もうひとつの伝承は、
堀の内近くに祀られていたという一位社、二位社、三位社である。
この社にもいわくがある。
すなわち、羽生城主の子3人が戦死し、
これを祀ったというのである。
前二社は堀の内近くにあり、
三位社は対岸の飯野にあったという。
明治44年に一位社と二位社が八幡社に合祀されたが、
三位社はいつしか不明になったと伝えられる。
また、この三社の口碑は、羽生城主だけに留まらない。
流罪になった公家3人を祀ったとも言われる。
村君地区には古墳群が所在し、
「高貴な人」の伝承がいくつかあることから、
そこから派生したものかもしれない。
いずれにせよ、『新編武蔵風土記稿』が「祭神及び来由等と伝へず」と記すように、
はっきりしたことは不明である。
拙ブログでは、この三社を公家ではなく、
羽生城主に関係していると考えたい。
では、「子3人」とは一体誰なのだろうか?
口碑によると、長男を一位社、次男を二位社、
三男を三位社として祀ったという。
だとすれば、「羽生城主の子」として挙げられるのは、
菅原為繁、木戸重朝、木戸元斎の3人である。
しかし、前2人は天正2年当時、羽生を撤退し生き延びている。
羽生市岩瀬の「天神宮縁起」に“柴山縫殿助”という者が、
重朝の弟として登場するが、羽生城主の子として数えるには疑問が残る。
例え入れたとしても、重朝、為繁の2人であり、
もうひとりは誰なのか適当な人物が見当たらない。
按ずるに、この三社に祀られたのは「子」ではなく別の者であろう。
それは公家ではなく、羽生城主一族と想定する。
そこで自ずと浮かび上がってくるのは、
広田直繁、木戸忠朝、木戸重朝の3人である。
直繁は元亀元年以降に館林城へ移って消息を絶ち、
忠朝と重朝は天正2年7月からその名が消えている。
直繁は謀殺、木戸父子は戦死・自害と考えられ、
羽生自落のとき3人はすでにこの世からいなくなっていた。
もし城が安泰ならば、重朝が羽生城主に就いていたはずであり、
この三者が祀られていてもおかしくはないだろう。
堀の内に留まり、天正18年の戦乱の終わりを見届けた渋井氏か、
あるいはその付近の者が三者を祀ったのではないだろうか。
特に渋井氏は、永禄4年(1561)の小田原城攻めに参加した「渋江平六郎」と比定され、
羽生城主とは身近な関係であった。
後北条氏が滅び、徳川時代が幕を開けたとき、
亡き主君を偲んで三者を祀ったのだろう。
あるいは、祭神や由来が不明なことから、
天正2年以降の忍城主“成田氏”の支配時代に、
人知れず三社を建てたのかもしれない。
ただし、これはあくまで推測である。
新しい史料の発見によっては、
知られざる史実が明るみに出るだろう。
例えば、忠朝、重朝、源光斎を祀ったのかもしれず、
口碑のように公家に関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、ここには「古城」があり、
自落に関連する伝承が残っている。
月夜の晩、この堀の内に足を運んでみてはいかがだろうか。
もしかすると、源光斎の吹く笛の音が、
どこからともなく聞こえてくるかもしれない……
(続く)
不動院(埼玉県羽生市名)から八幡社を望む
不動院境内にある延命地蔵
漢学者“渋井太室”の墓碑。
不動院墓地に所在。
銘の中に堀の内城に関する記述が見える。
堀の内近くに祀られていたという一位社、二位社、三位社である。
この社にもいわくがある。
すなわち、羽生城主の子3人が戦死し、
これを祀ったというのである。
前二社は堀の内近くにあり、
三位社は対岸の飯野にあったという。
明治44年に一位社と二位社が八幡社に合祀されたが、
三位社はいつしか不明になったと伝えられる。
また、この三社の口碑は、羽生城主だけに留まらない。
流罪になった公家3人を祀ったとも言われる。
村君地区には古墳群が所在し、
「高貴な人」の伝承がいくつかあることから、
そこから派生したものかもしれない。
いずれにせよ、『新編武蔵風土記稿』が「祭神及び来由等と伝へず」と記すように、
はっきりしたことは不明である。
拙ブログでは、この三社を公家ではなく、
羽生城主に関係していると考えたい。
では、「子3人」とは一体誰なのだろうか?
口碑によると、長男を一位社、次男を二位社、
三男を三位社として祀ったという。
だとすれば、「羽生城主の子」として挙げられるのは、
菅原為繁、木戸重朝、木戸元斎の3人である。
しかし、前2人は天正2年当時、羽生を撤退し生き延びている。
羽生市岩瀬の「天神宮縁起」に“柴山縫殿助”という者が、
重朝の弟として登場するが、羽生城主の子として数えるには疑問が残る。
例え入れたとしても、重朝、為繁の2人であり、
もうひとりは誰なのか適当な人物が見当たらない。
按ずるに、この三社に祀られたのは「子」ではなく別の者であろう。
それは公家ではなく、羽生城主一族と想定する。
そこで自ずと浮かび上がってくるのは、
広田直繁、木戸忠朝、木戸重朝の3人である。
直繁は元亀元年以降に館林城へ移って消息を絶ち、
忠朝と重朝は天正2年7月からその名が消えている。
直繁は謀殺、木戸父子は戦死・自害と考えられ、
羽生自落のとき3人はすでにこの世からいなくなっていた。
もし城が安泰ならば、重朝が羽生城主に就いていたはずであり、
この三者が祀られていてもおかしくはないだろう。
堀の内に留まり、天正18年の戦乱の終わりを見届けた渋井氏か、
あるいはその付近の者が三者を祀ったのではないだろうか。
特に渋井氏は、永禄4年(1561)の小田原城攻めに参加した「渋江平六郎」と比定され、
羽生城主とは身近な関係であった。
後北条氏が滅び、徳川時代が幕を開けたとき、
亡き主君を偲んで三者を祀ったのだろう。
あるいは、祭神や由来が不明なことから、
天正2年以降の忍城主“成田氏”の支配時代に、
人知れず三社を建てたのかもしれない。
ただし、これはあくまで推測である。
新しい史料の発見によっては、
知られざる史実が明るみに出るだろう。
例えば、忠朝、重朝、源光斎を祀ったのかもしれず、
口碑のように公家に関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、ここには「古城」があり、
自落に関連する伝承が残っている。
月夜の晩、この堀の内に足を運んでみてはいかがだろうか。
もしかすると、源光斎の吹く笛の音が、
どこからともなく聞こえてくるかもしれない……
(続く)
不動院(埼玉県羽生市名)から八幡社を望む
不動院境内にある延命地蔵
漢学者“渋井太室”の墓碑。
不動院墓地に所在。
銘の中に堀の内城に関する記述が見える。