クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

熊谷で鳥をテーマにした自然科学展を開催している?

2014年08月16日 | お知らせ・イベント部屋
現在、熊谷市立熊谷図書館3階美出展示室において、
「自然科学展 ~鳥・とり・トリ~」が開催されている。
熊谷では、毎年夏になると生きもの展を開催して、
今年は鳥がテーマになっているようだ。

会場に入れば、展示室を埋めるのは鳥、とり、トリ……
鳥ばかりである。
大型のものから小型の鳥まで、大小さまざまな剥製が展示されている。

大きさが圧巻なクロハゲワシは、
人間の子どもをもさらってしまえるのではないだろうか。
稀少動物のクマタカやオオコノハズク、
外来動物のインドクジャクやカビチョウなど、
テーマ事に展示ケースが分けられている。

個人的に目を引いたのはフクロウだった。
もの静かな佇まいがいい。
また、どことなく知的な風貌もいい。

ちなみに、昨年の秋に羽生市立郷土資料館で展示されていた鳥とも再会した。
ハシボソガラスやハシブトカラス、オオタカなど懐かしい。
それもそのはず。
埼玉県立自然の博物館との共催だからだ。

展示されている剥製たちはほとんど同館のものだろう。
剥製なのに妙に愛着を感じる。
友人に会うような感覚だ。

荒川に生きる魚として、ライギョの剥製も展示されている。
これも羽生の資料館に展示されていたもので、
迫力ある顔は去年と変わらない。
(変わっていたら恐い)

この自然科学展は平成26年8月31日(日)まで。
夏休みいっぱいということになる。
時間は午前9時から午後5時までの開館で、
毎週月曜日が休館となっている。
自由研究のテーマにお悩みなら、
この展示はヒントになるかもしれない。


埼玉県熊谷市
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昭和50年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月15日 | 子どもの部屋
 3月、城沼下水路工事完了
 4月、公共下水道事業に着手
 6月、日本精工羽生工場が操業開始
 11月、あだたら高原の「市立少年自然の家」が完成。

かつて羽生っ子が親しんでいた“あだたら高原少年自然の家”は、
昭和50年に完成されたものだった。
羽生っ子のぼくは小学生時代に林間学校で、
中学生のときにはスキー学校で利用した。

布団のたたみ方説明書のあった二段ベッドや、決して広くはない浴室、
カレーを食べた食堂など、もはや全てが懐かしい。
少年自然の家は山の中に建っていて、
肝試しは暗い林を通ってゴールまで行くというものだった。
小学生の間で囁かれる七不思議的なホラー話を聞いた気もするが、
何かを見たとか体験したなどということは結局耳にしなかった。

都合3回しか利用しなかった少年自然の家だが、思い入れは強い。
きっと、この家を利用した多くの羽生っ子も同じだろう。

長く親しまれてきた少年自然の家だったが、現在はない。
数年前、あだたら高原少年自然の家にかかる展示を羽生市立郷土資料館で開催した。
展示室内に設置されたメッセージボードには、
たくさんの感謝と熱い想いが書き記されており、
いまでも多くの羽生っ子の心の中には、少年自然の家が生きているのだろう。

余談だが、ツレがコンビニでウノを買ってきた。
10年以上ぶりにウノをやったのだが、
あだたら高原少年自然の家のことがふと思い浮かぶ。
林間学校とスキー学校で同級生たちと盛り上がったからだろう。
罰ゲームにくらったシッペの音とともに、
あだたら高原少年自然の家がかすんでいた。
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気ままに行く夜の江ノ島は? ―1人さんぽ―

2014年08月14日 | 歴史さんぽ部屋
8時に図書館が閉館し、何とはなしに海を見に行こうと思った。
ただの思い付きである。
高速道路に乗って南へ向かう。

ぼくの車にカーナビはない。
地図が1冊あるだけ。
計画もない。
ただ、海を見に行こう思っただけ。

首都高で15分ほど渋滞に巻き込まれたものの、
ノンストップで車を走らせる。
そして着いたのは江ノ島。
移動時間は2時間半くらいだったか。

むろん、暗い。
江ノ島も海も夜闇に包まれている。
島への道は封鎖されていて、行くことはできない。
浜辺に下りて、暗い海を眺めた。

風が強い。
潮の香りが吹き抜けていく。
波も高い。
車内にはプールで使っているゴーグルや水着があるのだが、
海に入ればそのまま彼岸まで行ってしまうだろう。

とはいえ、海の誘惑には抗えない。
膝まで海に浸かる。
暗い海から手が伸びて、思わず引き込まれそうだ。
海水は温かい。
ゴーグルが呼んでいたが、耳を貸さなかった。

夜の11時をまわっても、浜辺には人の姿がポツリポツリとあった。
みんな若い。
カップルや友だち連れがほとんどで、1人で海に佇んでいる姿はどこにもない。

20歳前後の頃、友人が茅ヶ崎に住んでいた。
何度か遊びに行き、トランクス姿で海にも入った。
女の子もいたのに何の恥じらいもなかったのは、
そこに海が広がっていたからだと思う。

彼が学校を卒業してからも深夜に茅ヶ崎へ行き、
一緒にラーメンを食べたことがある。
あの店はいまでもやっているのだろうか。
もう一度食べたかったが、どこの何という店かも知らず、
ヒントがあまりになさすぎて諦めた。

江ノ島の灯台が音もなく光っていた。
海のずっと遠くで船の明かりが瞬いている。
この地が積み重ねてきた長い歴史を想う。
波音が時の流れのように響いていた。
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盆棚に作る先祖の霊を祀る棚は? ―はにゅう詩情―

2014年08月13日 | 民俗の部屋
お盆になると“盆棚”を作る。
先祖や新仏を祀るための祭壇だ。

盆棚、精霊棚、水棚とも呼ばれていて、
仏壇の脇や床の間、座敷などに設置する。
もっとも、地域や家によって設置場所はさまざまで、
室外というところもある。

盆棚は、仏壇とは別に祭壇を設けるのだが、
ぼくの家では仏壇をそのまま利用していた。
仏壇の両脇に笹のついた竹を立て、縄を架ける。
そして、そこに色紙やほおずきをつり下げるのだ。

盆棚を改めて組み立てたり、位牌を動かしたりする手間がない。
母方の実家も同様で、お盆になっても仏壇に線香をあげている。
かつては盆棚を作っていたのかもしれないが、
少なくともぼくが物心ついたころから仏壇=盆棚の形式だった。
したがって、空になった仏壇にいるというオルスサマはいないことになる。

ところで、お寺ではお盆になると施餓鬼がある。
ぼくはお寺のない地域に住んでいたため、
施餓鬼にはとんと馴染みがない。
その単語を知ったのもかなり大きくなってからだ。

しかし、不思議なものである。
ツレの実家がお寺のため、施餓鬼棚作りの手伝いに行くのだ。
棚を作り、位牌を立て、お供えものを置き、花を飾る。
お寺バージョンの盆棚のようなものだ。

このセッティングがわりと骨が折れる。
重いものを運ぶし、形式通りに物を置かなければならない。
体力と神経を使う。

とはいえ、苦ではない。
本尊さまが見ている中で作業するのは心地よい。
それに本が多い。
大学で教鞭を執っていたという先祖がいるため、
あちこちに本があってそれが心をくすぐる。
と言っても、接点のない本ばかりなのだが……

午前中に手伝いに行って、終わるのは夕方頃だ。
お寺によっては短時間ですますところもあるだろうし、
もっと時間をかけるところもあるかもしれない。
休憩時間は読めもしない経典を手にとって眺める。
雨がシトシトと降る日にお寺で本を開けば、
落ち着いた心持ちになれるかもしれない、などと想像してしまう。

そろそろ稲の穂が見え始めた田んぼの上をトンボが飛んでいる。
先祖の霊がトンボとなって帰ってくるとも言われる。
今年も先祖が帰ってくる。
地獄の釜のフタが開き、新仏も無縁仏もやってくる。
ホラー的な意味ではなく、日本人が一番「霊」を感じる時期だと思う。

先祖はこの日を楽しみに待っているのだろうか。
暑い日が続いているとはいえ、少しずつ秋の気配を見せる空の下を、
トンボが気持ちよさそうに飛んでいる。
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旧菖蒲町に大型の前方後円墳がある? ―天王山塚―

2014年08月12日 | 考古の部屋
天王山塚は旧菖蒲町(現久喜市)にある。
全長100メートルを超す前方後円墳で、
栢間古墳群の1つだ。
6世紀後半の築造と考えられている。

古墳は樹木に覆われていて、その全体像を見るのは難しい。
が、墳頂にお堂が建っていて、登ることができる。
墳頂に立つと、大きな古墳ということがわかる。

お堂の裏が山のようにひときわ高くなっている。
これは浅間信仰によるもののようだ。
すなわち、古墳時代のものではなく、後世に新しく盛られたもの。
実際に登ってみるとかなり高い。
もし樹木がなければ辺りを眺望できるかもしれない。

6世紀後半に大型前方後円墳が造られた背景は何だったのだろう。
それだけの力を持つ豪族がいたわけだが、
さきたま古墳群に眠る者との関係はどうだったのか、想像は尽きない。
ちなみに、この天王山塚は埼玉県指定史跡となっている。


天王山塚の墳頂から
(埼玉県久喜市)


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病み上がりで食べるジャンボ餃子は?

2014年08月11日 | グルメ部屋
旧騎西町で食べたジャンボ餃子。
その店は国道122号線沿いにある。
道路の向こうには工業が林立している。
知人に教えられて足を運んだ。

ジャンボと言ってもちょっと大きいくらいなのだろう、
と思っていたらとんでもない。
ジャンボだった。
でかい。
皿からはみ出ている。
1つで通常餃子の3個分くらいはあるだろうか。

ちなみに来店したとき、ぼくは病み上がりも同然だった。
胃は本調子ではない。
食欲も控えめ。
それなのにジャンボ餃子を注文したのは、
風邪で食べられなかった反動だったのだろうか。

にんにくが効いている。
パリパリ、モチモチ、ジューシーといったところか。
2個でギブアップ。
本調子だったらもう少しいけたかもしれない。
パックに入れておみやげにした。

よく知られた店らしく、
ジャンボ餃子を注文する人は多かったし、
おみやげでいくつも持ち帰る人もいた。
名物餃子なのだろう。
過去にメディアに取り上げられたこともあったようだ。

それにしても、ぼくは中華に対して「塩分」の意識はあるが、
「油」の認識は薄い。
おみやげに持ち帰ったジャンボ餃子を見たツレは、
「体にスパルタ」と言った。
ジャンボは体が本調子のときに挑戦したい。
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昭和49年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月10日 | 子どもの部屋
昭和49年の羽生市内の主な出来事は以下のとおり。

 1月、国道122号線羽生バイパス全面開通
 4月、市消防庁舎完成
 11月、新市庁舎完成

昭和49年以前、国道122号線は羽生の町中を通っていた。
現在のプラザ通りを含む道路がそれだ。
あの道が国道でトラックがひっきりなしに走っていたのだから、
自ずと渋滞になっていたことは言うまでもない。
歩行者すれすれに車が通っていたという。

この年は、羽生市役所の新庁舎が完成している。
現在の場所に建つ庁舎だが、これ以前は中央2丁目にあった。
現在の中央公民館である。
羽生城下町の方にあったということだ。

昭和54年生まれのぼくは旧庁舎を見たことがない。
聞いた話によると、駐車場が少なくて混雑することもあったそうだ。
古写真を見ても、庁舎の周囲には住宅が密集している。
車も何台も置けなかっただろう。
昭和49年に新庁舎が完成し、現在に至っている。

ちなみに、新庁舎は白い建物だったが、耐震工事により茶色く変身した。
これも歴史の1ページだろう。
帰省した友人は新庁舎を見て驚いたらしい。
「チョコケーキみたいになってる!」と、その衝撃をメールで送っていた。
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県内3番目に誕生した女性校長が羽生にいた? ―丸木ちか―

2014年08月09日 | ふるさと人物部屋
縁あって、学校の「校長室」に入る機会がある。
校長室に共通しているのは、歴代校長の写真が飾られていることだ。
厳しそうな表情の先生もいれば、
柔和な顔をされている先生もいる。

男性校長が多い。
女性校長は皆無ではないが、
古い時代になると男性校長の写真が並んでいる。

そんな中、羽生市立新郷第二小学校は異なっている。
初代校長が女性なのだ。
“丸木ちか”という。
実は、埼玉県内で3人目に誕生した女性校長だった。

生まれは鴻茎村牛重(現埼玉県加須市)。
明治39年12月13日にこの世に生を受けた。
旧姓を坂巻という。
丸木姓に変わったのは、昭和5年に嫁いでからだ。
羽生の丸木家に嫁ぎ、「丸木ちか」となる。

話は前後するが、大正14年に埼玉県女子師範学校を卒業すると、
種足尋常高等小学校や鴻茎などの訓導として勤務した。
その中には、新郷尋常高等小学校があった。
実は、嫁ぎ先も新郷であり、羽生とは縁があったのだろう。

昭和22年、北埼玉郡地方事務所の初の女性視学委員に任命された。
女性教員の相談相手となり、
指導する立場から教育に尽力したという。
昭和29年に、羽生市立新郷第二小学校の校長に就任。
ゆえに、同校の歴代校長の写真には、
最初に丸木ちか氏が飾られている。

ちか氏の写真を見ると、知的な風貌をしている。
きっといい先生だったのだろう。
優しさと厳しさの両方が滲み出ている。
子どもから大人まで、人望の厚い先生だったのではないだろうか。

丸木ちか氏は、昭和41年に同校校長を退職。
それから約20年後の平成2年3月19日に、
教育界に献身した人生に幕を下ろした。
享年83。

亡くなってから、さほど長い歳月が流れているわけではない。
だから、丸木ちか氏を知っている人は多いだろう。
昭和54年生まれのぼくも、どこかで会っているかもしれない。

ちなみに、丸木ちか氏が“新二”の校長先生になった昭和29年は、
羽生が市制施行した記念年でもある。
校長先生に就任してから60年ということだ。
存命ならば軽く100歳を越えている。
60周年にあたり、天国で感慨深い想いに駆られているだろうか。

なお、“新二”の校歌は、丸木ちか氏が作詞している。
最後に同校の校歌を引用し、この稿を締めたい。

 1.学びの庭に すずかけが
   高くそびえる 空の下
   新郷二小 よい学校
   正しく若い芽 伸ばそうよ
   みんな手を取り 伸ばそうよ
   明るい学校 楽しいな

 2.小鳥も歌う 庭に出て
   富士のお山を 遠く見る
   新郷二小 よい学校
   きれいな心を みがこうよ
   みんな手を取り みがこうよ
   明るい学校 楽しいな

 3.大きな望み 胸に満ち
   みんなにこにこ なかよしの
   新郷二小 よい学校
   丈夫なからだを きたえよう
   みんな手を取り きたえよう
   明るい学校 楽しいな
 (「羽生市立新郷第二小学校 校歌」作詞:丸木ちか 作曲:山崎八郎)
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お寺で関宿城本丸の建物を見ることができる?

2014年08月08日 | 城・館の部屋
城跡に足を運ぶと、現在に残る堀や土塁、石垣を目にすることがある。
ただ、天守閣や整備された城跡を除き、
往古から残っている建物を見るのは難しい。

城跡に佇み、一体ここにどんな建物があったのだろうと思う。
現存する建物がないわけではない。
ただ、それは江戸期に建設されたものがほとんどだ。

実相寺(千葉県野田市)の境内にある客殿は、
関宿城本丸の一部と言われている。
建造は宝暦6年(1709)で、むろん江戸期だ。
千葉県内で本丸の建物が現存するのは、この実相寺だけだという。

城からお寺へ移築されたのは明治4年のこと。
いまとなっては貴重な「資料」である。
かつて城内に威風堂々と建っていたのだろう。

ちなみに、簗田氏が関宿城主だった戦国時代の建物は現存していない。
もしかすると材料の一部として使われ、
現在まで伝わっているものがあるかもしれないが、
管見によると見たことも聞いたこともない。

なお、実相寺は元は水海にあったのだが、
簗田氏が関宿に入った際に関宿へ移されたという。
また、同寺は江戸中期以降に関宿城主だった久世氏の菩提寺であった。
代々信仰が寄せられ、手厚く保護されてきたのだろう。
そんな実相寺に残る関宿城本丸の建物には、
いまでも城主たちの志と魂が、脈々と生きているのかもしれない。


実相寺の山門(千葉県野田市)
最初の写真は客殿


鐘楼堂
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夏に4月の騎西城を想う ―武州騎西城(あとがき)―

2014年08月07日 | 城・館の部屋
加須の郷土研究会から依頼され、
騎西城の話をしたのは4月の下旬だった。
それをきっかけにこの稿を起こしたのだが、
季節は早くも立秋を迎えようとしている。
時が経つのは早い。
年々加速していくばかりだ。

前にも触れたことだが、騎西城に対してひとしおの想いがある。
行き詰まっていた日々の中によく騎西城を目にしていたせいか、
“キャッスルきさい”へ足を運ぶと、必ずと言っていいほど当時のことが思い浮かぶ。

本来楽観的な性格だと思っているが、
不安や焦りが全くなかったと言えば嘘になる。
図書館の窓から騎西城を眺めながら、
見えない行き先に胸は重く、黒く塗りつぶされていたのだろう。
あの頃目をそらしていたものが、いまとなってはよく見える気がする。

当時から騎西城には興味があって、
本で調べたり、史跡に実際に足を運んだりした。
新しい発見はいくつもあったし、
世界が広がっていく感覚を覚えた。
探検するように自転車を走らせたことをよく覚えている。

それが何だというのだろう、という想いを抱えながらも、
騎西城の中に入っていくのは楽しかった。
不安よりも好奇心の方が勝っていたのだろう。
そうでなければ、とっくに城の外へ出ていたはずだ。
勉強したところで、それを誰かに求められていたわけではなかったのだから。

今回講師依頼を受けて、改めて騎西城を見つめ直した。
それは行き詰まっていた日々の自分との再会でもあった気がする。
資料を紐解き、騎西城周辺をテクテク歩いた。
新たに知ることもたくさんあったし、
二十代の頃には見えなかったものも目に留まったと思う。
騎西城の懐の深さも、改めて目の当たりにする思いだった。

勉強させられるのはいつも講師の方だ。
機会を与えていただいた研究会の方々に御礼申し上げたい。
加須郷土史研究会で発行している会誌にも、
騎西城の歴史について寄稿させてもらった。
紙数に限りがあるから、この稿のような長さというわけにはいかない。
まだまだ浅学者ではあるが、騎西城に少しでも恩返しができたのならば嬉しい。

なお、この研究会を通して、
騎西城に仕えた家臣の子孫にお会いすることができた。
先祖のご位牌を持参していただき、
実際に目にすることができたのは大きな収穫だった。
騎西城が結びつけてくれた縁だと思いたい。

高鳥邦仁
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“牛重”の地には牛が重なっているのか?

2014年08月06日 | 地名の部屋
牛重(うしがさね)という地名は奇妙だと思う。
その字をそのまま捉えると、
牛が重なっている絵を想像する。

のどかな光景だ。
一番下の牛は苦しそうでもなく、
何匹も縦に重なってのんびり鳴いている。
想像するのはそんな絵だ。

牛重は旧騎西町にある(現加須市)。
騎西城址から東へ行ったところの地域で、
実際に足を運んでも、牛を見ることはできない。
牛を飼っている家があるかもしれないが、
重なって鳴いていることはないだろう。

一体なぜ「牛重」という地名が付いたのだろうか。
昔は牛が仲良く重なっていたのだろうか。

韮塚一三郎氏の地名誌を紐解くと、
「ウシガサネ」の“サネ”が、
“サナ”を転じたものであるとするならば、
製鉄にちなむ地名ではないかと記している。
その傍証として、『武蔵国郡村誌』の「地味水田は赤色」の記述を引いている。
実際のところは、「不明」というのが現状だろう。

ちなみに、牛重は「中宿」という宿場があったとされ、
板碑も多く現存していることから、古くから人の住む場所だった。
騎西城の大久保時代には、足軽町が形成されていたようだ。
その地域の住人の中に、「製鉄」と関係の深い者がいたのだろうか。
牛重が製鉄にちなむ地名だとすれば、
城と何らかの関係性が疑われるかもしれない。

ちなみに、同氏は“ウチジゲ”が転じたものともう一つの説も載せている。
“ジゲ”には、自分たちの集落や地方を指す意味があるという。

いずれにせよ、詳細は不明であり、
別の言い方をすれば、もっとほかの解釈も可能ということだ。
あなたは「牛重」をどう解釈するだろうか。
ぼくは「牛重」と表記した人のセンスの素晴らしさにまず喝采を送りたい。


埼玉県加須市
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この夏、江戸時代の“街道”を旅する?

2014年08月05日 | お知らせ・イベント部屋
現在、埼玉県立歴史と民俗の博物館において、
“江戸の街道 ~絵図でたどる宿場と関所~”が開催されている。
その副題のとおり、現代に残された絵図を見ながら、
江戸時代の街道や宿場の様子を見ようというもの。

栗橋関所、関宿関所、川俣関所の様子なども見られる。
羽生関係で言うと、川俣関所の番士が使用した鎖帷子や陣笠、脇差などが展示されている。
また同関所で使用された通行手形や高札もあり、
普段見ることの出来ない資料が見ることができてチャンスである。

展示室入り口には、館長による高札が掲げられている。
その高札台をよく見てみると、
羽生市立郷土資料館から借用されたものということがわかるだろう。
レプリカではあるが、ちょっとした演出である。

展示では、今回初公開となる街道絵図なんかもある。
基本的には将軍献上本と道中奉行所本が並んで展示されていて、
その違いを見比べられるようになっている。

個人的に目に留まったのは、船橋の虎綱である。
利根川を渡るとき、栗橋宿と中田宿の間に船橋が架けられたことはよく知られている。
そのとき使った虎綱の一部が展示されていて、妙に生々しい。
利根川の水に浸りながら、
船橋が流されないよう踏ん張っていたのだろう。
虎綱から雄大なる利根川の流れが聞こえてきそうな気がする。

江戸の街道を旅した気分になれる「江戸の街道~絵図でたどる宿場と関所~」は、
8月31日(日)まで開催している。
午前9時~午後5時までの開館で、休館日は月曜となっている。
夏休みの宿題のテーマとして選ぶことも可能だろう。
この夏遠くへ行けない人は、
展示から江戸時代を旅してもいいかもしれない。


埼玉県立歴史と民俗の博物館
(埼玉県さいたま市大宮区)
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昭和48年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月04日 | 子どもの部屋
 4月、市立准看護学校が完成
 5月、第六保育所が開所
 8月、市民プールがオープン

いまの子どもたちは、「市民プール」と言ってもピンとこないと思う。
かつて羽生市内にも市民プールが存在した。
ぼくが初めて行ったのは小学生のとき。
炎天下の中で食べるカップラーメンが妙に美味しかったのを覚えている。

最後に市民プールへ行ったのは中学生のときだ。
それからしばらくして閉鎖となり、現在は「プール」の「プ」の字もない。
広場になっていて、かつてそこで泳いだことが嘘のようだ。

大人になった羽生っ子で、市民プール跡を通り過ぎると、
郷愁に駆られる人も少なくないと思う。
そこで遊んだ記憶が甦ってくるだろう。
長く会っていない人の顔も思い浮かんでくるかもしれない。
いまはただの広場でしかない市民プール跡だが、
たくさんの思い出が眠っている。
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関宿で出会った墓石のわきからこちらを見る目? ―1人さんぽ―

2014年08月03日 | 歴史さんぽ部屋
関宿城址近くのお寺で出会ったネコ。
出迎えてくれたのかな……。
でも、目が警戒の色に光っている。

ネコに警戒されないことはない。
すぐに仲良くなってしまう人が羨ましい。
いつかそのコツがわかる日が来るのかな……
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羽生で“キャラクターミュージアム”がオープンする?

2014年08月02日 | ムジナもんの部屋
今日8月2日より、羽生市において“キャラクターミュージアム”がオープンする。
場所は羽生市民プラザ2階。
画期的である。
さすが、昨年のゆるキャラさみっとでギネス記録を出した市だけある。

キャラクターミュージアムは、
羽生のムジナもんやいがまんちゃんたちをはじめ、
全国のゆるキャラたちも紹介されている。
ミュージアム内にはムジナもん神社も鎮座しているし、
ギネス登録の文書も展示されている。
公共施設の一角だが、ゆるキャラ好きには時間を忘れる空間だと思う。

8月2日は、ミュージアムオープンを記念してセレモニーが開催される。
午前10時から、市民プラザ2階ギャラリーにおいて、
パイプル君やさのまる、ムートくんなどが駆けつける。
暑い日が続いているが、
新たな歴史の1ページを目にしてはいかがだろうか。

http://www.city.hanyu.lg.jp/mujinamon/index.html
羽生市ホームページ内
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