亡き“冨田勝治”先生が若い頃に愛読していた1冊に、
『上杉謙信傳』がある。
著書は布施秀治。
大正6年に発行され、
その奥付を見ると定価は「貳圓五拾銭」である。
具体的な史料を用いて、
上杉謙信像とその軌跡を浮かび上がらせている。
羽生城の研究を始めた頃、
冨田先生は神田の古本街で『上杉謙信傳』を買い求めたらしい。
謙信を調べることで、
羽生城史の手掛かりを探していた。
管見によると、冨田先生以前に羽生城に強い関心を持つ人はいなかったと思う、
医師であり郷土史家であった“伊藤道斎”は、
その著書の中に羽生城について触れているものもあるが、
本格的に調査をしていたわけではない。
冨田先生の先輩にあたる“柳八重”も、
羽生城に深く足を踏み入れることはなかった。
だから言ってみれば、羽生城の史料がどこにあって、
その内容がどうであるのか誰も知らなかったのだ。
その史料探しを本格的に始めたのが冨田先生だった。
知られざる城史の“発見”は、面白くて仕方なかっただろう。
もとより、羽生城は武田信玄の属城と信じられていた時代である。
史料の発見によって、伝承が次々に崩れていくのは、
快感に近かったかもしれない。
『上杉謙信傳』も、そんな若き冨田先生に刺激を与えた本だった。
例えば、同書には天正2年(1574)の上杉謙信の羽生城救援について、
次のように記している。
四月、羽生城の急を聞き、出でゝ利根川を挟んで陣し、先兵兵糧弾薬を城中に送らんとせしに、佐藤筑前地形探知を誤りし為に、氏政の兵に妨げられ、大に利を失ふ。謙信其武名を傷くるを愧ぢ、深く之を憾む。時に河水漲溢徒渉決戦すること能はず。因て大輪に屯し、空しく敵と対峙するのみ。既にして氏政退去せしかば、謙信来秋の決戦を期し、羽生城将木戸忠朝・菅原左衛門佐等に戦況を報じて、退陣せり。
確かにこんな文章を発見したら、
心はきっとワクワクする。
「名調子なので、思わず羽生城に魅了されてしまった」と、
冨田先生は後年「羽生城との出合い」の中で記しているが、
その気持ちはわかる気がする。
『越佐史料』などで知られざる羽生城史が浮かび上がり、
冨田先生は23歳で論文を書いた。
そして「埼玉史談」に掲載。
冨田先生が新しく唱えた説は、『埼玉縣史』に採用された。
そのことが何にも増して嬉しかったらしい。
以後、史料探しは99歳で亡くなるまで続いた。
※画像は大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信を演じたGackt
『上杉謙信傳』がある。
著書は布施秀治。
大正6年に発行され、
その奥付を見ると定価は「貳圓五拾銭」である。
具体的な史料を用いて、
上杉謙信像とその軌跡を浮かび上がらせている。
羽生城の研究を始めた頃、
冨田先生は神田の古本街で『上杉謙信傳』を買い求めたらしい。
謙信を調べることで、
羽生城史の手掛かりを探していた。
管見によると、冨田先生以前に羽生城に強い関心を持つ人はいなかったと思う、
医師であり郷土史家であった“伊藤道斎”は、
その著書の中に羽生城について触れているものもあるが、
本格的に調査をしていたわけではない。
冨田先生の先輩にあたる“柳八重”も、
羽生城に深く足を踏み入れることはなかった。
だから言ってみれば、羽生城の史料がどこにあって、
その内容がどうであるのか誰も知らなかったのだ。
その史料探しを本格的に始めたのが冨田先生だった。
知られざる城史の“発見”は、面白くて仕方なかっただろう。
もとより、羽生城は武田信玄の属城と信じられていた時代である。
史料の発見によって、伝承が次々に崩れていくのは、
快感に近かったかもしれない。
『上杉謙信傳』も、そんな若き冨田先生に刺激を与えた本だった。
例えば、同書には天正2年(1574)の上杉謙信の羽生城救援について、
次のように記している。
四月、羽生城の急を聞き、出でゝ利根川を挟んで陣し、先兵兵糧弾薬を城中に送らんとせしに、佐藤筑前地形探知を誤りし為に、氏政の兵に妨げられ、大に利を失ふ。謙信其武名を傷くるを愧ぢ、深く之を憾む。時に河水漲溢徒渉決戦すること能はず。因て大輪に屯し、空しく敵と対峙するのみ。既にして氏政退去せしかば、謙信来秋の決戦を期し、羽生城将木戸忠朝・菅原左衛門佐等に戦況を報じて、退陣せり。
確かにこんな文章を発見したら、
心はきっとワクワクする。
「名調子なので、思わず羽生城に魅了されてしまった」と、
冨田先生は後年「羽生城との出合い」の中で記しているが、
その気持ちはわかる気がする。
『越佐史料』などで知られざる羽生城史が浮かび上がり、
冨田先生は23歳で論文を書いた。
そして「埼玉史談」に掲載。
冨田先生が新しく唱えた説は、『埼玉縣史』に採用された。
そのことが何にも増して嬉しかったらしい。
以後、史料探しは99歳で亡くなるまで続いた。
※画像は大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信を演じたGackt