クリスマスが終わると香港の街は急に静かになった。
日本ならばクリスマスが終わると急に年の瀬の雰囲気に装いは一変するが、香港には、そのような空気は微塵も感じられなかった。やはり、年越しは春節が主流なのだろうか。
旅に出てくる前、わたしはおおよその旅の工程をスケッチしていた。
まず、神戸から上海へと渡り、大陸を南下する。香港、そしてマカオを経由し、再び中国へ。そこから雲南省を目差す、というのが大雑把な構想だった。
その後は、特に決めてもいなかったが、旅をするうち、陸路でヴェトナムに抜けようと考えるようになった。そのまま、雲南省からチベット自治区の拉薩にぬけるルートもバックパッカーの定石ともいえたが、それではインドシナ半島を素通りしていくことになる。それはあまりにも、もったいないように思えた。
わたしは雲南からヴェトナムへ抜けるルート、「河口~ラオカイ」を選択してヴィザを申請したのだ。
その後のルートは特に決めてはいなかった。
とにかく西へ。
できれば、ロンドンよりも西へ。行けるとこまで、行ってやろう。
そんな、思いがわたしの心の中にあった。
所持金は2500米ドル余り。はたして、どのくらい旅ができるか分からなかったが、わたしは楽観的に考えていた。
だが、香港の滞在費はあまりにも高かった。
宿代が一泊10香港ドルの約1000円。食べ物も1食4ドルほどになる。
それまで、過ごした中国では、宿代が一泊約40元。決して安くはなかったが、食事が極めて安かった。おかず一品に湯、そして米飯を食べて、だいたい7元。約90円にしかすぎなかった。
このため、一ヶ月を費やした中国滞在費は200米ドルくらいだった。しかし、香港においては、1週間もたたないうちに100米ドルがなくなろうとしている。
ここは、早く香港を抜け出さなければ、次々とお金がなくなってしまう。
しかし、そうはいえどもヴェトナムヴィザの発給が今しばらくかかる。
わたしには少し焦りのようなものが生じてきた。
師と話をするうち、彼もロンドンを目指していることが分かった。
しかも、次は同じヴェトナム行きだ。
だが、彼は南寧から友誼関国境を経由してハノイへ抜けるルートだった。
それでも、一度中国に再入国して、ヴェトナム行きすることに変わりはない。それならば、暫く一緒に行動してもいいのではないか、と思った。
宿がシェアできる。
ドミトリー、つまり大部屋が少ない中国で1部屋を借りると高いが、それを折半すれば、まだ安い。そうやって、わたしは上海~香港間を歩いてきた。
ヴィザ発給後は香港のお隣の島、ポルトガル領のマカオに寄って、中国ヴィザを申請して、大陸に再入国しようと計画していた。師も、やはりそういうプランを持っていたようだ。
「とりあえず、マカオは一緒に行かないか?」
どちらかが、そう声をかけたか、或いは自然の成り行きで、そうなったかは、分からない。
しかし、「暫く一緒に行こうぜ!」。そんな暗黙の了解を交わすまでに、わたしと師の心は打ち解けていたのだ。
1週間も香港に滞在していたが、香港人との関わりはほとんどなかった。
夜の女人街に行って露店を冷やかしたりしたが、商売のやりとりだけであって、それ以上の深い繋がりには発展しなかった。
夜、パジャマで徘徊する一般の香港人とも、特段仲良くなる機会もなかった。
わたしは、少しずつ香港に対する関心を失っていったように思う。
12月29日の午後、わたしと師のヴェトナムヴィザは発給された。
翌日にもマカオに行こうか、という段になったが、香港とマカオを結ぶ船が満席で身動きがとれなくなっていた。
結局、我々が、マカオに発ったのは元旦の午前中のこと。
前日の年越しは、短波ラジオで国際放送の「紅白歌合戦」を聞いて過ごした。
マカオに着いた、その日、わたしと師は石畳の広場にある公衆電話でそれぞれの家族に電話をかけている。
行動を共にしたのは、「シェア」よりも、むしろ寂しさからだったと思う。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
日本ならばクリスマスが終わると急に年の瀬の雰囲気に装いは一変するが、香港には、そのような空気は微塵も感じられなかった。やはり、年越しは春節が主流なのだろうか。
旅に出てくる前、わたしはおおよその旅の工程をスケッチしていた。
まず、神戸から上海へと渡り、大陸を南下する。香港、そしてマカオを経由し、再び中国へ。そこから雲南省を目差す、というのが大雑把な構想だった。
その後は、特に決めてもいなかったが、旅をするうち、陸路でヴェトナムに抜けようと考えるようになった。そのまま、雲南省からチベット自治区の拉薩にぬけるルートもバックパッカーの定石ともいえたが、それではインドシナ半島を素通りしていくことになる。それはあまりにも、もったいないように思えた。
わたしは雲南からヴェトナムへ抜けるルート、「河口~ラオカイ」を選択してヴィザを申請したのだ。
その後のルートは特に決めてはいなかった。
とにかく西へ。
できれば、ロンドンよりも西へ。行けるとこまで、行ってやろう。
そんな、思いがわたしの心の中にあった。
所持金は2500米ドル余り。はたして、どのくらい旅ができるか分からなかったが、わたしは楽観的に考えていた。
だが、香港の滞在費はあまりにも高かった。
宿代が一泊10香港ドルの約1000円。食べ物も1食4ドルほどになる。
それまで、過ごした中国では、宿代が一泊約40元。決して安くはなかったが、食事が極めて安かった。おかず一品に湯、そして米飯を食べて、だいたい7元。約90円にしかすぎなかった。
このため、一ヶ月を費やした中国滞在費は200米ドルくらいだった。しかし、香港においては、1週間もたたないうちに100米ドルがなくなろうとしている。
ここは、早く香港を抜け出さなければ、次々とお金がなくなってしまう。
しかし、そうはいえどもヴェトナムヴィザの発給が今しばらくかかる。
わたしには少し焦りのようなものが生じてきた。
師と話をするうち、彼もロンドンを目指していることが分かった。
しかも、次は同じヴェトナム行きだ。
だが、彼は南寧から友誼関国境を経由してハノイへ抜けるルートだった。
それでも、一度中国に再入国して、ヴェトナム行きすることに変わりはない。それならば、暫く一緒に行動してもいいのではないか、と思った。
宿がシェアできる。
ドミトリー、つまり大部屋が少ない中国で1部屋を借りると高いが、それを折半すれば、まだ安い。そうやって、わたしは上海~香港間を歩いてきた。
ヴィザ発給後は香港のお隣の島、ポルトガル領のマカオに寄って、中国ヴィザを申請して、大陸に再入国しようと計画していた。師も、やはりそういうプランを持っていたようだ。
「とりあえず、マカオは一緒に行かないか?」
どちらかが、そう声をかけたか、或いは自然の成り行きで、そうなったかは、分からない。
しかし、「暫く一緒に行こうぜ!」。そんな暗黙の了解を交わすまでに、わたしと師の心は打ち解けていたのだ。
1週間も香港に滞在していたが、香港人との関わりはほとんどなかった。
夜の女人街に行って露店を冷やかしたりしたが、商売のやりとりだけであって、それ以上の深い繋がりには発展しなかった。
夜、パジャマで徘徊する一般の香港人とも、特段仲良くなる機会もなかった。
わたしは、少しずつ香港に対する関心を失っていったように思う。
12月29日の午後、わたしと師のヴェトナムヴィザは発給された。
翌日にもマカオに行こうか、という段になったが、香港とマカオを結ぶ船が満席で身動きがとれなくなっていた。
結局、我々が、マカオに発ったのは元旦の午前中のこと。
前日の年越しは、短波ラジオで国際放送の「紅白歌合戦」を聞いて過ごした。
マカオに着いた、その日、わたしと師は石畳の広場にある公衆電話でそれぞれの家族に電話をかけている。
行動を共にしたのは、「シェア」よりも、むしろ寂しさからだったと思う。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます