上杉謙信の目に羽生城はどう映っただろう。
孤立無援に追い込まれながらも、
羽生城将たちは謙信の救援を待っていた。
謙信が駆けつけたところで、
全てが改善されるわけではない。
後北条氏に属せば、自ずと忍城主成田氏の支配を受けることになる。
それは羽生城将らにとって、
落城も同然だったのかもしれない。
城を枕に最後まで戦い続けるつもりだったのだろうか?
関東で反北条の姿勢をとる武将はいるものの、
かつて11万5千余騎で小田原城を取り囲んだ勢いはもはやない。
謙信が帰国すれば、羽生落城は目に見えることだった。
みすみす敵に奪われるのを不憫に思った謙信は決断する。
城を破却し、羽生城兵を引き取ろうと……
かくして羽生城は自落する。
広田・木戸氏の羽生城時代の終焉である。
謙信は蘆名盛氏に宛てて次のように書き送った(「名将之消息録」)。
武州・総州境羽生之地、謙信守手前ハ、内ゝ雖為可申付由、
能ゝ見届候、第一浅地自味方百里内無之候条、守手前者、
不見功所差置、徒ニ可為滅亡儀不便候間、従類千余人引取、
羽生之地者越衆諸勢申付令破却
城の破却は「越衆諸勢」が行った。
ときに天正2年(1574)閏11月中旬のことであった。
それを目にした羽生勢はどう思ったことだろう。
このとき、羽生城主“木戸忠朝”は生きる望みを失って、
自害したとも考えられている。
嫡男の重朝もそのあとを追ったのかもしれない。
同じ頃、関宿城も後北条氏の手に渡っている。
北条氏にとって宿願の関宿陥落だった。
謙信と北条の対決は、これによりひとつの区切りがつく。
羽生と関宿の陥落は、北条氏政にとって余程嬉しかったのだろう。
輝虎敗北、剰羽生自落并関宿も明日出城ニ落着、無残所遂本意候、
御大慶察存候
と、小田氏治に書き送っている(「賜蘆文庫文書」)。
古河公方“足利義氏”には、
諸将から謙信の敗北を祝う品が届いていた。
ちなみに、関宿城主“簗田氏”は北条に属し、
水海城に移っている。
(続く)
孤立無援に追い込まれながらも、
羽生城将たちは謙信の救援を待っていた。
謙信が駆けつけたところで、
全てが改善されるわけではない。
後北条氏に属せば、自ずと忍城主成田氏の支配を受けることになる。
それは羽生城将らにとって、
落城も同然だったのかもしれない。
城を枕に最後まで戦い続けるつもりだったのだろうか?
関東で反北条の姿勢をとる武将はいるものの、
かつて11万5千余騎で小田原城を取り囲んだ勢いはもはやない。
謙信が帰国すれば、羽生落城は目に見えることだった。
みすみす敵に奪われるのを不憫に思った謙信は決断する。
城を破却し、羽生城兵を引き取ろうと……
かくして羽生城は自落する。
広田・木戸氏の羽生城時代の終焉である。
謙信は蘆名盛氏に宛てて次のように書き送った(「名将之消息録」)。
武州・総州境羽生之地、謙信守手前ハ、内ゝ雖為可申付由、
能ゝ見届候、第一浅地自味方百里内無之候条、守手前者、
不見功所差置、徒ニ可為滅亡儀不便候間、従類千余人引取、
羽生之地者越衆諸勢申付令破却
城の破却は「越衆諸勢」が行った。
ときに天正2年(1574)閏11月中旬のことであった。
それを目にした羽生勢はどう思ったことだろう。
このとき、羽生城主“木戸忠朝”は生きる望みを失って、
自害したとも考えられている。
嫡男の重朝もそのあとを追ったのかもしれない。
同じ頃、関宿城も後北条氏の手に渡っている。
北条氏にとって宿願の関宿陥落だった。
謙信と北条の対決は、これによりひとつの区切りがつく。
羽生と関宿の陥落は、北条氏政にとって余程嬉しかったのだろう。
輝虎敗北、剰羽生自落并関宿も明日出城ニ落着、無残所遂本意候、
御大慶察存候
と、小田氏治に書き送っている(「賜蘆文庫文書」)。
古河公方“足利義氏”には、
諸将から謙信の敗北を祝う品が届いていた。
ちなみに、関宿城主“簗田氏”は北条に属し、
水海城に移っている。
(続く)