「VIRADESA ゲストハウス」のドミトリーに到着し、わたしはバックパックを置いて早速ルアンパバンの町に繰りだした。
メコン川沿いを15分ほど歩くとやがて突き当たりとなる。仕方なく、道なりに歩を進めると少し広めの通りに出る。道はやはり舗装されていないが、人通りも増えてきて、賑やかだ。
その道にはおびただしい数の寺が並んでいた。
ものの本によると、ルアンパバンは1975年の革命まで600年にわたり栄えたラーンサーン 王朝の都だったという。ラーンサーン王朝は仏教の思想を重んじ、同国における仏教の隆盛をもたらした。ルアンパバンにおいては現在も80の寺院が立ち並び、往時をしのばせる。
その通りを歩いていくと、今度は巨大な市場に出くわした。
「プーシー」と呼ばれる市場である。
この市場の規模は相当なものだった。
ホーチミンシティのベンタイン市場やプノンペンのセントラル市場には及ばないものの、賑わい度ではこれら東南アジアを代表する市場に負けるとも劣らない熱気に溢れていた。
その市場を通り過ぎると、元来たゲストハウスに戻る。
ルアンパバンの中心街は30分もあればぐるりと1周できるほどの小さな町だった。
それでも、歩き足りず市街地から外れた道を行けば、そこはもう完全に文明とは無縁と思われる田舎の風景になった。
クルマなどはほとんど走っておらず、道端には青空理容店が店を出す。
壁に鏡を吊るし、椅子を置いただけの床屋さんだ。
子供たちは元気に駆け回り、家の中からは赤ちゃんの元気な泣き声が漏れてくる。
人々は純朴そのもので、にこにこと愛想を振りまきながら、挨拶をしてくる。
町全体が世界遺産に登録されており、外国人の来訪が珍しくないため、人々は外国人に対して寛容だった。
そうやって、人々に挨拶をしながら山を登っていくと、大きな橋に出た。
赤いペンキに着色された、木造の橋の袂まで行ってみて、わたしは息をのんだ。
100mに満たない全長の橋は吊橋になっており、木の板が床になっている。
木の板も30cm間隔になっていて、その隙間からはおよそ50m下の川面が見える作りだ。
わたしは、興味本位で橋を渡り始めたはいいが、10mも歩いたら足がすくんで動けなくなった。
橋は歩くたびにゆらゆらと揺れ、足元を脅かす。
その隙間から落下することは多分ないと思うが、もし木が腐っていたら、わたしは眼下のカーン川に真っ逆さまだ。
それでも、我慢してその先まで歩いたが、橋の真ん中まで来て、本気で怖くなり、踵を返して引き返した。
川にはラオスの子供たちが無邪気に泳いで遊んでいたが、わたしは冷や汗をかきながら、ルアンパバンの中心地へ戻ったのだった。
宿の前まで来ると、メコン川沿いに近代的なテラスがあることに気がついた。
試しに入ってみると、若い女性の店員がいる。
わたしに気がついた店員の女性は、「ビール飲みますか」と聞いてくる。
だいぶ歩いて喉が渇いていた。
ビールとは贅沢だが、わたしは誘惑には勝てず、「プリーズ」と返答した。
タンブラーに注がれて出てきたのは、正真正銘の生ビールだった。
早速、飲んでみて驚いた。
日本のピルスナービールと遜色ないおいしさだったからだ。
思わず「うまい」と日本語で呟くと、店員の女の子は少しだけ笑ってわたしを見た。
「これ、なんていうビールですか」と聞くと、彼女は一言だけ言葉を発した。
「ビアラオ」。
なるほど、ラオスのビールか。
これは困ったことになった。
バックパッカーにとって金は少しでも倹約しないといけないが、これだけうまいビールともなれば話しは違う。日本の何十文の一という金額でうまいビールが飲めるとはいえ、これは飲まずにはいられない。
またしても沈没の条件が整ったということか。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
メコン川沿いを15分ほど歩くとやがて突き当たりとなる。仕方なく、道なりに歩を進めると少し広めの通りに出る。道はやはり舗装されていないが、人通りも増えてきて、賑やかだ。
その道にはおびただしい数の寺が並んでいた。
ものの本によると、ルアンパバンは1975年の革命まで600年にわたり栄えたラーンサーン 王朝の都だったという。ラーンサーン王朝は仏教の思想を重んじ、同国における仏教の隆盛をもたらした。ルアンパバンにおいては現在も80の寺院が立ち並び、往時をしのばせる。
その通りを歩いていくと、今度は巨大な市場に出くわした。
「プーシー」と呼ばれる市場である。
この市場の規模は相当なものだった。
ホーチミンシティのベンタイン市場やプノンペンのセントラル市場には及ばないものの、賑わい度ではこれら東南アジアを代表する市場に負けるとも劣らない熱気に溢れていた。
その市場を通り過ぎると、元来たゲストハウスに戻る。
ルアンパバンの中心街は30分もあればぐるりと1周できるほどの小さな町だった。
それでも、歩き足りず市街地から外れた道を行けば、そこはもう完全に文明とは無縁と思われる田舎の風景になった。
クルマなどはほとんど走っておらず、道端には青空理容店が店を出す。
壁に鏡を吊るし、椅子を置いただけの床屋さんだ。
子供たちは元気に駆け回り、家の中からは赤ちゃんの元気な泣き声が漏れてくる。
人々は純朴そのもので、にこにこと愛想を振りまきながら、挨拶をしてくる。
町全体が世界遺産に登録されており、外国人の来訪が珍しくないため、人々は外国人に対して寛容だった。
そうやって、人々に挨拶をしながら山を登っていくと、大きな橋に出た。
赤いペンキに着色された、木造の橋の袂まで行ってみて、わたしは息をのんだ。
100mに満たない全長の橋は吊橋になっており、木の板が床になっている。
木の板も30cm間隔になっていて、その隙間からはおよそ50m下の川面が見える作りだ。
わたしは、興味本位で橋を渡り始めたはいいが、10mも歩いたら足がすくんで動けなくなった。
橋は歩くたびにゆらゆらと揺れ、足元を脅かす。
その隙間から落下することは多分ないと思うが、もし木が腐っていたら、わたしは眼下のカーン川に真っ逆さまだ。
それでも、我慢してその先まで歩いたが、橋の真ん中まで来て、本気で怖くなり、踵を返して引き返した。
川にはラオスの子供たちが無邪気に泳いで遊んでいたが、わたしは冷や汗をかきながら、ルアンパバンの中心地へ戻ったのだった。
宿の前まで来ると、メコン川沿いに近代的なテラスがあることに気がついた。
試しに入ってみると、若い女性の店員がいる。
わたしに気がついた店員の女性は、「ビール飲みますか」と聞いてくる。
だいぶ歩いて喉が渇いていた。
ビールとは贅沢だが、わたしは誘惑には勝てず、「プリーズ」と返答した。
タンブラーに注がれて出てきたのは、正真正銘の生ビールだった。
早速、飲んでみて驚いた。
日本のピルスナービールと遜色ないおいしさだったからだ。
思わず「うまい」と日本語で呟くと、店員の女の子は少しだけ笑ってわたしを見た。
「これ、なんていうビールですか」と聞くと、彼女は一言だけ言葉を発した。
「ビアラオ」。
なるほど、ラオスのビールか。
これは困ったことになった。
バックパッカーにとって金は少しでも倹約しないといけないが、これだけうまいビールともなれば話しは違う。日本の何十文の一という金額でうまいビールが飲めるとはいえ、これは飲まずにはいられない。
またしても沈没の条件が整ったということか。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
起こっています
『奪われる日本の森 外資が水資源を狙っている』(平野秀樹、安田喜憲著、新潮社)には、空恐ろしい実態が報告されている。日本の森林資源が大量に取引されており、その面積は過去10年間でほぼ倍増、特にここ3年の取引の拡大は著しいという。都道府県別で最も取引面積が多いのが、北海道、宮崎、福島、熊本だそうだ。
以上櫻井よしこ氏2010.4.17プログより
日本の水資源も外資が狙っています。
水の世紀といわれる21世紀で水の争奪戦が20世紀の非人道的な争いにならないことを今はただ祈るのみです。
師がラオスを訪れた数年後、俺も同じくラオスに行った時、師に聞いたこの吊り橋にチャレンジしようと行ってみると、既に車も通れる普通の橋になっていて、がっかりした記憶があるよ。
ビアラオ、俺も飲んだはずなんだけど、あんまりどんな味だったか覚えてないなあ・・・。
日頃、副原料なしのビールがいいとか偉そうなこと言ってるけど、ベース俺、口腐ってるなあって思うよ。ブラインドで
利きビールしても多分全然わからないだろうなあ。
アジアのビールでうまい!と思ったのは「ビアラオ」とネパールの「エベレストビール」、そしてインドの「キングフィッシャー」かな。
「キングフィッシャー」のぬる燗は勘弁してほしいけれどね。