クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(58) ―木戸忠朝の亡骸Ⅳ―

2008年09月30日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
戦死、あるいは自害して果てたと考えられる“木戸忠朝”だが、
ひとつ気になる史料がある。
それは羽生城主の“病死”を伝える「斎藤家由緒書」だ。

同書によると、斎藤氏は上杉謙信の家臣であった。
羽生城の情勢が厳しさを増していた元亀天正の頃に、
羽生へ派遣されたという。
ところが、羽生城主は「病死」。
軍兵はことごとく退散したと記されている。

元亀天正年間の羽生城主は“木戸忠朝”である。
宝永4年(1707)に記されたこの由緒書には、
戦死や自害のことは一切出てきていない。
作成者が何を根拠に「病死」と記したのかは定かではないが、
あるいはそう言い伝えられてきたのかもしれない。

木戸忠朝の出生年月日は不明である。
初めて歴史にその名を現すのは天文5年(1536)で、
羽生領総鎮守の小松神社に三宝荒神の御正体を寄進したのが最初であった。
逆に、忠朝が歴史から名を消すのは、
天正2年(1574)7月以降である。

仮に、天文5年当時に20歳だったとすれば、
天正2年には58歳ということになる。
忠朝の二男“元斎”が永禄4年(1561)で13歳であったというから、
天文5年当時に20歳だったとしても大きなズレはないだろう。

したがって、天正2年当時忠朝は高齢であり、
「病死」したとしても不自然ではない。
城主でありながら、上杉謙信からの書状に連名で記されているのは、
このあたりに理由があるのかもしれない。

忠朝が病死したとして、
その後羽生城の指揮を執ったのは、
菅原為繁と木戸重朝だったのだろう。
ただ、重朝は忠朝と同様に天正2年7月以降から名前を見せなくなる。
本丸において自殺と記す「木戸氏系図」のように、
戦死あるいは自害したのは重朝だったのではないだろうか。

さらに想像を膨らませて、忠朝は「病死」ではなく「毒殺」であったとしたら、
状況はにわかに変わってくる。
毒を盛った者は誰なのか?
敵の放った忍びや間諜ではなく、
身内の犯行だとすると……

いずれにせよ、推測の域は出ない。
忠朝がどのように没し、どこに葬られたのかは未だ謎と言わざるを得ない。
いつか別の史料が現れて、解明されるときは来るのだろうか。
戦国末期に羽生城に生きた男は、
一向に饒舌に語ってくれない。
(続く)

※画像は源長寺の本堂
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9月30日生まれの人物は?(クレーンの日・くるみの日)

2008年09月30日 | 誕生日部屋
9月30日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

天野貞祐 (哲学者)
隆慶一郎 (作家)
広瀬正 (SF作家)
トルーマン・カポーティ (作家)
ウィーゼル (作家)
並木路子 (歌手『リンゴの唄』)
星野哲郎 (作詞家『三百六十五歩のマーチ』)
五木寛之 (作家『青春の門』)
石原慎太郎 (東京都知事・作家)
長嶋有 (作家)
高口里純 (漫画家『花のあすか組』)
マーク・ボラン (ミュージシャン(T-REX))
マルチナ・ヒンギス (テニス)
小山ちれ (卓球)
斎藤こず恵 (ブルース歌手・俳優)
早瀬美里 (俳優)
小島麻由美 (俳優)
河野由佳 (俳優)
東山紀之 (俳優・歌手))

この日起きた事件は以下のとおりです。

遣唐使が菅原道真によって中止(894)
ペニシリン発見(1928)
大日本バスケット協会創立(1930)
毛沢東が中華人民共和国の初代主席に就任(1949)
ジェームス・ディーン死去(1955)
天皇・皇后が初の訪米へ出発(1975)
山岡荘八死去(1978)
プロ野球阪急のブーマー選手が外国人では初の三冠王を獲得(1984)
韓国とソ連が国交を樹立させる(1990)
茨城県東海村のウラン加工施設で放射能漏れ。日本初の臨界事故(1999)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“燦然と光り輝く真実を追究する人”とのことです。
誕生花は「嵯峨菊」(さがぎく)、花言葉は「高潔」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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