クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(48) ―上杉謙信の関東出陣―

2008年09月14日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正2年(1574)4月、羽生城救援に失敗した上杉謙信が、
再び関東に出陣するのは10月に入ってからだった。
重い腰をようやく上げたという感は否めない。

その間、羽生城との連絡は続いていた。
謙信も孤立無援状態の羽生城を気にかけていたらしい。
同年6月、厩橋まで使者を出している。

羽生からは“小安隠岐守”という使者が、
謙信のもとへ向かっていた。
情報を伝えるのと共に、出陣要請をしたのだろう。
これに対し、謙信は油断ないよう羽生の地を守ることを伝えた。
そして、羽生城将らの忠信は、
筆先で書き表すことはできないと述べている(『歴代古案』)

同年7月、北条氏政が厩橋へ出陣したとの情報を聞いた謙信は、
先発隊を関東へ向かわせた。
そしてもし氏政が上州に陣を取るのであれば、
この春の鬱憤を晴らすだろうと、羽生城将らに書き送った(『歴代古案』)

その書状に書き記された城将の名は、
木戸伊豆守(忠朝)、同右衛門太夫(重朝)、菅原左衛門佐(為繁)である。
ここで改めて整理をすると、
“木戸忠朝”は羽生城主、
“木戸重朝”はその嫡子である。
そして、“菅原為繁”は、忠朝の兄“広田直繁”の子であり、
元亀2年(1571)頃まで越後に在府していた。

実は、忠朝と重朝は7月26日付の謙信からの書状を最後に、
歴史から名前を消す。
現在のところ、その後の彼の消息は不明と言わざるを得ない。
天正2年の度重なる戦で戦死したとも、
あるいは生きる望みを失って自害したとも言われている。

もし戦死したとすれば、
忠朝にかわって菅原為繁が指揮を執ったのだろう。
同年10月、いよいよ関東へ出陣した謙信は為繁に宛てて、
引き続き羽生城が破られないよう防備を固めておくよう伝えている(『歴代古案』)
(続く)

※画像は夜闇に包まれた羽生の町。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月14日生まれの人物は?(メンズバレンタインデ・コスモスの日)

2008年09月14日 | 誕生日部屋
9月14日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

ヨハン・ミヒャエル・ハイドン (作曲家)
三木淳 (写真家)
赤塚不二夫 (漫画家)
矢沢永吉 (歌手・ミュージシャン)
パッパラー河合 (ミュージシャン)
本間敏之 (ミュージシャン)
駒田徳広 (野球)
石井弘寿 (野球)
福澤朗 (アナウンサー)
小柳みゆき (タレント)
円谷憂子 (歌手)
小栗香織 (タレント)
中村獅童 (歌舞伎俳優)
塙理絵 (タレント)
安達祐実 (俳優)
成宮寛貴 (俳優)
GAO (歌手)
O-JIRO (ミュージシャン)
高橋愛 (歌手)
上戸彩 (歌手・俳優)

この日起きた事件は以下のとおりです。

室町幕府が徳政令公布(1441)
考古学者シャンポリオンが古代エジプトの象形文字解読に成功(1822)
津田梅子が子英学塾(現津田塾大学)を開校(1900)
マッキンレー・アメリカ大統領が暗殺される(1901)
キャスリーン台風が関東に来襲。死者・行方不明者1529名(1947)
「二十四の瞳」封切り(1954)
ソ連の無人探査機ルナ2号月面に到達(1959)
マイケル・ジャクソンが児童の性的虐待で告訴される(1933)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“鋭い批評家”とのことです。
誕生花は「サルビア」、花言葉は「紫花」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする