私はケチだったと思う。
と言うより、欲しい物があまり無かったのかな?
自分の興味のない物に対しては、高いお金をかけたくないと思うのは普通なのかもしれない。
若い頃には、服とか、化粧品とか、そこそこお金かけてたと思うから。
それに、外食するのにはあまりこだわらなかった。
家族で行く時は、人数が多いので、あまり高級?なところには行かなかったけれど。
お金がもったいないから、家で作ろう、と思うタイプでもなかった。
お金がない時期でも、ランチに誘われれば二つ返事で出かけていった。
じゃあ、どこがケチなのか?
あれれれ…?こう書いてみると、私全然ケチじゃなくない?
でも、ケチだったと思う。
要するに、興味のあるものがあまり無かったんだと思う。
ブランドには全く興味がないし。
特に、子育てしてた頃は、服も化粧品も、全くと言っていいほど気を使わなかった。
食材も、安ければいいと思っていた。
産地とか、どうでもいいと思っていた。
貯金しようと思っても、なかなかできないのにイライラしていたのかもしれない。
かと言って、節約をがんばったかと言うと、そうでもない。
時々テレビで見るここまで節約している!!という人を紹介する番組など見ると、
ああはなりたくないと思っていた。
うまく言えないけど、心がケチだったのかなあ?
貯金して何かを買おうという目的があったわけでもない。
漠然と、家を買う時、車を買う時、お金がいると、それくらい考えていた。
実際、お金がないと、心が荒むという経験もした。
計画的にお金を使うということもできなかった。
1ヶ月の食費を決めて、その中ですまそうとかは考えていなかった。
必要な物を買っているだけなのにお金がないと、そんな風に思っていた。
スピリチュアルに触れるようになってからだ。
「お金は貯めるものじゃなくて、循環させるもの」。
「必要なお金は与えられる」。
そんな言葉が、少しずつ私の中に浸透していった。
お釣りを間違って少なく受け取ったときなど、
「私が損をすれば、誰かが得をする」。
そんな風に思えるようになった。
お金は人のために使うと、倍になって戻ってくる。
だから、人のためにお金を使う時は感謝しなければならない。
収入の1割を寄付しなさい、という言葉もある。
改まって寄付などと言うと、いろいろ考えてしまうので、
寄付用に100円玉をたくさん入れた財布を持ち歩き、募金箱があるたびにお金を入れるように心がけた。
母は、小学校を退職してからも、長年私立の幼稚園で園長をしたりしていたので、
結構な年金をもらっていたようだ。
私が子供のころは、欲しい物を買ってもらえなくて反抗したりもしたけれど、
(そう、高校生の時に、4000円くらいのスカートを買ってもらった時、めちゃくちゃ嬉しかった)
晩年は、気前が良くなって、顔を見せるたびに何か買ってくれたり、
お小遣いをくれたりしていた。
私の子供たちにも、私が買ってやれないものを買ってくれていた。
私が欲しくても買ってもらえなかったお雛様も、娘には立派なものを買ってくれた。
そんな母が、私に少しだけ自由に使えるお金を遺してくれた。
それは、我が家には関係のないお金である。(うまく表現できない)。
私たち夫婦で作った財産ではない。
だから、このお金は有効に使おうと思う。
まず、私がケチをやめることである。
でもまあ、私は母が亡くなる少し前からケチをやめてはいたのだが。
欲しい物が買えるようになった。
美容院にも、きちんと行くようになった。
いろいろと我慢させてきた子供たちにも、折りにふれ、お小遣いをあげられるようになった。
夫がちょっと高い買い物をしても、笑っていられるようになった。
行ったことのないアロママッサージも体験してみた。
お金のことでカリカリしないでいると、心が豊かになる気がする。
必要なお金は手に入るのである。
と言うより、欲しい物があまり無かったのかな?
自分の興味のない物に対しては、高いお金をかけたくないと思うのは普通なのかもしれない。
若い頃には、服とか、化粧品とか、そこそこお金かけてたと思うから。
それに、外食するのにはあまりこだわらなかった。
家族で行く時は、人数が多いので、あまり高級?なところには行かなかったけれど。
お金がもったいないから、家で作ろう、と思うタイプでもなかった。
お金がない時期でも、ランチに誘われれば二つ返事で出かけていった。
じゃあ、どこがケチなのか?
あれれれ…?こう書いてみると、私全然ケチじゃなくない?
でも、ケチだったと思う。
要するに、興味のあるものがあまり無かったんだと思う。
ブランドには全く興味がないし。
特に、子育てしてた頃は、服も化粧品も、全くと言っていいほど気を使わなかった。
食材も、安ければいいと思っていた。
産地とか、どうでもいいと思っていた。
貯金しようと思っても、なかなかできないのにイライラしていたのかもしれない。
かと言って、節約をがんばったかと言うと、そうでもない。
時々テレビで見るここまで節約している!!という人を紹介する番組など見ると、
ああはなりたくないと思っていた。
うまく言えないけど、心がケチだったのかなあ?
貯金して何かを買おうという目的があったわけでもない。
漠然と、家を買う時、車を買う時、お金がいると、それくらい考えていた。
実際、お金がないと、心が荒むという経験もした。
計画的にお金を使うということもできなかった。
1ヶ月の食費を決めて、その中ですまそうとかは考えていなかった。
必要な物を買っているだけなのにお金がないと、そんな風に思っていた。
スピリチュアルに触れるようになってからだ。
「お金は貯めるものじゃなくて、循環させるもの」。
「必要なお金は与えられる」。
そんな言葉が、少しずつ私の中に浸透していった。
お釣りを間違って少なく受け取ったときなど、
「私が損をすれば、誰かが得をする」。
そんな風に思えるようになった。
お金は人のために使うと、倍になって戻ってくる。
だから、人のためにお金を使う時は感謝しなければならない。
収入の1割を寄付しなさい、という言葉もある。
改まって寄付などと言うと、いろいろ考えてしまうので、
寄付用に100円玉をたくさん入れた財布を持ち歩き、募金箱があるたびにお金を入れるように心がけた。
母は、小学校を退職してからも、長年私立の幼稚園で園長をしたりしていたので、
結構な年金をもらっていたようだ。
私が子供のころは、欲しい物を買ってもらえなくて反抗したりもしたけれど、
(そう、高校生の時に、4000円くらいのスカートを買ってもらった時、めちゃくちゃ嬉しかった)
晩年は、気前が良くなって、顔を見せるたびに何か買ってくれたり、
お小遣いをくれたりしていた。
私の子供たちにも、私が買ってやれないものを買ってくれていた。
私が欲しくても買ってもらえなかったお雛様も、娘には立派なものを買ってくれた。
そんな母が、私に少しだけ自由に使えるお金を遺してくれた。
それは、我が家には関係のないお金である。(うまく表現できない)。
私たち夫婦で作った財産ではない。
だから、このお金は有効に使おうと思う。
まず、私がケチをやめることである。
でもまあ、私は母が亡くなる少し前からケチをやめてはいたのだが。
欲しい物が買えるようになった。
美容院にも、きちんと行くようになった。
いろいろと我慢させてきた子供たちにも、折りにふれ、お小遣いをあげられるようになった。
夫がちょっと高い買い物をしても、笑っていられるようになった。
行ったことのないアロママッサージも体験してみた。
お金のことでカリカリしないでいると、心が豊かになる気がする。
必要なお金は手に入るのである。