見たところ、キッティはわたしと同じような年齢に見えた。にこりともせず、わたしの顔を見ている。
「はじめまして」。とわたしが言うと彼もおうむ返しに英語で答えた。
「友人からここを教えて貰った。数日間、泊めてもらいたい」と言うと、彼は「イエス」とも「ノー」とも言わず、家の中に入れと促し、広い部屋へ案内してくれるとこう言った。
「自由に使ってくれ」。
その部屋は20畳あろうかという部屋だったが、調度品は何も置かれていなかった。木造の板が黒光りして、日本人には落ち着く部屋だが、お寺の本堂に一人いるような寂しさがあった。
キッティは一言言うなり、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
呆気にとられた。
わたしは自分の名前すら名乗っていなかったからだ。得体の知れない外国人が急に家を訪れて、意図も容易く部屋を提供するだろうか。
キッティを追って隣の部屋に行くと、既にキッティの姿は見えず、そこには日本人のガンちゃんがいるだけだった。
ガンちゃんに「キッティは?」と尋ねると、首を振りながら説明してくれた。
その説明によると、普段キッティは創作活動に入るため、昼間は部屋に籠もるのだという。
どうやらもう、キッティは創作活動に入ってしまったようだ。
「ここには日本人が時々来るのよ。日本人は礼儀正しいから、彼は日本人に対して好意を持っているのね」。
わたしが質問する前に、彼女はわたしの疑問に答えてくれた。
ガンちゃんはタイ語の学校に通いながら、このキッティの家で居候しているらしい。何回か彼女がタイ語を操るのを見かけたが、かなり話しができるくらい見事だった。
夕方になるとキッティは部屋を出てきたが、水が使える洗い場の前で作業を始めた。
何をしているのかと思って、そっと覗くと料理の準備に取りかかっているところだった。
「ご飯は毎日作っているの?」
とわたしが尋ねると、彼はぶっきらぼうに頷いた。
「何か手伝おうか」と言っても、眉ひとつ動かさず「いや、いい」とだけ答えた。
そうして、彼が手際よく料理をお皿に盛りつけていくのを見ていると、わたしも急激に腹が空いてきた。
散歩がてら飯を食いに行こうと部屋を出ようとすると、ガンちゃんに声を掛けられた。
「どこ行くの?もうすぐご飯よ」。
「ボクの分もあるの?」と逆に質問をすると、後ろからキッティが近づいてきて、「皆で食べよう」とわたしにも声をかけてくれた。
わたしの勝手な思いこみなのだが、タイ人はほとんど料理を作らないとばかり思っていた。香港人がそうであるように、食事はもっぱら外食で済ますものとばかり思っていたのだ。だから、屋台の文化が発達して、いるのだと。
キッティが包丁を取り出し、慣れた手つきで料理をこなす姿を見ていささかわたしは感動してしまったのだ。
そうして、キッティが中庭に出て外国映画にあるように鍋の底をおたまのような調理器具で叩いて何事か言うと、どこに潜んでいたのか、数人の若い男女がぞろぞろと向かいの小さな建物から出てきた。
食事の用意を銘々がしはじめるとすぐさま母屋のバルコニーが食卓となった。
そこにわたしも呼ばれて、一緒にご飯を頂くことになった。
テーブルなどなく、フローリングの床に直接大皿を置いて、食べる夕食は決して行儀のいいものではなかったが、大勢でわいわいと食べる賑やかさと、滅多に食べる機会などない家庭料理にわたしはつい興奮した。
大皿に盛られているのは豚肉を焼いた「ムーナムトック」という料理と青いパパイヤのサラダ「ソムタム」。そして白いご飯である。
キッティの手料理は本当においしかった。少なくとも、バンコクのカオサンロードの裏側にあるぶっかけ飯屋よりも断然にうまかった。
特に秀逸だったのが、「ソムタム」である。薄く削られたパパイヤと玉葱、そしてパクチーのハーモニーが実に絶妙だった。
「アロイ!アロイマーク!」とタイ語で「おいしい」という意味の言葉を連発していると異国の見知らぬ男を目の前に緊張していたタイの若者たちも打ち解けはじめ、次第に笑い声が起きるようになった。
そこで、若者たちにわたしは質問をした。
「君らはキッティのファミリーなの?」。
彼女らはお互いを見合いながら、どのように返答していいか迷っている。英語は理解するようだが、あまり話せないようだ。
それを見かねてガンちゃんがわたしに日本語で説明してくれた。
それによると、2人の女性と一人の男性の若者はチェンマイ大学の学生さんだという。美術系の学科を専攻しており、将来はアーティストを志しているようだ。
ガンちゃんの説明によると、キッティの家は、キッティ自身が世帯主ではなく、チェンマイ大学の学生たちがシェアをして住んでいる家なのだという。言わば芸術家志望の寮といったところだろうか。
キッティは学生ではないので、食事を作ったりしているようだった。
そのため、いろんな若者が出入りするのだという。
しかし、そうはいいながらもここで部外者のわたしがごくを潰すわけにもいくまい。
キッティに宿泊費と生活費を支払うことを提案した。
すると、「好きなだけ居てもいい。そのコストも特にはいらない」。
と素っ気無く返ってきた。
「でも!」
とくいさがると、今度は学生達が「マイペンライ」とやんわりわたしの言葉を遮った。
「コープクン!」。
わたしは、合掌して彼らにお礼を言った。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
「はじめまして」。とわたしが言うと彼もおうむ返しに英語で答えた。
「友人からここを教えて貰った。数日間、泊めてもらいたい」と言うと、彼は「イエス」とも「ノー」とも言わず、家の中に入れと促し、広い部屋へ案内してくれるとこう言った。
「自由に使ってくれ」。
その部屋は20畳あろうかという部屋だったが、調度品は何も置かれていなかった。木造の板が黒光りして、日本人には落ち着く部屋だが、お寺の本堂に一人いるような寂しさがあった。
キッティは一言言うなり、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
呆気にとられた。
わたしは自分の名前すら名乗っていなかったからだ。得体の知れない外国人が急に家を訪れて、意図も容易く部屋を提供するだろうか。
キッティを追って隣の部屋に行くと、既にキッティの姿は見えず、そこには日本人のガンちゃんがいるだけだった。
ガンちゃんに「キッティは?」と尋ねると、首を振りながら説明してくれた。
その説明によると、普段キッティは創作活動に入るため、昼間は部屋に籠もるのだという。
どうやらもう、キッティは創作活動に入ってしまったようだ。
「ここには日本人が時々来るのよ。日本人は礼儀正しいから、彼は日本人に対して好意を持っているのね」。
わたしが質問する前に、彼女はわたしの疑問に答えてくれた。
ガンちゃんはタイ語の学校に通いながら、このキッティの家で居候しているらしい。何回か彼女がタイ語を操るのを見かけたが、かなり話しができるくらい見事だった。
夕方になるとキッティは部屋を出てきたが、水が使える洗い場の前で作業を始めた。
何をしているのかと思って、そっと覗くと料理の準備に取りかかっているところだった。
「ご飯は毎日作っているの?」
とわたしが尋ねると、彼はぶっきらぼうに頷いた。
「何か手伝おうか」と言っても、眉ひとつ動かさず「いや、いい」とだけ答えた。
そうして、彼が手際よく料理をお皿に盛りつけていくのを見ていると、わたしも急激に腹が空いてきた。
散歩がてら飯を食いに行こうと部屋を出ようとすると、ガンちゃんに声を掛けられた。
「どこ行くの?もうすぐご飯よ」。
「ボクの分もあるの?」と逆に質問をすると、後ろからキッティが近づいてきて、「皆で食べよう」とわたしにも声をかけてくれた。
わたしの勝手な思いこみなのだが、タイ人はほとんど料理を作らないとばかり思っていた。香港人がそうであるように、食事はもっぱら外食で済ますものとばかり思っていたのだ。だから、屋台の文化が発達して、いるのだと。
キッティが包丁を取り出し、慣れた手つきで料理をこなす姿を見ていささかわたしは感動してしまったのだ。
そうして、キッティが中庭に出て外国映画にあるように鍋の底をおたまのような調理器具で叩いて何事か言うと、どこに潜んでいたのか、数人の若い男女がぞろぞろと向かいの小さな建物から出てきた。
食事の用意を銘々がしはじめるとすぐさま母屋のバルコニーが食卓となった。
そこにわたしも呼ばれて、一緒にご飯を頂くことになった。
テーブルなどなく、フローリングの床に直接大皿を置いて、食べる夕食は決して行儀のいいものではなかったが、大勢でわいわいと食べる賑やかさと、滅多に食べる機会などない家庭料理にわたしはつい興奮した。
大皿に盛られているのは豚肉を焼いた「ムーナムトック」という料理と青いパパイヤのサラダ「ソムタム」。そして白いご飯である。
キッティの手料理は本当においしかった。少なくとも、バンコクのカオサンロードの裏側にあるぶっかけ飯屋よりも断然にうまかった。
特に秀逸だったのが、「ソムタム」である。薄く削られたパパイヤと玉葱、そしてパクチーのハーモニーが実に絶妙だった。
「アロイ!アロイマーク!」とタイ語で「おいしい」という意味の言葉を連発していると異国の見知らぬ男を目の前に緊張していたタイの若者たちも打ち解けはじめ、次第に笑い声が起きるようになった。
そこで、若者たちにわたしは質問をした。
「君らはキッティのファミリーなの?」。
彼女らはお互いを見合いながら、どのように返答していいか迷っている。英語は理解するようだが、あまり話せないようだ。
それを見かねてガンちゃんがわたしに日本語で説明してくれた。
それによると、2人の女性と一人の男性の若者はチェンマイ大学の学生さんだという。美術系の学科を専攻しており、将来はアーティストを志しているようだ。
ガンちゃんの説明によると、キッティの家は、キッティ自身が世帯主ではなく、チェンマイ大学の学生たちがシェアをして住んでいる家なのだという。言わば芸術家志望の寮といったところだろうか。
キッティは学生ではないので、食事を作ったりしているようだった。
そのため、いろんな若者が出入りするのだという。
しかし、そうはいいながらもここで部外者のわたしがごくを潰すわけにもいくまい。
キッティに宿泊費と生活費を支払うことを提案した。
すると、「好きなだけ居てもいい。そのコストも特にはいらない」。
と素っ気無く返ってきた。
「でも!」
とくいさがると、今度は学生達が「マイペンライ」とやんわりわたしの言葉を遮った。
「コープクン!」。
わたしは、合掌して彼らにお礼を言った。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
いろんな出会いにドキドキしたり、ホンワカしたり。
もう10歳…いや20歳若かったら、こんな旅がしてみたかったな。
この旅は12年前のものです。
帰国して10年目に書き始めたのでかれこれ2年も書いていることになります。
そして、その旅は未だに続いています。
現在は、まだ子どもが幼いので、7年間ほど休止していますが、いつかまた再開したいと考えています。
旅に年齢は関係ないと思いますよ。
ワタクシ自身の半生が旅みたいなものでしたので、
今は一息入れてるみたいな日々です。(笑)
人生が旅というのも。
旅に休息は必要です。
走り続けていても味気ないもの。
前に進みたくなったときが出発時ですよ。
最近、ライチ!さんのブログ、ご無沙汰しています。
早速、チェックしないと。
これからこのチェンマイ芸術荘での日々はどうなるのかな?
熊猫刑事、突如芸術に目覚めるとか。(笑)
ただ、この後、キッティと一緒にライブハウスに出演させて貰ったけれど。
しかし、ここでの生活は楽しかったなぁ。