クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(おまけ6) ―上杉謙信傳―

2008年09月11日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
亡き“冨田勝治”先生が若い頃に愛読していた1冊に、
『上杉謙信傳』がある。
著書は布施秀治。
大正6年に発行され、
その奥付を見ると定価は「貳圓五拾銭」である。

具体的な史料を用いて、
上杉謙信像とその軌跡を浮かび上がらせている。
羽生城の研究を始めた頃、
冨田先生は神田の古本街で『上杉謙信傳』を買い求めたらしい。
謙信を調べることで、
羽生城史の手掛かりを探していた。

管見によると、冨田先生以前に羽生城に強い関心を持つ人はいなかったと思う、
医師であり郷土史家であった“伊藤道斎”は、
その著書の中に羽生城について触れているものもあるが、
本格的に調査をしていたわけではない。
冨田先生の先輩にあたる“柳八重”も、
羽生城に深く足を踏み入れることはなかった。

だから言ってみれば、羽生城の史料がどこにあって、
その内容がどうであるのか誰も知らなかったのだ。
その史料探しを本格的に始めたのが冨田先生だった。
知られざる城史の“発見”は、面白くて仕方なかっただろう。

もとより、羽生城は武田信玄の属城と信じられていた時代である。
史料の発見によって、伝承が次々に崩れていくのは、
快感に近かったかもしれない。
『上杉謙信傳』も、そんな若き冨田先生に刺激を与えた本だった。
例えば、同書には天正2年(1574)の上杉謙信の羽生城救援について、
次のように記している。

 四月、羽生城の急を聞き、出でゝ利根川を挟んで陣し、先兵兵糧弾薬を城中に送らんとせしに、佐藤筑前地形探知を誤りし為に、氏政の兵に妨げられ、大に利を失ふ。謙信其武名を傷くるを愧ぢ、深く之を憾む。時に河水漲溢徒渉決戦すること能はず。因て大輪に屯し、空しく敵と対峙するのみ。既にして氏政退去せしかば、謙信来秋の決戦を期し、羽生城将木戸忠朝・菅原左衛門佐等に戦況を報じて、退陣せり。

確かにこんな文章を発見したら、
心はきっとワクワクする。
「名調子なので、思わず羽生城に魅了されてしまった」と、
冨田先生は後年「羽生城との出合い」の中で記しているが、
その気持ちはわかる気がする。

『越佐史料』などで知られざる羽生城史が浮かび上がり、
冨田先生は23歳で論文を書いた。
そして「埼玉史談」に掲載。
冨田先生が新しく唱えた説は、『埼玉縣史』に採用された。
そのことが何にも増して嬉しかったらしい。
以後、史料探しは99歳で亡くなるまで続いた。

※画像は大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信を演じたGackt
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9月11日生まれの人物は?(公衆電話の日・警察相談の日)

2008年09月11日 | 誕生日部屋
9月11日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

後一條天皇(敦成親王) (68代天皇)
後白河天皇(雅仁親王) (77代天皇)
秋篠宮紀子妃 (皇族・秋篠宮文仁親王妃)
O.ヘンリー (作家)
D.H.ロレンス (作家)
サトウサンペイ (漫画家)
泉ピン子 (俳優)
岩瀬惠子 (アナウンサー)
川島透 (映画監督)
涼風真世 (俳優)
倉田てつを (俳優)
虻川美穂子 (タレント)
中村竜 (俳優)
吉田知加 (シンガーソングライター)
安田章大 (歌手(関ジャニ8))

この日起きた事件は以下のとおりです。

小野妹子、留学生・留学僧とともに再び隋へ行く(608)
幕府派遣の留学生榎本武楊らがオランダに向け出航 (1862)
公衆電話初設置。ゆえにこの日は“公衆電話の日”(1900)
大阪市立美術館開館(1936)
後楽園球場開場(1937)
GHQが東条英機ら39人の逮捕を指令(1945)
俳優夏目雅子死去(1985)
ロス疑惑の三浦和義逮捕(1985)
米国同時多発テロ事件(2001)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“ドラマチックな選択を迫られる人”とのことです。
誕生花は「唐綿」(とうわた)、花言葉は「心がわり」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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