上杉憲政は上杉謙信に関東管領職を譲り、
失地回復を夢見た人物だった。
永禄3年(1560)8月、謙信に奉じられて関東へ進攻。
相模の後北条氏を一気に叩くはずだった。
しかし、11万5千余騎の大軍をもってしても、
小田原城が落ちることはなかった。
城に籠もる北条氏康は智将と名高い人物。
憲政は、天文15年(1546)の河越合戦でこの氏康にこっぴどくやられている。
小田原包囲網を解いた謙信は、鶴岡八幡宮へ赴く。
そして、この地で関東管領就任式が執り行われた。
忍城主成田長泰が馬から下りず、これを打擲するという騒動があったが、
若い謙信にとって人生の腫れ舞台であり、
迅速に関東を経略し、幕府をも再興する夢と希望に満ちあふれていただろう。
しかし、物事はそう簡単には進まない。
古河公方足利藤氏と共に古河城に入った憲政だったが、
情勢はすぐに不安定になり、退去せざるを得なかった。
謙信の関東における勢力も年を追うごとに悪化していく。
永禄9年の臼井城攻めに失敗すると、
関東諸将はこぞって謙信から離反。
前年には将軍足利義輝が殺害され、
謙信が古河公方に擁立した足利藤氏もこの世を去っていた。
謙信の勢力挽回はもはや望めないほどの打撃を受けたのである。
武田信玄のひょんな盟約違反があって北条と手を結ぶことになったが、
「古河公方―関東管領」体制の論理は崩れ、
失地回復のため関東を経略するという大義名分はその意味を変えざるを得なかった。
上杉憲政は越後にあって、
そんな謙信をどのような想いで見つめていたのだろう。
人はやがて老いる。
軍神と呼ばれた謙信も年を重ね、49歳になっていた。
天正6年(1578)、謙信は春日山城内において倒れ、
そのまま帰らぬ人となった。
関東出陣の陣触れを出した矢先の死だった。
謙信の死後、後継者争い(御館の乱)が勃発したことはよく知られている。
その戦さの最中、上杉憲政は命を落としている。
景勝と景虎の仲介に春日山へ向かったところ、
殺されてしまう。
すると、不思議なことが起こったと古書は語る。
憲政が命を落としたところから霧が立ちこめ、
国中が闇になったという。
また、別の古書では、
たちこめた霧で朧月のようになったと伝えている。
この霧は、宿願を果たせなかった憲政の無念さそのものだったのだろうか。
憲政とて、このような最期を遂げるとは思っていなかっただろう。
あるいは、憲政の宿願が霧散したことを象徴していたのかもしれない。
御館の乱は景勝が勝利。
西国からは織田信長が急激に勢力を伸長している。
信長の目線の先にあるのは「天下」。
霧が流れ去ったあと、
時代は新しき世に向けて動き始めるのだった。
失地回復を夢見た人物だった。
永禄3年(1560)8月、謙信に奉じられて関東へ進攻。
相模の後北条氏を一気に叩くはずだった。
しかし、11万5千余騎の大軍をもってしても、
小田原城が落ちることはなかった。
城に籠もる北条氏康は智将と名高い人物。
憲政は、天文15年(1546)の河越合戦でこの氏康にこっぴどくやられている。
小田原包囲網を解いた謙信は、鶴岡八幡宮へ赴く。
そして、この地で関東管領就任式が執り行われた。
忍城主成田長泰が馬から下りず、これを打擲するという騒動があったが、
若い謙信にとって人生の腫れ舞台であり、
迅速に関東を経略し、幕府をも再興する夢と希望に満ちあふれていただろう。
しかし、物事はそう簡単には進まない。
古河公方足利藤氏と共に古河城に入った憲政だったが、
情勢はすぐに不安定になり、退去せざるを得なかった。
謙信の関東における勢力も年を追うごとに悪化していく。
永禄9年の臼井城攻めに失敗すると、
関東諸将はこぞって謙信から離反。
前年には将軍足利義輝が殺害され、
謙信が古河公方に擁立した足利藤氏もこの世を去っていた。
謙信の勢力挽回はもはや望めないほどの打撃を受けたのである。
武田信玄のひょんな盟約違反があって北条と手を結ぶことになったが、
「古河公方―関東管領」体制の論理は崩れ、
失地回復のため関東を経略するという大義名分はその意味を変えざるを得なかった。
上杉憲政は越後にあって、
そんな謙信をどのような想いで見つめていたのだろう。
人はやがて老いる。
軍神と呼ばれた謙信も年を重ね、49歳になっていた。
天正6年(1578)、謙信は春日山城内において倒れ、
そのまま帰らぬ人となった。
関東出陣の陣触れを出した矢先の死だった。
謙信の死後、後継者争い(御館の乱)が勃発したことはよく知られている。
その戦さの最中、上杉憲政は命を落としている。
景勝と景虎の仲介に春日山へ向かったところ、
殺されてしまう。
すると、不思議なことが起こったと古書は語る。
憲政が命を落としたところから霧が立ちこめ、
国中が闇になったという。
また、別の古書では、
たちこめた霧で朧月のようになったと伝えている。
この霧は、宿願を果たせなかった憲政の無念さそのものだったのだろうか。
憲政とて、このような最期を遂げるとは思っていなかっただろう。
あるいは、憲政の宿願が霧散したことを象徴していたのかもしれない。
御館の乱は景勝が勝利。
西国からは織田信長が急激に勢力を伸長している。
信長の目線の先にあるのは「天下」。
霧が流れ去ったあと、
時代は新しき世に向けて動き始めるのだった。