クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

関宿城を攻略するために築かれた砦は? ―山王山砦―

2014年08月24日 | 城・館の部屋
北条氏康は何がなんでも関宿城を掌握したかった。
水運交通の要衝地に建ち、一国を得るに等しいと考えていた。

氏康が実際に関宿城を攻めたのは永禄8年のことである。
嫡子の氏政と共に出撃。
しかし、関宿城主簗田氏の巧妙な作戦や野伏たちによって翻弄されてしまう。
やむを得ず撤退を余儀なくされたが、
氏康は諦めることができなかった。

そこで関宿城を攻略すべく、氏康はいくつかの策を出す。
まず、三男の氏照を関宿城攻略の担当に任じた。
そして、その拠点として栗橋城に入城させる。
栗橋城は野田氏が本拠としていたが、
古河公方権力を利用し、明け渡させたのである。

また、攻撃のための砦を築いた。
その一つを山王山砦という。
まさに関宿城攻略のための砦である。
兵粮弾薬などが送り込まれ、
関宿城を攻め落とす足がかりとなったのだろう。
簗田氏は厳しい戦いを強いられたことになる。

ところが、異変が起きる。
後北条氏と同盟を組んでいた武田信玄が、
突如軍役違反を犯し関係を破棄してきたのだ。
それまでの流れを大きく変える事件だった。

氏康は秘策に打って出る。
激しく敵対していた上杉謙信と同盟を結んだのだ。
信玄の強さは、同盟者だっただけによく知っている。
信玄に本拠地を攻められるより、
多少の犠牲を払ってでも謙信の武に頼りたかったのだろう。

このとき、関宿城攻略のために築かれた山王山砦は破却されてしまう。
謙信と同盟を組んだことにより、
関宿城を落とす必要はなくなったからだ。
ただし、関宿城を攻めていた氏照は、
同盟が結ばれるぎりぎりまで砦を壊さず、攻撃を続けていた。
これは、氏康とは別の手筋で同盟を進めていた氏照の独自の政治的意図であったと、
儘田めぐみ氏は指摘している(※)。

かくして、山王山砦は短期間の内にこの世から姿を消した。
その後、攻略のための砦が築かれることはなく、
関宿城が開城となったのは天正2年(1574)のことだった。
氏康はすでにそのときこの世の人ではなく、
関宿城攻略をその目で見ることはなかった。

砦は破却されたが、その一部は残ったらしい。
茨城県五霞町の東昌寺の境内には、土塁と堀の一部が現存している。
かつてここに北条方の兵が詰め、
関宿城攻略に士気を高ぶらせていたのだろう。
北条氏照自身がその場に立ち、関宿城方面を眺めたことも想像に難くない。

砦跡に建つお寺は江戸時代に移ってきたという。
お寺の周囲は田畑が広がり、民家がポツリポツリ建っている。
田んぼでエサを探す白サギがのどかさを増す。

いま、山王山砦跡に立ち、関宿城方面を望んでみる。
しかし、川の高い土手が視界を遮り、
その手前の田んぼで作業をする老爺が見えるだけだった。


茨城県猿島郡五霞町







※儘田めぐみ「越相同盟交渉における北条氏照の役割の再検討―第二次関宿合戦との関係から―」(「戦国史研究」第65号、2013年)

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