セピア色の映画手帳 改め キネマ歌日乗

映画の短い感想に歌を添えて  令和3年より

「道」

2012-08-13 22:57:22 | 外国映画
 「道」(「La Strada」1954年・伊)
   監督 フェデリコ・フェリーニ
   脚本 トゥリオ・ピネリ
       フェデリコ・フェリーニ
   音楽 ニーノ・ロータ
   出演 アンソニー・クイン
       ジュリエッタ・マシーナ
       リチャード・ベイスハート

 粗暴で不器用な男と純真な心を持ったオツムの弱い女が示す愛の物語。
 そんな物語の中に、さり気なく宗教を忍び込ませた一種の寓話であり神
話に近い、そんな物語だと思います。
 浄土真宗の檀家で宗教に詳しくなく、キリスト教とは無縁の僕がこの映画
を語れるか、自信はないのですが、取敢えず気が付いた事だけでも書いて
みる事にします。
 間違ってたら「ゴメンナサイ」です。

 何故、この物語が「神話」なのか。
 それは、この作品が男と女の世俗的な「愛」の形を描きながら、キリスト
教における「無償の愛」、「見棄てぬ愛」という神学的な「愛」をも描いてい
るからだとと思います。
 ジェルソミーナは言います。
 「私が居ないと、あの人は一人ぼっちなの」
 キリストに一番近い人間を表現したとされるドストエフスキーの「白痴」、
黒澤監督の「白痴」を見てジェルソミーナのヒントを得たとも言われている
フェリー二。
 人間の善良性を突き詰めて、それだけに純化したならば生活力のない
「無能の人」になり、限りない「お馬鹿」、「白痴」にしか世間からは見えな
い、キリストにしても本人自体は「無能の人」でしかない、という見方があ
ります。
 (普通の人は「右の頬を打たれたら、左の頬は」我執に捉われて出しま
せん)
 ジェルソミーナ=白痴という造形は、キリスト=白痴=ジェルソミーナに
置き換えられるんじゃないかと思います。
 ただ、フェリーニの個性からなのか救世主キリストの持つ父性より、女
神信仰、マリア信仰のような母性の方が強い気がします。
(途中、映し出される祝祭においても、人々が捧げ持ち讃えているのはキ
リストを抱いた聖母マリア様です)

 そういう視点から見れば、
 粗暴で直ぐ手が出て(戦争)、色欲、酒食に見境いがないザンパノは神
から見た人間の姿を仮託した人物なんだと思います、ただ、完全に救い
の無い存在ではない。優しさも多少なりとも持ち合わせていて、それを素
直に表現できない不器用で不完全な存在として描かれています。
 ジェルソミーナはキリスト(マリア)を仮託した存在、どんなに酷い目に合
わされても、ザンパノ(人間)を見捨てられない。
 そして、もう一人の重要人物、高所専門の若い芸人。
 この男は「天使」なんだと思います、その証拠は背中に付いてるオモチ
ャの羽根。
 「天使」は神の使いですが、通常、いたずら者とされています。
 「ザンパノ(人間)なんて棄てて、こっちへお出でよ」なんて、そそのかし
たりしますが、
 「どんなもの(ザンパノ、ジェルソミーナ)にも、存在する意味があるんだ」
と神様からの伝言を「神の子」へ、ちゃんと伝えています。
 この映画のラストはザンパノの流す涙で終わります。
 それは、「神を棄てた」或いは「神を忘れた」現代の人間、一人ぼっちの
寄る辺無き人間の姿を表しているのではないでしょうか。
 それは「神の不在」をテーマにしたI・ベルイマンに通ずるものがあるよう
な気がします。
 そんな見方が出来る、だから僕は、これは現代の「神話」ではないかと
思ってしまうのです。
 「神話」を、ただの「神話」として描かずに、映画の物語に仮託して昇華
させているのがフェリーニの非凡な所なのでしょう。

 役者陣は皆優れていますが、やはり、その中でもA・クイン、J・マシー
ナが素晴らしい、特にJ・マシーナは、この人だからこその特筆すべき存
在だったと思います。
 A・クインも、ジェルソミーナを捨てる時に見せる憐憫の表情が、粗暴な
男の中に有る僅かな人間性を見事に表現していて秀逸だったと思います。

※35年前に見た時、ザンパノが人間性の欠片も無い粗暴な男にしか見え
 ませんでした。
 見直して、そんな単純な人物ではなかった事に気付きました、見直すチャ
 ンスを頂いた事に感謝しています。

 (追記)H24.8.14
 「道」というタイトルについて、思ったこと。
 僕はイタリア語が解らないので「La Strada」が「道」を意味するのか解らな
いのですが、「La Strada」=「道」を前提にして書いてみます。
 四国八十八箇所の遍路道を歩く装束、その菅笠には「同行二人」(例え
一人で歩いていても「お大師(弘法大師=空海)さま」と一緒という意味)と
書かれています。
 「道」とは、男と女の歩いていく「道」という意味と、「同行二人」神と一緒に
歩いていくのが人間の「道」なのだ、という意味が込められているのではな
いのでしょうか。
 ふと、そんな事を思いつきました。
コメント (7)
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