天正2年(1574)10月、関東へ出陣した上杉謙信。
同月15日、謙信は上州の仁田山城を陥落させている。
まるで春の鬱憤を晴らすがごとく、
その攻撃はすさまじかったらしい。
彼城ニ籠者共、一騎一人不残男女共に悉くなてきりニ成之候、
謙信は10月19日付で、“太田資正”にそう書き送っている(「太田文書」)。
11月7日には、利根川を渡って武蔵に侵攻。
怒濤の勢いで各領を蹂躙した。
まず鉢形・忍・松山に侵攻し、これを放火している(「那須文書」)。
去七日利根越河、鉢形城下・成田・上田領悉放火
ちなみに、『成田記』や『関八州古戦録』には、
上杉謙信による忍城攻防戦が記されている。
謙信に向けて鉄砲を撃っても一向に当たらず、
金で作った弾でも虚しく空を切るだけで、
城兵たちを恐れさせたという話である。
『新編武蔵風土記稿』によると、
謙信はさきたま古墳群内の“丸墓山古墳”に登り、
忍城を一望したという。
これらの記録は天文22年(1553)や永禄12年(1569)とあるが、
天正2年の忍城放火の記述なのかもしれない。
このとき忍領の“須加城”も放火されたらしい。
丸墓山古墳から忍城を望む
須加城跡(埼玉県行田市須賀)。現在の須賀小学校と推定される。
同上
同上
謙信は再び利根川を渡って、嵐のように各領に侵攻した。
足利・館林・新田をことごとく放火(「那須文書」)。
小山城で“佐竹義重”と会談し、
共に関宿城を救援することついて話し合った。
ところが、義重の家中に謙信へ不信感を持つ者が、これに異を唱えた。
そこで、謙信と義重は独立して行動することが決まる。
関宿城の救援は佐竹義重が一任された(「名将之消息録」)。
謙信は再び利根川を渡って武蔵に侵攻。
再び各領を焼き尽くすのである。
(続く)
同月15日、謙信は上州の仁田山城を陥落させている。
まるで春の鬱憤を晴らすがごとく、
その攻撃はすさまじかったらしい。
彼城ニ籠者共、一騎一人不残男女共に悉くなてきりニ成之候、
謙信は10月19日付で、“太田資正”にそう書き送っている(「太田文書」)。
11月7日には、利根川を渡って武蔵に侵攻。
怒濤の勢いで各領を蹂躙した。
まず鉢形・忍・松山に侵攻し、これを放火している(「那須文書」)。
去七日利根越河、鉢形城下・成田・上田領悉放火
ちなみに、『成田記』や『関八州古戦録』には、
上杉謙信による忍城攻防戦が記されている。
謙信に向けて鉄砲を撃っても一向に当たらず、
金で作った弾でも虚しく空を切るだけで、
城兵たちを恐れさせたという話である。
『新編武蔵風土記稿』によると、
謙信はさきたま古墳群内の“丸墓山古墳”に登り、
忍城を一望したという。
これらの記録は天文22年(1553)や永禄12年(1569)とあるが、
天正2年の忍城放火の記述なのかもしれない。
このとき忍領の“須加城”も放火されたらしい。
丸墓山古墳から忍城を望む
須加城跡(埼玉県行田市須賀)。現在の須賀小学校と推定される。
同上
同上
謙信は再び利根川を渡って、嵐のように各領に侵攻した。
足利・館林・新田をことごとく放火(「那須文書」)。
小山城で“佐竹義重”と会談し、
共に関宿城を救援することついて話し合った。
ところが、義重の家中に謙信へ不信感を持つ者が、これに異を唱えた。
そこで、謙信と義重は独立して行動することが決まる。
関宿城の救援は佐竹義重が一任された(「名将之消息録」)。
謙信は再び利根川を渡って武蔵に侵攻。
再び各領を焼き尽くすのである。
(続く)