クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

昭和52年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月30日 | 子どもの部屋
昭和52年の羽生の主な出来事は以下の通り。

 2月、ムジナモの自生地「宝蔵寺沼」の底ざらいを実施
 3月、葛西用水路に架かる「あずま橋」が完成
 4月、羽生南小学校が開校
 7月、斎場、農村センターが完成

南小学校は羽生市南6丁目にある。
裏に宮田落としが流れ、周囲は住宅街となっている。
何かと賑やかな場所だが、かつては田畑が広がっていたらしい。
冬には富士山が望めたというのだから、
何もなかったのだろう。

「みなみちゃん」なるマスコットキャラクターも登場し、
その着ぐるみが募金で完成しているのは、時代を象徴しているかもしれない。
中学校にあがると、南小出身の同級生がたくさんいて、
一緒に校内へ遊びに行ったことも何度かある。
学校の近くには駄菓子屋さんがあって、
その同級生たちと買い食いをもした。

学校横の公園で遊んでいたら、
5、6台倒れているぼくらの自転車を不審に思って、
警官が職務質問をしてきたこともあった。
いま思えば人生初の職質だったと思う。
町の治安は守られている。
そこに学校があるから、地域の人たちも温かく見守っている。
一面の田園風景だった頃にはない空気に包まれているのだろう。

葛西用水路に架かる「あずま橋」は歩行者専用だ。
車は通ることができない。
場所は“旭橋”と“城橋”の間。
葛西用水路沿いの桜並木がちょうど途切れるところである。

何度この橋を渡ったかわからない。
用水路の土手で橋の両方が坂道になっているから、
ちょっと勢いをつけなければならない。
現在も多くの人たちに使われている橋だろう。

ちなみに、あずま橋の周辺も住宅街になっている。
この橋から北東の方角に羽生城が存在した。
郷土史家の冨田勝治氏は言う。
この橋の辺りが、本城と外曲輪を結ぶ連絡口だったのではないか、と。

葛西用水路の掘削は万治3年(1660)のこと。
羽生城があった時代には存在していないから、
もちろんあずま橋の「あ」の字もない。
住宅街も葛西用水路もなく、堀と曲輪で構成された羽生城があった時代は、
いまとは全く別の景観が広がっていたに違いない。

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