捨て台詞を楽団員につきつけたようなものですから。
基本的人権を擁護し、社会正義を実現すると先にのべたのは、いうまでもなく弁護士の使命とされているからであって、人権などとは自分は無縁だという理解がおそらく彼の頭を支配しているようにさえ思えます。弁護士の社会的な信頼の失墜を彼の登場はいよいよ加速するのではないかと心配しないでもありません。
なんでも自治体直営の楽団というものは、大阪市以外にはないそうです。だったら、それこそが光栄なことではないかと思ったりしますが、彼は、人権も嫌いだし、この文化というものも嫌い、というか関心がほとんどないようです。たとえば、このエントリで文楽への助成打ち切りを扱ったわけで、これも橋下氏がからむ問題です。
おまけに彼は、喫煙した地下鉄駅助役も懲戒免職にするといわれています。
ここまで分限や懲戒という権限をちらつかせて、それをメディアに流す。その一連の言動で強く浮かび上がるのは、権威主義的な態度です。
彼はつねに自分の権威というものをアピールします。トップが話をしているときに居眠りなど…という物言いにすでにそれがはっきり表れていると思えます。そういう権威というものを重いものと考える彼は、それだからこそ権威には弱くみえる。たとえば石原に会ったときの態度、あるいは小沢にあったときの態度、もちろんこれに彼の思惑がいくぶんか入っているにせよ、職員などに対する態度とは雲泥の差が感じられます。卑屈なほどに丁寧すぎる一方で、あまりにも強権的専横という落差、これが理解できません。
音楽団員の分限免職にしろ、文楽にしろ、高齢者を対象にした市バス助成にしろ、彼が照準をあてているものは、いわゆる民生といわれる市民生活に直結した政策・措置にたいしてです。私はここに彼の政治的姿勢が端的にあらわれているだろうと考えます。プライマリーバランスという基礎的財政収支(公債収入を除いた歳入と、公債の元利払いを除いた歳出)の黒字化を予算の前提におくという考え方を国が強く求めている背景もあるのでしょうが。
ようするに、市民生活に回しているくらいなら、他に回すところがある。平たくいえば、このような価値観を彼はもっているのでしょう。もしくは、これらは削るものという価値観です。さらにつけくわえれば、彼にとっては、予算を投じる意味のないものとして、音楽とか文楽とか、高齢者があるといえるかもしれません。
音楽団は2013年で廃止する予定だそうです。
働く人は弱い立場にあるからこそ解雇制限をより強め路頭に迷わせるということがあってはならない。昨今、労働の流動化などという名で、解雇規制を緩和しろという主張が目につきます。橋下氏の発言は、これを自治体に置き換え、まるで先取りするかのようです。
失業者をつくるという社会的コストがいかに大きいのか、市長はいちど考えてみるべきではないでしょうか。少なくとも可能な配置転換くらいは考えてしかるべき、それが社会的使命というものではないでしょうか。
だから、あらためて、こう主張しなければなりません。先の発言を撤回せよ。
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石原と橋下が手を組めばどうなるか
ともあれ、都知事と大阪市長という二大都市の首長が会って、政治戦略というものをお互いに交わしただろうとは誰もが推測してもおかしくはありません。
朝日はこう伝えています。
大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長と石原慎太郎東京都知事が4日、大阪市内で会談した。新党結成を視野に入れている石原氏は、国政進出を目指す維新の会との連携を模索している。次期衆院選に向け、協力の可能性について意見交換したとみられる。
橋下氏と石原氏は昨年12月、都庁で会談。関係者によると、今回は石原氏の京都出張に伴い、石原氏側から会談を打診したという。
「石原新党」については、国民新党の亀井静香代表やたちあがれ日本の平沼赳夫代表らが、早ければ月内にも発足させる考えを示している。石原氏は新党について明言を避ける一方、維新の会の政策集「船中八策」については、「大賛成のところがある」などと評価。「大阪維新の会が発展すれば、日本維新の会になるかもしれん」とも語り、橋下氏らに親近感を示していた。
橋下氏と石原氏が会談 次期衆院選へ意見交換か
石原と橋下という、親子以上に年齢の離れた二人が語る政治構想とはいったいなにか。
これだけの年の差があれば通常、人の考え方にも大きな開きがあるとみてもあながちまちがいとはいいきれません。それは、たとえば、たびたび表れてくる今の若者はという切り口上にも表れてもいるように思えます。先行する世代のこうした物言いは、たぶんに自分にはない若者にあるものにたいするちょっとした羨望や嫉妬もそこにふくまれているかもしれません。ふつうは、こうして違いこそ浮き彫りになるというものでしょう。
それで、この二人はどうか。これまでの発言から察すると、すべてで一致するというものではなくとも、相通じるところはあるようです。なければそもそも会うはずもないでしょうし、それ以上に、無視できない論点で彼らが一致しているという事実をこそ強調しておくことが必要なように思えます。
何よりもその点であげたいのは、二人の憲法観です。率直にいえば、反憲法的な考えを共有している。石原にいたっては、憲法を廃棄し、おそらく明治憲法に近いような外形をもつ草案というものを発表したくらいですし。一方の橋下も、ことあるごとに9条をいわば敵視するような発言を繰り返しているわけですから、憲法に価値を置く人ならば彼らの動向に無関心でいるわけにはいきません。
ふたりが実際に何を相談したのか、それは今の段階でむろん知る術はありません。しかし、メディアのいう石原新党がすでに発表している綱領と、例の船中八策をてらしあわせると、何に二人の関心があるのかもみえてくるように思います。
東京都の石原慎太郎知事が、たちあがれ日本の平沼赳夫代表らとともに結成を目指す新党の綱領の骨子が27日、分かった。石原氏は同日の記者会見で、亀井静香国民新党代表らとの25日の会談について「いくらでも協力しますと同意はした。今の政治構造をシャッフルする必要がある」と語り、新党の綱領に関し意見交換したことを認めた。
都知事と党首の両立について「それはダメだ」と否定、「東京も大事だが、東京よりも国家が大事だ」とも述べ、新党結成後の国政復帰をほのめかした。
綱領の柱は(1)わが国の国柄を守る(2)「小さな政府」と「中福祉」を目指す(3)デフレを克服する(4)長期的に貿易立国を目指す-など。「国民に大人の自覚を持ってもらう」と訴え、「国を愛する教育と人づくり」に向け、政策パッケージをまとめる構え。
「小さな政府」の具体策として国会議員と国家公務員の人員・給与削減策をまとめるほか、国家会計の複式簿記化も打ち出す。参院の廃止を訴えることも検討しており、今後石原氏らで文案を詰める。
一方、石原氏は、大阪維新の会を率いる橋下徹大阪市長との連携について「橋下氏に非常に共感することがいくつかある。地方から中央集権をぶっ壊していく絆だ。橋下氏は大阪市という伏魔殿をぶっ壊すために頑張っているのだから手を組むのは妥当だ」と述べた。
「国柄を守る」「小さな政府」「中福祉」…綱領の骨子判明 石原氏「東京よりも国家」
大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)は10日、大阪市で会議を開き、衆院選向けの政策集「船中八策」(維新八策)の原案を公表した。中長期の目標も含めた抜本改革「グレートリセット」を主張。目指す国家像に個人や地域、国家の「自立」を掲げ、「決定でき、責任を負う民主主義の確立が不可欠」とした。24日開講の維新政治塾で議論し、成案をまとめる方針。
橋下氏は大阪で取り組む自治体改革の意義を訴えつつ、「日本の方向性を決めるのが我々の仕事」と強調。「政策、政治、行政の哲学をしっかり固める。それが欠けているのが今の既成政党だ。自民党も民主党も混迷を極めている」とも語り、維新の国政進出への意欲をにじませた。
ただ、政策集の原案を「政治塾のレジュメ」と説明するなど、衆院選への準備を進める維新に対し、既成政党に広がる警戒感を和らげる狙いから慎重な発言も繰り返した。
原案は「統治機構の作り直し」「教育改革」など八つの柱で構成。首相公選制や道州制の導入、地方交付税廃止、教育委員会の廃止を提示。年金、生活保護、失業対策の一本化、沖縄の基地負担軽減、参院廃止も視野に入れた国会改革など憲法改正も盛り込んだ。
首相公選・教委廃止も 維新の会「船中八策」原案公表
石原綱領と「船中八策」の2つを並べてみて、ただちに分かることは、石原が「今の政治構造をシャッフルする必要がある」とのべ、一方の橋下が抜本改革「グレートリセット」を押し出していて、いずれも別の言葉でいえば現在の政治構造をひっくりかえすという意味がそれに込められているだろうと思えます。これは、既成政党というものができなかった、これまでにない政治構想をつくるということを意味しているようです。しかし、これ自体、かつて小泉が自民党をぶっ壊すといったことがあるように、新しいものではありません。
新しい政党をつくろうとアピールする以上、新しい装いは必要なのでしょうが、石原綱領と「船中八策」をよくみれば二番煎じともうけとれるようなものばかりともいえます。
ただし、うたわれている中に注意を要する点がある。ここではそれぞれについてふれませんが、列記してみます(石原;新党綱領、橋下;船中八策)。
- 小さな政府」と「中福祉」(石原)
- 「国を愛する教育と人づくり」(石原)
- 首相公選制や道州制の導入(橋下)
- 地方交付税廃止(橋下)
- 教育委員会の廃止を提示(橋下)
- 年金、生活保護、失業対策の一本化(橋下)
- 参院廃止(橋下)
- 憲法改正(橋下)
すでに石原都政や橋下府・市政をふりかえってみれば、彼らがこれをどうようにとらえているかは、どことなく透けて見えてくるようです。たとえば、「国を愛する教育と人づくり」とは、卒業式における不起立者を処分する事態に表れている、思想・良心の自由をないがしろにする姿勢に象徴されるように。橋下が「異なる価値観ならば去ってもらって結構だ」と語ったのはその象徴だともいえ、異なるものは認めない社会がつくられかねない可能性をはらむものであることに注目しないわけにはいきません。
憲法改定がこうして公言され、ときにはそれを地で行くような出来事もあったわけで、憲法改定を持ち出す際、9条の改定にふれなかったという事実を私は知りません。憲法改定という言葉には9条改定が含意されていると考えてもよいのではないかと思えます。
今の段階で安易に推測することは慎まなければならないという思いがないわけではありませんが、以上にのべた懸念が懸念のまま終わる可能性よりも懸念する方向に近づいていく可能性の方がはるかに高いように思え、黙っておくわけにはいかない。
私は、戦争することに加担したいとはまったく思いません。9条の改定に賛成するのは、明確に戦争に加担することに道を開いたにほかならないようにみえます。
私たちはリスク社会のなかに生きているともいわれています。だから、少なからず予期せぬ死への可能性のなかで生きているといいかえることもできるでしょう。しかし、戦争は、われわれが絶対にしないという意思を固めれば、安易に戦争の道にすすむことを阻止する手立てがまったくないわけではありません。戦争する国にかえようとする動きは、記憶に新しいところでは安倍首相の時代にもありましたが、結局、彼の新しい国づくりは潰え去りました、
夫や子、恋人、あるいは自分ではない他者を戦場に送れるでしょうか。送るということは死の可能性を容認することです。ただ、それでも生きて帰る可能性がないとはいえませんが、しかし一方では、それでもその彼らが戦場で他者を殺す可能性もむろん存在します。
9条の改廃に賛成するということは、つまるところこの問いの含意する(死の)可能性を現実のものにしてしまうということでもあるのではないか。この2人が手をにぎることはその可能性を増幅させることにつながるのではないか。
ですから、憲法改定を主張する動きには反対の意思表示を明確にしておくことが大事だと思うのです。
参考;
[橋下思想調査]捏造に問題を回収してはならない
[橋下発言]異なる価値観ならば去れ
ルールの区別のつかない人
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消費税増税と自治体を破壊させる橋下発言
増税をめぐってはメディアの多くは賛成または容認の態度をとっており、ほぼ半数が反対の意思を依然、表明している国民の意思とは明らかに乖離しています。税率引き上げでどのような影響を被るのか、朝日の社説も参照しながらエントリでのべましたが、そこでふれた論点のほかに地方自治体への影響を加えなければなりません。
周知のように消費税(正確にいえば消費税等)は、(国の)消費税と地方消費税から成り立っています。現行税率でいえば下記のように4%が国、地方が1%。
となると、消費税税率引き上げで地方自治体の財政にも影響します。
消費税4% + 地方消費税1%(国4%×25%) = 5%
この点で、橋下知事が消費税増税にたいする態度を表明しています。消費税に反対だというのはこれまでにも報道で伝えられていたように思いますが、法案が決定された時点であらためて反対の態度を明確にしました。
大阪市の橋下徹市長は29日、政府が30日の閣議決定と国会提出を予定している消費税増税関連法案について「いかにも霞が関が考えそうなことで、乗っかってはいけない。財源確保は消費税を上げなくてもできる」と批判した。
橋下市長は「地方交付税と補助金を廃止すれば20兆円くらいになる。消費税は地方に回せばいい」と持論を展開。「国の統治機構全体を考え、号令をかけるのが政治だ」と政府の方針に注文を付けた。
市役所で記者団に語った。
橋下市長 消費増税法案を批判「いかにも霞が関が考えそうなこと」
ただ、関心をもったのは地方交付税とのかかわりで彼の持論を展開しているくだりです。
「いかにも霞が関が考えそうなことで、乗っかってはいけない。財源確保は消費税を上げなくてもできる」と批判した。
橋下市長は「地方交付税と補助金を廃止すれば20兆円くらいになる。消費税は地方に回せばいい」…
はたしてそうでしょうか。
先にものべたとおり、国の消費税の25%が地方に入ることになっています(したがって現行では1%分)。これをすべて地方に回し、その代わりに地方交付税はなしにしようというのが彼の地方自治体財政論だといえます。
しかし、消費税増税が増税にならず、かえって景気を悪化させ、国の税収を悪化させきた歴史が地方自治体を避けて通るってことはもちろんありませんでした。私たち個人の所得には国の所得税と地方自治体に入る地方税が課税されるわけですし、同様に法人も法人所得税(法人税)と地方法人税が課税されるわけですから、国の税収が下がるということは、すなわち地方税税収も下がると考えてよいでしょう。消費税増税は、地方自治体の財政悪化をもたらすのです。
ですから、橋下氏がいうように、地方交付金をやめ消費税で確保できると単純にはいかない。平成23年度分で比較してみます。
このように、消費税で地方交付金で補うことは明らかにできないのです。
そればかりではなく、そもそも地方交付金というものの果たしている役割をみておかなくてはなりません。
地方交付税は、 国が地方公共団体の財源上の偏りを調整する財政調整制度ですから、これをなくせば、たとえば「裕福な自治体」と「赤字自治体」との財政を調整し、地方自治体の運営に支障をきたさないよう財政の均衡化を図る機能をもっているのです。ですから、これをなくせば、赤字自治体のいっそうの財政状況悪化、新たな赤字自治体への転落なども容易に推測されるように思います。
橋下氏の発言は、この点にいっさいふれてはおらず、その点で安易な見解の表明だといわざるをえないでしょう。消費税反対を打ち出す一方で、消費税全体を地方自治体の財政に当て込むということ自体が、すでに欺瞞に満ちていますが、仮に彼のいうとおりにした場合、およそ7兆円は不足する事態に陥り、地方自治体は財政破たんにたちまち見舞われることになるという無責任な内容だといえます。
消費税増税ではなく、払える能力のある個人や法人に負担をしてもらい、これだけの景気低迷のなかで冷え切った消費をまず回復させることです。これなくして、景気を回復させる手立てもないように思えます。
橋下氏は消費税増税に反対するのなら、自ら地方自治を破壊する安直な提案ではなく、消費税によらなくても国と自治体の財源を確保できる方法を提起すべきではなかったでしょうか。それが責任ある態度だと思えます。
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捏造と報道の自由または知る権利
メディアに問う。僕は報道の自由を最大限に尊重する。しかし議員の議会活動も最大限に保障すべきだ。事実誤認があれば訂正はする。しかし何でもかんでも謝罪か?メディアは一般市民に対して事実誤認をやってもなかなか謝らない。それは報道の自由が委縮しないためにもある意味仕方がない。
https://twitter.com/#!/t_ishin/status/186016338706313216
ようは、捏造データをもとに議員が質問したことは、謝罪に値しないということをいいたいようです。メディアだって、「なかなか謝らない」ではないかと。
それをいいたいがために持ち出したのが、報道の自由。
彼の議論は、以下のようにメディアの報道と議会活動とを同列においたうえで組み立てられています。
- 報道の自由を自分は「最大限に尊重する」。
- 議員の議会活動も最大限保障すべき。
- 事実誤認は訂正するが、謝罪はしない。
- メディアも事実誤認があるが謝罪しない。
- 報道の自由が萎縮しないためにも謝罪しないことは仕方ない。
今回の一連の問題では、「維新」議員が質問した事実があるのですから、質問という議会活動に圧力があらかじめかかったわけではもちろんありません。問題は、リストにたいして捏造の疑いを認めつつ質問に及んだ、その行為が問われていると考えられるのではないでしょうか。リストの疑わしさを議員団で共有しながら、つまるところ質問にゴーサインが出たところに本質がある。
それは、労働組合活動への攻撃・干渉が第一義なものとして「維新」で位置づけられていたからにほかならないと考えられます。だからこそ、そのために利用できるものは何でも利用しようとするし、それが捏造されたデータであったわけでしょう。それは結局、組合がこうしたリストをもちいて前市長の支援を組合員に要請していたではないか、しかも時間内に、というシナリオを同議員団は描いていたということではなかったのか。
でも、捏造かもしれないと疑った時点でジャーナリストならば裏をとることは必ず省略しないはず。というよりデータそのものの信憑性をまず確認するものでしょう。その行為を怠るのなら、それはジャーナリストの名におよそ値しないでしょう。しかも、橋下氏がいうように(メディアは)事実誤認は訂正するが、謝罪はしないとは少なくとも私は理解していません。
議員ならどうか。もちろん厳しくその姿勢が問われる。捏造ではないかと追及こそすれ、捏造したデータにもとづいて断定するなど、あってよいはずがありません。
市民は、自身と社会の将来を自ら選び取る権利をもっています。そのために、憲法は、メディアにも、議会にも行政にたいしても自らの運命を選択するに足る情報を請求する権利を保障しているのではないでしょうか。
たしかに、橋下氏は、自分は報道の自由を最大限に尊重するとのべてはいますが、その解釈は異なるようです。また、最大限保障するという物言いも、おかしなものです。保障するということに、最大限も最小限もなく、この場合、報道そのものが保障されなければなりません。ただ、それが、市民にとっての自身と社会の将来を自ら選び取る権利を侵すものであるのならば、そもそも報道の自由には値しないという一点が含意されているのではないでしょうか。
ですから、謝罪を求めるのは議員活動を萎縮させるものだという理解の下で、質問の正当性を繰り返し、謝罪すら認めないという態度とこれは相容れないと思われます。
当の労働組合にも、市民にもいっさいの謝罪をしないという姿勢にこそ、逆に報道の自由も、あるいは知る権利にたいしても尊重するどころか、軽視または無視する姿勢を強く感じるわけで横におくわけにはいかないのです。
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「茶色の朝」を迎えないために
俺とシャルリーは、とくに何を話すというわけでもなく、お互い顔に浮かんだことをただやりとりしていた。
それぞれ相手がしゃべる中身に
たいした注意は払っていなかった。
コーヒーをゆっくり味わいながら、時の流れに身をゆだねておけばよい、心地よいひとときだ。
シャルリーが犬を安楽死させなきゃならなかった
と言ったときはさすがに驚いたが、ただそれだけだ。
静かに時が流れ、そのなかにゆったりと身を置いておく。こんな日常がしだいに変わっていく。
すでにその予兆はこの一節の中にも現れています。
この寓話の背景には、1980年代以降の極右政党・国民戦線の台頭があります。この『茶色の朝』でフランク・パヴロフは、フランス社会がやがて茶色に染まっていくのにたいする不安とそれへの抵抗を喚起しようとしたのでしょう。なぜ、茶色の朝なのか。これを理解するには、フランス人にとって茶色のもつ意味を予備知識として入れておく必要がありますフランス人にとっての茶色 brun とは、ナチスを連想させるものらしいのです(注)。
犬の安楽死に驚いたものの、「ただそれだけ」と主人公・俺はやり過ごしていきます。安楽死とは、「ペット特別措置法」で茶色でない犬や猫が処分されることをさしているわけですが、そんな中でも、不安を感じつつ茶色に守られている心地よさを感じ、時は過ぎてゆくのです。しかし、それゆえ、この寓話の結末はこうならざるをえなかったともいえます。
ひと晩じゅう眠れなかった。
茶色党のやつらが
最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、
警戒すべきだったのだ。
けっきょく、俺の猫は俺のものだったんだ。
シャルリーの犬がシャルリーのものだったように。
いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごまとしたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?
だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。
……
陽はまだ昇っていない。
外は茶色。
そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いま行くから。
『茶色の朝』に出会ったのは、もう5年以上も前のことになってしまいました。当時の日本をふりかえってみると、安倍首相のもとで国民投票法案が参院憲法調査特別委員会で論議されていました。形こそややちがってはいるものの、今日の状況とどこかに共通するところがあるように思えます。
先に茶色の意味についてふれましたが、茶色に象徴される、フランス人の一つの明晰な態度を日本人に求めるのはむずかしいのか、こんな不安ともあるいは諦念に近いともいえるような思いが頭をよぎっていきます。国会のていたらくにも思える状況の一方で、橋下市長と「維新」の言動が脚光をあび、より深化していくという現実。これをとらえてある人は、狂気とよびました。
その狂気が、例の捏造劇にいきついたのではないでしょうか。捏造されたとうすうす知りながら、架空の質問をし、「犯人」を特定し、ひきづりだそうとする。このやり方はまさに、『茶色の朝』の主人公らを追い込んでいった狂気とおなじものではないかと思えるのです。
たとえばこのように、いわばでっちあげて特定のものを炙りだそうとする前提には、異なる者へのむきだしの敵意がある。むしろ(彼らとは)異なるということ自体を認めないがゆえに、現にある異なる意見を無きものに、つもうとするといえるのではないか。同じでなければならないのです。
こうした考えは、「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」(参考)という仮説によって、差別を排除に置き換えると成り立つ、別の表現だといえそうです。だから、差別者扱いされたくない人がvictim blamingをする。
この筆者は、つぎのように書いています。
ことが権力者による意図的な発言となれば話は別です。たとえ周囲の人々がミクロなレベルで修正したとしても、その言葉のマクロな影響力は制御のきかない状態で広まってしまうからです。
朝日新聞が3月10日に報じたところによると、大阪府の橋下知事は、「不法な国家体制とつきあいがあるなら、僕は子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる。そうしないと朝鮮の皆さんに対する根深い差別意識が大阪府からなくならない」と語ったそうです。
これは典型的なvictim blamingです。なにせ、差別の原因が差別される側にあると語っているわけですから。
橋下発言にみるVictim blaming
市長はこうして異なる意見を排除しようとするのです。それを延長し、憲法9条を照準に定めているのは、つぎの発言から自明でしょう。
平和には何も労力がいらない、平和を維持するために自らは汗をかかないという趣旨だ」とする独自の解釈を披露。「同じ国民のためしんどいことをやるとか、嫌なことでも引き受けるとか、そういう教育は受けてきたことがない。教職員組合や職員が僕らに憲法9条の価値観を徹底してたたき込んできたんじゃないか」と述べ、戦後教育の在り方に否定的な見解を示した。
橋下氏 がれき処理遅れ要因は憲法9条
昨日のエントリで、捏造に問題を回収してはならないとのべました。これは、仮に「維新」が進出するようになった場合、今後、憲法をめぐる態度がそれぞれ国民に問われてくることを念頭においたものでした。
朝はやはり、透きとおるように晴れわたった空とともにあるのがいい。もし茶色であれば、われわれの豊かであるはずの色彩感覚が根っこから奪い取られ、目でみえるものの一つひとつを描くことも、語ることも、もちろん考えるもできなくなってしまうのではないか。
だから、寓話の主人公がふりかえるように、いやだと言うべき、抵抗すべきときがあるのではと思えるのです。憲法をないがしろにしようとする動きを誰がとろうと反対するゆえんです。
注;高橋哲哉氏は前述書の中でこう解説しています。
ヒトラーに率いられたナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)は、初期に茶色(褐色)のシャツを制服として着用していたので、茶シャツ隊 les chemises brunes はナチスの別名になったのです(もっとも、細かいことを言えば、後にナチス党内で勢力を強めたヒムラー率いる親衛隊SSが黒の制服を着用したため、「茶シャツ」は、ヒトラーによって粛清されるレーム率いる突撃隊SAに限られた征服になりました)。
「茶色」は、ナチスを連想させるだけではありません。そのイメージがもとになり、今日ではもっと広く、ナチズム、ファシズム、全体主義などと親和性をもつ「極右」の人びとを連想させる色になっています。
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[橋下思想調査]捏造に問題を回収してはならない
嘱託職員が職員リストを捏造したことが発覚しました。この事態にあわてたのが橋下市長と「維新」であるのはまちがいないでしょうが、市長はすでに当該の職員の問題だとして捏造に問題を回収してしまおうとしています。
しかし、それではこの思想調査問題を単に一つの出来事として終わらせることになり、人びとの記憶をなきものにしてしまうのではないかと思います。この思想調査という事件は、やはり日本の歴史にとどめておくべき、その意味で価値をもつものだろうと考えるのです。
捏造は問題だけれど、しかし何よりも、当の市長が全職員を対象に労働組合活動や思想・内面に至るまで聞き出そうとした憲法違反の調査を企てたのですから。しかも、市長自身が法律家を名乗っているというおまけまでつく教訓に満ちたものなので、忘れ去るわけにはいかないものだと思えます。
だから、最初に画期といったのは、今これまでの経過をふりかえり、このような懲戒をちらつかせるという圧力をかけ、人の内面を調べ公表し、場合によっては職業まで奪いかねなかった憲法違反は許されないと明確な態度を表明しうる、換言すれば断罪する機会にもなるし、そうすることで憲法の価値をあらためて確認しうるからです。
誰が、何のために作成したかがわからず、刑事告発の応酬にまで発展していた大阪市長選を巡る職員リスト問題は26日、市交通局の嘱託職員による捏造
だったことが判明した。しかし、動機面の解明は残されたまま。「信ぴょう性が高い」と判断し、内部告発されたリストの公表に踏み切った大阪維新の会市議団には、強気と動揺が交錯している。
「議員の調査権には限界がある。詰めるところは詰めて質疑をしており、何一つ間違っていない」。リストを最初に公表し、市議会委員会で取り上げた維新の杉村幸太郎市議は26日の記者会見で、そう強調した。
杉村市議は「リストに加工された部分があるという議論は当初、市議団内でもあった」と認めつつ、「質疑をするという我々の責務を遂行した。市議団の指示で、個人で勝手にやったことではない」と釈明した。
2月の委員会で、杉村市議はリストを示し、「交通局と組合が組織ぐるみで市長選に関与していたことを裏付けるものだ」と追及。内部告発者が実名を名乗って持ち込んできたことから、「信ぴょう性が非常に高い」とも主張していた。
維新代表の橋下徹市長も当初はツイッターで「今回のえげつなさは、(リストに)幹部職員も含まれていること」などと組合関与を決めつけるような書き込みをしていた。しかし、組合側が全否定すると調査を指示し、慎重姿勢に。橋下市長はこの日、報道陣に「法律家としてちょっと危ないなと感じていた」とした上で、「捏造をした職員の責任で、維新や杉村市議には何の問題もない。部下である市職員がやったことは大変申し訳ない」と話した。
リスト捏造 何のため…PC履歴で判明
市長のこの発言で、疑問に思うところは
- 「法律家としてちょっと危ないなと感じていた」のなら、「維新」代表でもある市長は、リストを公表する前になぜ「維新」に吟味させなかったのか。
- 杉村市議は「リストに加工された部分があるという議論は当初、市議団内でもあった」と認めつつ、「質疑をするという我々の責務を遂行した。市議団の指示で、個人で勝手にやったことではない」というのだから、「維新」市議団は「やらせ質問」の確信犯といえるのではないか。
- 「捏造をした職員の責任で、維新や杉村市議には何の問題もない。部下である市職員がやったことは大変申し訳ない」と弁明するが、捏造した職員にすべてを押し付ける責任回避ではないか。
- ゆえに、杉村市議はむろん、「維新」の組織的な責任が問われるだろう。その代表は橋下市長なのだから、彼の責任は重い。
およそ少なくみてもこの程度は問題があろうと考えます。あやしいと市長が思えるようなリストを使って彼の率いる政党の議員が質問し、その上、「信ぴょう性が非常に高い」などと発言して「犯人」を断定したに等しいのだから、市長も「維新」も欺瞞に満ちた態度をとったわけです。
発言どおりにリスト自体の信憑性を疑っていたのなら、市長は結果的に「やらせ質問」を仕組んだ共犯ともいえるでしょう。「維新や杉村市議には何の問題もない」のではなく、自身と「維新」にこそ責任を認めなくてはなりません。しかも、発端は市長の指示にあるのですから(参照)。
橋下市長がめざそうとしている目的とそれをめざす上での言動と運動、および彼に同調し、あるいは支持する者すべてをふくめて仮に<橋下なるもの>とよぶとすれば、<橋下なるもの>が<橋下なるもの>ではないものすべてをあぶりだそうとしたのが今回の思想調査だろうと私は考えます。ですから、ある人はこれを赤狩りに見立てていますが、そうではないと思えます。赤、つまり共産主義者だけをねらい討ちにするものではない。そうではなく、<橋下なるもの>ではないすべてを明らかにし、一束にし、制裁を加えるという深刻な内容の調査をたくらんでいたのですし。
むしろ今回の調査の事実を知って思い出すのは、有名なニーメラーの言葉(注参照)です。ニーメラーが描き出すのがナチスの告発であるのは自明ですが、彼が訴えるのは沈黙することの危険な側面です。いわゆる主義者でなくとも、「フツーの人」も最後には捉えられていく現実をみつめ、そこに人びとの沈黙が深く根ざしていることを浮き彫りにしたといえます。
現に市長は、自分と異なる意見をもつ者は去ってもらって結構だといっているのですから(参照)。これを言葉の上だけの問題としてとらえるのではなく、彼の思想が表出したものとみなければならないでしょう。意見というものがそれぞれの価値観によっている以上、橋下市長と異なる意見をもとうものなら、ニーメラーの言葉を再現する結果となってしまうという、まず放置できない事態を招く。その可能性は摘みとらなければなりません。
市長を支持する人も<橋下なるもの>にふくめましたが、そこにはニーメラーにならって、沈黙という行為をとる消極的支持もふくめなければなりません。今、求められているのは、理不尽な言動にはそう感じた時点で声をあげることであって、そこからはじめないといけないだろうと思います。
おそらく、市長はこうした展望が開けることをもっとも恐れているのではないか。だから、彼は、なによりもまず職員に責任をなすりつけ、責任回避の発言を残したのでしょう。職員に責任を転嫁することは、この思想調査問題を捏造問題に矮小化することを意味し、憲法違反の事件の性格を一方で切り捨てるものといわざるをえません。
しかし、指示は市長にしかできなかったし、実際に懲戒をかかげる一方で全職員に徹底したのは市長以外にはいなかったのです。この記憶を消してはなりません。逃れようのない責任が市長にはある。
ですから、日本国憲法に価値をおく人であれば、すべからく橋下市長には不同意という態度をとってよいだろうし、とらなければならないと考えてほしいものです。
注;Martin Niemoller(ドイツのプロテスタント、ルター派神学者。1892.1.14~1984.3.6)
ナチスが行った数々の弾圧を傍観し、自分たち神学者にその手が伸びるまで行動を起こさなかった事を悔やみ、下記の有名な言葉を残している。
やつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。
そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。
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[橋下発言]教育や文化には補助金は要らない
その補助金について、こうした癒着や不正が現に存在しそれをただすという次元とは別の角度から廃止したり、支給しないという大阪市の事態が伝えられています。なかでも目をひいたのは、最近、帰化したばかりのドナルド・キーン氏がこれに言及していたことでした。
日本文学研究者で08年に文化勲章受章、今月8日には念願の日本国籍を取得したコロンビア大学名誉教授、ドナルド・キーンさん(89)が毎日新聞のインタビューに答え、大阪市による財団法人「文楽協会」への補助金(5200万円)凍結を憂慮。「ショックです。文楽は大阪に特別な意味があります」と大阪発祥の世界無形文化遺産「人形浄瑠璃 文楽」へ援助継続を要望した。日本の伝統芸能を愛するキーンさんの発言は波紋を広げそうだ。
・・・・・
橋下徹・大阪市長が大阪府知事時代に「二度と見ることはない」と言ったことには、「芸術はすぐ分かるものではないです。すぐ分かる人形芝居は子供向けのもの。文楽は洗練された芸術です。300年以上前からあり、世界的にも認められています」と静かな口調ながら力説。「オペラも初めて見ると退屈です。しかしあらゆる国で歌劇場が造られています。それを欲しがる人はいます。そういう人たちを無視する理由は無いんです」と話した。
文楽:大阪に特別な意味 キーンさん「ショック」 橋下市長の補助金凍結に憂慮
この記事にあるように橋下大阪市長(以下、市長)はすでに文楽協会への補助金を凍結しています。日本の文化に詳しいキーン氏は市長の姿勢に疑問を呈しているわけです。実はこの凍結に関連して、市長はすでに文楽の現状をとりあげこう語っていました。
僕だって文化が大切なのは分かる。しかし根付かない文化には何らかの原因がある。その原因究明を真摯に行い、対策を講じる。文化という名の下に残るのが当り前という考えは間違っている。三谷さんの新作。こういうことを何故文楽協会は早くやらなかったのか。
大阪にも国立文楽劇場がある。何で三谷さんの新作をやらないの?国立文学劇場は正統な文楽しかやらない?そんなこと言ってたら文楽は根付きませんよ。文楽を巡っては、とにかく仕組みがおかしい。芸事なんですから、お客さんを魅了する芸で、とにかくお客さんを集めなければならない。
国立文楽劇場も、文楽協会も、技芸員さんも、三谷さんの新作文楽を大阪でできるように奔走したらどうですかね。それぐらい汗をかかないと文楽は根付きませんよ。歌舞伎も漫才も落語も、芸事の皆さんは、それはそれはお客さんを集めるために、身分保障などない所でなりふり構わず汗をかかれています。
http://togetter.com/li/263907
この市長の姿勢を「木ノ下歌舞伎」の主宰者・木下裕一氏がさっそく批判したわけですが、木ノ下氏はそこで、三谷氏の新作がまだ内容も明らかにされていないのにほめちぎるという、市長の一つの虚構を暴いていますが、片方で平気でウソをつく市長が、さも上方の文楽を知悉しているかのようにいって補助金を削るのですから、関係者の納得は得られるはずもありません。
文楽(ママ)対する、いや伝統に対する認識があそこまでステレオタイプ(いや、それ以下)だとは。想像を絶する。大体、大阪市長が、上方文化の中枢である文楽にたいしてその程度の認識であること自体、許しがたい。しかも、「未来の文楽」のビジョンもなにも持ち合わせていないではないか。
「これが伝統文化なんだから、これを理解しろ!という表現者の態度では絶対に文化なんて根付かない」とおっしゃるが、文楽の技芸員さんがいつどこでそんな態度をとりました?私は一観客にすぎませんが、そんなこと、一度も感じたことがありません。
むしろ、現代と伝統の狭間でジレンマを抱えておられると思います。まだまだ工夫の余地と賛否があるにしろ、字幕、レイトショーなど三部制の導入、演目の選定などに、なんとか現代の観客をつなぎとめようとする試みと焦りと見て取れるような気がして、切なくなるくらいです。
http://togetter.com/li/263907
たとえばキーン氏の文楽にたいする発言と橋下市長の発言のどちらをとるかと尋ねられるのなら、即座にキーン氏を私はとります。
いわばはじめに補助金凍結ありきともいえるような市長の理不尽な発言ですから、キーン氏が嘆くのは多くが頷けるところでしょう。「芸術はすぐ分かるものではない」。ただ、「それを欲しがる人はいます」。そういう人たちを無視する理由は無いという判断にたてるかどうか、そこが政治の力点の置き方にかかわっています。いいかえるのなら、そこに政治の質が問われているのではないでしょうか。文楽という大阪に根付いてきた伝統文化に価値を見出し、それを後押しするのが行政の役割だと考えてほしいものですが、市長は文楽を選ばなかったという結果になったわけです。
文楽というものが、太夫と三味線、人形使いによって成り立つくらいのことは承知しているものの、それから先は私もほとんど知りません。しかし、これくらいは考えることはできます。キーン氏がいうように、文化はすぐには分からないものであるとすれば、やはり底辺から文楽ファンの養成をしなければならないのでしょう。どうすればよいか? 日本は小さな町にも野球のチームがあるし、むしろ近年はサッカーのクラブやチームが着実にふえていることに表れているように、スポーツへの関心はけっして低くはない。それでも諸外国にくらべると国家的な支援はまだまといわれているくらいでしょうが、ともかくスポーツ並みに文化芸術への関心をたかめるために行政の支援のあり方はいくらでもあるように思えます。生徒たちの鑑賞機会をつくるとか、人形師を招いて所作をみせ操り方を教えるとか、素人が考えただけでもアイデアは生まれそうな気がします。
市長がやるべき第一は、今の文楽の現状を傍観者の立場からみて批判する前に、関係者と交流し、ふさわしい底辺拡大のための援助を寄り添って探究することにあったのではないか、こう思うのです。
市長はまた私学にたいする助成金も凍結するようです。
大阪市内の朝鮮学校への補助金不支給を決めた橋下徹市長は22日、私立幼稚園・小中高校計179校園への補助金も新年度から廃止する方針を明らかにした。
市役所で報道陣の質問に答えた。
府内の私立校園への助成は大阪府が中心になって担っているが、市も1961年度から、私立校園の設備費や教具購入費などの一部支援のため、府とは別に補助金を交付。2011年度は179校園に計約2700万円を支給した。
しかし、橋下市長は「私学助成は府が手当てしている。市はこれまで行政的な慣行で何も考えずに払ってきただけだ」と従来の対応を批判し、12年度予算では計上しない方針を示した。
私学関係者は「学校によっては画用紙などの教具が買えなくなり、影響がでてくる。市が市民のために補助していた制度で、府が払えばいいというのは発想が違う」と反発している。(2012年3月22日12時39分 読売新聞)
橋下市長、私立幼稚園・小中高への補助金も廃止
公立であっても私立であっても生徒たちにとっては同じ教育であるはずです。これまでの私立学校への補助金は、何らかの形で教育実践に活用されていたはずでしょうから、補助金がなくなればその分、費用を捻出せざるをえず、経営努力だけで補えずに結果的に生徒たちの家庭への負担に跳ね返ってくることは容易に想像されるところです。「私学助成は府が手当てしている。市はこれまで行政的な慣行で何も考えずに払ってきただけ」を廃止の理由にあげたのでは、現場も従来の市政をもバカにするような、あまりにも飛躍した議論のように思えてなりません。市長が仮にそのまま府知事であったとするなら、彼が語った言葉を受け入れるでしょうか。受け入れるはずはなかろうと思うのです。
こうした補助金削減の方向は、市長がしばしば語ってきたように、民意と既得権益とを対置させ、既存の権益を住民の利益を損なうものとして描き出すという論法の延長にあるものでしょう。もっとも文楽にたいする補助金や私学にたいする補助金が既得権益に該当するなんて考える人はいないでしょうが。とにかく、こうして自らが既成の勢力への優遇だと考えた対象を告発し、いわば兵糧攻めにするという姿勢の一方で、市長はこんなところへ予算を投じることには当たり前だと思っているようです。
大阪市の橋下徹市長が昨年12月の就任以降、ブレーンとして民間人から任用している特別顧問・特別参与が計50人に上り、報酬も市長就任前の2倍以上に引き上げられたことが分かった。職員給与は来年度から平均7%カットするが、「(ブレーンは)しかるべき待遇をしないといけない」との理由から、拘束時間の長さによって日額2万~5万円台を支給。顧問・参与は政策決定過程に深く関与しており、重用ぶりが際立っている。
橋下市政3カ月:特別顧問・参与が50人に 報酬も倍増
先のエントリで、次期選挙では民主主義が争点になるだろうとのべました。同時に、以上で振り返ったことは、市長が政治のかじとりの上で何を重視するのか、それを端的に物語っているようにみえます。そして市長の姿勢は「維新」の政策に直結しています。だから、市長と「維新」が国政において何を重点にしようとしているのかについても同じように関心をもたざるをえません。
彼らのめざす方向は、政治の目的を防衛など限られた、できるだけ小さいものにしようとする考えと無関係ではありません。むろんこうした方向には異議を申し立てこそすれ、だまって受け容れてはならないだろうと思います。大阪市の私立学校の助成を独自に他の自治体がやるよう求めるわけにもいきません。市の助成は市が率先してやるからこそ独自助成なのですから。また、もともと大阪に息づいた文化はまず大阪が育てないと育たないでしょう。行政はそのための後押しに力をいれてもらいたいものです。
大阪市が独自に私立学校に助成しているのであれば、それは続けるものではあっても、他がやっていないことをやる必要はないとか、府でやっているから市でやる必要はないという割り引くわけにはいかない。こうした考えには、どこかそれらを軽視するか、あるいは行政のやることではないと切り捨ててしまう価値観があるとみてよいのではないでしょうか。しかし、それでは結局、そのつけを教育を受ける者、文化を欲する者へ回し、しわ寄せする以外にないのです。
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[橋下発言]異なる価値観ならば去れ
橋下徹大阪市長(42)が代表を務める大阪維新の会は24日、大阪市内で、全国から2000人を超える受講生を集め「維新政治塾」の開講式を開いた。塾長の橋下氏は、衆院解散に備えて「国の形を本気で変えるため、大勝負しないといけない」と宣言。君が代の起立斉唱からスタートするなど独自色全開で、今後は受講生の能力や資質を見極めて400人程度の精鋭を選抜し、次期衆院選を見据えた候補者養成を進めていく。
金びょうぶを背に塾長の橋下氏は、次期衆院選の擁立候補でもある受講生へあいさつし、国政進出への本格的な第1歩を踏み出した。「今の日本は危機的な状況だ。国の形を本気で変えるため、大勝負しないといけない。国の体制を変えるのは選挙だ。来るべき大いくさに備え、しっかり準備していこう」。
さらに橋下氏は「統治機構を変えて、決定できる民主主義を実践する政治集団を」「独裁、拙速との批判もあるが話し合いだけでは物事は進まない。価値観が合わないなら去ってもらって結構だ」「政治塾はカルチャースクールではない」などと熱弁。会場は新入社員の入社式のような緊張感が漂った。
「橋下政治塾」君が代の起立斉唱で開講
注目したいのは、橋下氏が語った言葉です。
つねづね思うことは、この人物が(自分とは)価値観の違うことにたいして高圧的で敵対的な態度をとりつづけ、排除の論理をふりかざす姿勢についてです。こう語っていますね。
独裁、拙速との批判もあるが話し合いだけでは物事は進まない。価値観が合わないなら去ってもらって結構だ
前段部分はさておき、価値観が合わないなら去れというに等しい、彼の態度です。いや、等しいではなく、そのものでしょう、おそらく。
しかし、これって政治とは無縁の態度ではないのか。同じ価値観の人たちの政治って、いったいどこに存在するのでしょうか。夢でもみているのではないでしょうか。
たとえば、「私たちの周りには空気がある」や「今、雨が降っている」というのは、事実についてのいわば判断で分かりやすい。しかし、昨年の3・11以後の夥しい言説の多くは、原発の是非にからむ価値判断にかかわっているでしょう。同じように死刑制度の存廃やたとえばシリアへの軍事的介入の是非をめぐる議論には価値判断がともないます。事実判断と異なり、計算したら結果がでるというものでもなく正解を出すのは容易ではありません。
だから、こうした議論では、橋下氏ならずとも、もう価値観の問題だからこれ以上議論しても無駄と言い出す人がでがちです。しかし、この議論を政治に持ち込めばどうなるのでしょうか。まず異なる主張をするのは結果的に無意味を意味するということになるので、そもそも政党がいくつもある必要はないということに帰着せざるをえません。それならば、一つの政党だけでよい、つまり橋下氏の発言にそっていえば橋下与党だけでいいということに論理的にはならざるをえないでしょう。笑い話のようですが、与党という言葉自体もおかしなものになってしまう。なぜなら、一つの政党しかないのですから、与党も野党もない。
橋下氏がしばしば口にする「決定できる政治」という言葉には、議会制民主主義では異なる主張の政党間の議論を経るという、面倒くさい決定の過程を省略しようとする思惑が働いていると考えてもまちがいはない。ですから、彼は一方で、首相公選にふれる。有権者の選挙によって選ばれた首相に権限を集中させ、首相の意思にそって政治を動かす、大まかにいえばこんな構想を描くことができるのではと思えます。こう考えるならば、彼が今でさえも白紙委任してもらわないと政治はやれないと繰り返す発言と脈絡が通じます。
政治にたいする不信がいわば沸点に近いといえるほど高まっているから、むしろこうした極論が好まれる余地を残すのでしょう。
既存の権力のありかを告発し、それを丸裸にしひっくりかえす。その際、彼が口にするのは、民意がそうのぞんでいるのだ、と。すると、有権者は、自らとは対極にいるはずと彼らが認識するエリート、既存の権力者たちを討ちとるという、小気味よい気分に浸り拍手喝采を送る。しかし、こうして敵をしたてて告発するという一つの運動は、同時に、対立を煽りながら、次第に偏狭な政治観によってたつ結果になるのではないか。
意見の異なる学者に投げつけた「外国にでもいけばよい」(参照)とか、今回の「価値観が合わないなら去ってもらって結構だ」という発言はそれを端的に示すものといってよいと思えます。しかし、民主主義とは、異なる意見を前提とするものだということを了解するならば、その意味で、いくら住民の皆さんとか民意とかを強調したとしても、いったん選ばれたら異なる意見は排除してしまう、むしろそうして当然という考えに橋下氏が立つ以上、これをそのまま看過することはできません。
つぎにおこなわれるであろう選挙では、その意味で、あらためて民主主義に価値はあるのか、これが問われる選挙でもあるといえそうです。
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橋下市長は絶賛するが-市名売却
財政難の大阪府泉佐野市が歳入確保策として自治体名の命名権(ネーミングライツ)を売却する問題で、千代松大耕市長は22日、市役所で報道各社の取材に応じ、「市の名前には愛着があるが、時代の流れの一つだと思う。財政が厳しいなか、今までとは違ったアイデアが大事だ」と述べた。
市は6~11月に市の名称の命名権について売却先企業を募る。契約期間は1~5年を予定しているが、千代松市長は「ころころ自治体名が変わって市民が混乱してはいけない。長期間、市とつきあってもらえるかどうかが(売却先を決める)ポイントだ」と話した。
また、大阪市の橋下徹市長はこの日、市役所で報道各社に対し、命名権売却について、「本当に面白いアイデアだ。売却できれば、色んなところに企業の名前が出るわけだから、ものすごい広告価値があると思います」と評価した。
(2012年3月23日08時16分 読売新聞)
橋下市長「面白いアイデア」泉佐野の市名売却案
案の定、大阪市長が反応しました。彼が知事時代にいわばお荷物になっていた泉佐野市のことだし、結局、府はどうしようもなかったわけですからね。府自体が今、多額の財政赤字に直面していてお手上げの状態。
府知事であった手前からもこんな「妙案」を歓迎するはずです。
それよりもむしろ、こうした自治体の公共性にたいして異論をとなえるのが使命だと思っているふしがないわけではありませんから、大阪市でもより激しい提案を準備する可能性がなくはありません。府自身、下記エントリで扱ったように、すでにネーミングライツの先輩格なのですから。
橋下氏の頭には、自治体が企業の名前を宣伝すること自体に違和感をみじんも感じていないようです。「売却できれば、色んなところに企業の名前が出るわけだから、ものすごい広告価値がある」とはまさに企業側の目線でみた評価でしょう。彼は、いつのまに民間人になったのか。
もっとも彼自身がつねづね民間ではそんなことやってないと、民間活力の精神論をぶっているわけですから、さもありなんといえる発言とも思えます。
橋下氏の考えのなかには、自治体の仕事というものを極力、効率化するという名目で民間に委託しようとする姿勢が露骨です。採算にあわないものは極端にいえば切り捨てる。補助金という一定の要件をみたすものには特定せずに援助するやり方にたいしてはこれを敵視し、削減する。この路線がいよいよはっきりしてきました。
ようは、最小自治体をめざすともいえそうです。最小自治体とは、ノージックの主張した最小国家をまねて、ここで勝手につけたものですが、個人の自由への国家の介入はできるだけ市伊作なくてはならないと考えるノージックは最小国家を唱えました。およそ国家の役割を、
- 防衛、警察・裁判所による市民の安全と財産の保護
- 道路・消防など公共サービスの提供
- 社会保障
- 個人の生活と表現活動にたいする監督・監視
に要約すれば、最小国家とは1.に役割を限定したものだといえます。
橋下氏のこれまでの主張は、ノージックのいう最小国家を自治体に置き換えたものに近い。近いというのは、1.だけでなく4.も、橋下氏は自治体の役割として考えているように思えるからです。たとえば、卒業式での不起立問題や朝鮮学校への補助金の要件のとらえ方などにみられるように。
しかしながら、少なくとも橋下氏ができるだけ自治体の役割は小さいほうがよいと考えているだろうことはまちがいないでしょう。
泉佐野市が市名売却の方針をもっていることが報じられると、すぐさま応答するところは、自己責任を強調しながらそぎ落とせるものはそぎ落とし、なんでも可能ならば市場に開放するというリバタリアン的な発想の表れだとみてよいのかもしれません。
大仰にいえば、可能なかぎりなんでも売ってしまえ、こうなります。
だから、この方向は社会的無責任といわれてもしかたがないものでもあるのです。
参照;
名前売ってもうけます-泉佐野市の商い
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ナベツネと自分の独裁度を比べる橋下の欺瞞
なぜ、ナベツネはともかく谷垣まで独裁批判に乗り出したのか。
その前に、一部では橋下がナベツネの批判に沈黙している「不思議」にふれていました(参照)。批判されたら、それに倍する、あるいはもっと大量の言葉で反撃に出るのがこれまでの橋下の常なのですから、どうしてなのかと詮索するのももっともといえるのかもしれません。とるに足らないものであったり、気にするほどのことでなかったり、また関心のないものであるのなら、スルーする。ナベツネも、谷垣もそうではないから反応したわけです。
読売新聞が世論調査結果を伝えています。
読売新聞社は16~18日、近畿2府4県の有権者を対象に世論調査を行い、国政進出を目指す地域政党「大阪維新の会」(代表・橋下徹大阪市長)が近畿圏全域に浸透する勢いを見せていることが分かった。
次期衆院選の比例近畿ブロックでの投票先を聞いたところ、維新に投票すると答えた人は24%とトップを占めた。近畿圏で有権者の既成政党離れが鮮明となったことは、民主、自民の2大政党に危機感を募らせ、両党の解散戦略にも大きな影響を与えそうだ。
世論調査では、維新の国政進出に期待する人は63%に上った。ただ、橋下氏が衆院選に立候補しない方がよいと思う人は63%で、「立候補する方がよい」の28%を上回った。橋下氏は約3か月前に市長に就任したばかりという事情が大きいとみられる。
比例選近畿ブロックの投票先では、2位が自民党の18%。これに民主党10%、公明党5%、みんなの党と共産党各3%と続いた。
「維新」比例近畿トップ24%…民・自ショック
16日から18日にかけて実施されたというこの調査では、「維新」が民主、自民を上回る支持を得ていることを伝えています。この調査の数字が示すのは、論戦にもならず、まさに時間だけを浪費しているのではないかと疑わせるに等しいような政権党・民主党と野党第一党の自民党の国会でのありさまに少なくとも幻滅し、新しい何かを求める有権者の意識が反映しているとみてまちがいはないと思われます。
この傾向は以前よりメディアが再三、伝えてきたことですし、ナベツネも、谷垣も、有権者の意識がどこにあるのかに配慮しつつ、それを牽制する意味を込めたものにほかならないでしょう。谷垣は場合によっては、この新しい結果がでることをあらかじめ耳にしていたのかもしれません。
2人が橋下を批判せざるをえないのは、いずれにせよ橋下の支持基盤が自民、民主と重なり合うためにほかならず、彼の支持層がたとえば公明や共産、社民と重複するのであれば、こんな批判をするはずもないというものです。そんなことはありえず、まさに自民、民主と競合するのは避けられない以上、橋下を、そして有権者をもまた牽制する必要があったはずです。
だから谷垣は正論しかいえなかったともいえる。彼の発言は、その限りで正しい。
ただし、谷垣はもちろんナベツネにも自分の発言には責任をもってもらわないといけません。形だけの批判であってはならないのです。
自民党からすると、民主党が旧社会党の一部や民社党を吸収して成立した政党であるといっても、自民党との重なりが他党とくらべてはるかに大きいのは事実でしょう。もちろん政党が異なるのでそれなりに政策上のちがいはあるわけですが、それでも野田首相が命運をかけるという消費税増税にみられるようないわば柱となる政策にかぎっていえば、そのちがいは無きに等しいのではないでしょうか。
その意味で自民党からすると、民主党は鬼子であったといえなくもない。だから、自民党から民主党へ政権交代して3年になる今、この2つの党の停滞の中に登場した橋下は、自民・民主の鬼子ともいえるかもしれません。
ようやく橋下がナベツネ発言に応答しました(参照)。
しかし、その内容は、いつもツイッターで連発する激しい内容とはほど遠く、相手がかみつくことのないように配慮したものに思えます。
いわく、
渡辺氏の方が読売新聞社だけでなく政界も財界も野球界も牛耳る堂々たる独裁じゃないですかね!
ナベツネと橋下の独裁度を比べても何の意味もない、仕方のないことです。ナベツネの政治にたいする影響力がいかにあったとしても、彼が直接、政治の上での決断を下すわけではもちろんありません。むろん、ことあるごとに彼が暗躍してきたのを私たちは知っています。が、いいかえれば、それはあくまで決断に影響を与える(にすぎない)力をナベツネがもっているということです。
一方の橋下は首長ですから、最終的に自治体の決断にかかわるのです。提案を彼は議会にできる立場にある。だからこそ、彼が「議会のチェックがある」といったとしても、現実にはもちろん有権者の中に反対意見が強く、議会でも反対があるものでも数を力に押し切る。その際、有権者の「白紙委任」が与えられたと解釈していればこそ、独裁との批判を浴びるわけでしょう。
橋下の発言は、財界人のワンマンと独裁政治とをあえて同じ土俵で比べることで自分自身をあらかじめ免罪するという狡猾な論法です。
さらに、何より橋下は、記事によるかぎり、自分が独裁ではないということはもちろん自分のことについて言及していません。ただ、メディアや議会のチェックを受け「独裁なんてやりようがない」とのべているにすぎません。退路を周到に準備しているのです。しかし、ここで、あらためて注目したいのは有権者がまったく話に入っていないことです。たとえば、有権者のチェックを受けるとはいってはいない。これは、彼が繰り返しのべてきた白紙委任との関係で整合性を保っています。それゆえこの独裁性において彼は確信犯だといわざるをえないでしょう。
それにしても、国会の民主、自民のありさまは、熟議の欠如にたいする批判をさらに強めるものとなりそうです。岡田副総理が自民党に大連立をよびかけるという事態は、「失われつつある熟議」の裏返しの、膠着状態を打開しようとする表れであるのでしょう。しかし、さらに踏み込んで、私たちは、大連立が再三、話題になる民主・自民の政治体制、つまり二大政党制志向とは、政権交代とはいったい何だったのか、を問い直す必要があるのではないでしょうか。当時は、政権交代によって日本がかわると本気で考えていた者がこのブログ空間には少なくなかった。
民主・自民のこの2つの党の間の政策論議がはたして意味があるのか、そもそも私は根本的な違いがないと認識していてそれに懐疑的ですが、二大政党制へのかつての期待の延長に今また新しい潮流への期待があるようにもみえます。
しかし、それは、これまでの繰り返しであるか、あるいはそれ以上のマイナスの結果をもたらしかねないと思えます。橋下が自分は自民や民主とはちがう、自民でも、民主でもないといったことはありませんし、戦術であるにしろむしろ政策で一致するなら拒まないというくらいですから、まさに自民・民主の枠内にあると思えます。
何よりも、いったん有権者が選んでしまえば、有権者の思いがどこにあろうと顧みないというところにこそ、独裁の批判の核心があるといえないでしょうか。
橋下の白紙委任発言は有権者が暴走をもあらかじめ想定しておかなければならないことを意味しています。暴走が現実になる可能性は否定できないということです。むしろ、それどころか、市長就任後の状況から判断した場合、必然といってよいとも思えます。
谷垣発言の動機がどこにあるにせよ、その意味は少なくないと思います。谷垣はそれだけに責任も大きいのですが、ファシズムに反対する機運と共同を広げる上でも、とにかく、まず一人ひとりが声をあげることからしかはじまらないのですから。だから、何もしないということは、あるいは賛成することは、自分がこうしたリスクを抱え込むことはもちろん、人にもそのリスクを背負わせるということを覚悟しなければならないというわけです。
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仕事を辞め、出国しなければならない日本/大阪
しかし、自分の都合でない場合は、そうはいきません。少なくとも辞めなければなくなった時点では、辞めることをあらかじめ想定しているわけがないのですから、頭は少なくとも辞めることが確定した瞬間、パニックになるってこともあるのでは。将来のことはむろん、そうではなく、すぐ明日からの生活だってどうしようと頭をかかえるってことも少なくないはずでしょう。自分でえらんだ退職でさえ、将来への不安を抱きつつというのが率直な気持ちでしょうし、自分に帰することのできない退職ならば、いっそうその不安感が高じるというもの。
こんなふうに人をやり場のない不安に陥れる契機の一つが退職だろうと私は考えるのですが、世の中には、自分のことならともかく、そうではなく、人の出処進退にまで干渉したがる人物は少なくありません。しかも、自分が形の上では雇う側のトップである人物が、辞めてしまえと口をきわめていう。まあ、昔からワンマン社長というのは何かにつけ題材になって、たとえば映画やドラマに登場し話を面白くするのが常でもありました。でも、現実にそんなワンマンがあるということは、虚構の世界のように単なる笑いごとと一笑に付すではすまされません。
ワンマンといえば、とりあえずすぐ頭に浮かぶ一人がナベツネでしたが、最近、私の中ではその象徴がどうも橋下市長にとってかわられつつあるように思えます。
その彼が、こうのべたことが報道されました。
大阪市教委は14日、市立中学校129校で13日に行われた卒業式で、2校の教諭2人が起立をしなかったと発表した。
橋下徹市長が提案した国歌起立条例が2月末に施行されており、市教委は条例違反にあたるとして処分を検討する。
また、市教委は14日、市立学校園で今後行われる今年度の卒業式と、新年度の入学式に参加する教職員に対し、起立斉唱を求める職務命令を出すよう校園長に初めて通知した。
市教委によると、起立しなかったのは田辺中(東住吉区)の男性教諭(51)と、住吉第一中(住之江区)の女性教諭(52)。男性教諭は「拙速に決まった条例への反発で座った」、女性教諭は「君が代は国歌として認められない」と理由を話しているという。
市教委は昨年の卒業式で不起立者がいなかったため、条例施行後も職務命令を出していなかったが、不起立者が出たことを受け、一律の命令に踏み切る。
橋下市長はこの日、報道陣に、「議会で決まったルールを守れない公務員は辞めてしまえばいい。本当に腹立たしい」と話した。
(2012年3月15日07時06分 読売新聞)
橋下市長「辞めてしまえ」…女性教諭起立せず
卒業式で起立しないことをもって処分の対象にすること自体、憲法に反するし、「条例」で決めてしまうことなどあってはならないと考えてきました。
しかし、ここでふれようと思うのは、橋下氏が語ったコメントの中身です。
議会で決まったルールを守れない公務員は辞めてしまえばいい。本当に腹立たしい。
これは、憲法に反する恐れのあるいくつかの内容をはらむ発言です。
- 人には職業を選ぶ自由がある。だとすると、辞めてしまえと発するのは、選びとったものを否定するという意味で過去にさかのぼってこの自由を脅かすものではないのか。ましてや雇用主であり、かつ憲法を擁護する立場の首長、しかも弁護士でもある人物がそのような言葉を発することは、二重三重に憲法に反する疑いがあるのではないか。
- ルールそのものが仮に憲法に抵触するとしたらどうなるのか。憲法というルールを守らない内容をふくむ(条例案を)提案をした市長は、まず真っ先に辞任しなくてはならないのではないか。
このような疑念をいだくのです。
記者を前に大阪市長が一個人の態度について「腹立たしい」などと感情をあらわにするのは、これはその人物の人間性をあらわす一面だとあきらめがつく程度のものですが、しかし、感情論でこの発言を受け止めてほしくないものです。
この橋下市長はこの発言以前に、こんな発言をしたこともありました。
橋下徹大阪市長は5日、代表を務める大阪維新の会の国政進出に期待感が高まっている報道各社の世論調査結果に関し「数字は気にしているが、それに合わせる政治や行政の運営ばかりではいけない。付かず離れずだ」と慎重な姿勢を示した。
同時に「民意は擦り寄ると離れていく。だからといって無視すると離れていく。非常に難しい」と持論を展開。学者の意見より民意が重要だとの認識を示し「ポピュリズムとか衆愚政治とか平気で言う人は、民主主義の日本から出て北朝鮮にでも行ってほしい」と、市長の政治手法に反対する一部有識者を批判した。
市役所で記者団に述べた。
重要なのは民意…橋下市長 批判派へ「北朝鮮にでも行ってほしい」
これも不思議な発言です。
なぜなら、自分が好き嫌いにかかわらず日本は民主主義の世の中。だったら異なる意見があったって、それを尊重しさえすれ、異なる意見があること自体を問題にするのなら、その彼/彼女は、デモクラットではないということになってしまいます。外国にいけというのは、すなわち自分と異なる意見の者は認めないというのに等しい。
もっとも、少なくない人たちが彼は独裁とまでいっているのですから、民主主義者ではないのが当たり前、となりそうな気配がないわけではありませんが、現に彼が地方自治体の長である以上、、民主主義に徹してほしいものです。
結局、こうしてふりかえってみると、橋下氏の信条、その根本がいよいよ問われているように思います。それは現象的には、常に彼の発言が日本国憲法と衝突するということです。
もちろん、彼がこう語っているのを私は知っています。(参照)
市長は戦争放棄をうたった9条について「平和には何も労力がいらない、平和を維持するために自らは汗をかかないという趣旨だ」とする独自の解釈を披露。「同じ国民のためしんどいことをやるとか、嫌なことでも引き受けるとか、そういう教育は受けてきたことがない。教職員組合や職員が僕らに憲法9条の価値観を徹底してたたき込んできたんじゃないか」と述べ、戦後教育の在り方に否定的な見解を示した。
がれき処理問題をも憲法9条に結びつけるという点で反憲法の確信犯ともいえます。
が、首長の座にいるかぎり、憲法を無視することがあってはならない。認めるわけにはいかない、そう強く思うのです。いよいよ「維新」が国政に乗り出すことが伝えられている中で、日本国憲法をめぐる価値が今後、一つの争点になってくると考えなければなりません。
だって、仕事をやめ、日本を出ていかなければならない事態を座して待つというわけにはいきませんから。
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