庄助さん

浮いた瓢箪流れのままに‥、日々流転。

鮨 素十 (4)

2008-02-05 22:32:35 | 小説
  戸外の水撒きや玄関先の掃除、そして店内の準備が一通り終わると親仁は今まで着ていた服を着替えて板前姿に変わる。 使い込んだ板前着であるがこざっぱりと綺麗に仕上げられ清潔感がある。袖は7分袖ぐらいでやや短く、襟元から腹にかけての合わせが一直線に決まり、腰にきりっと巻かれた前掛けの下がりが衝立のように真下に平板に落ちている。中背で細身の親仁にはよく似合っている。
 親仁は真新しい板前着は身につけない。板前着がどんなに古くなっても、それを何度も何度も繕い直して着る。どうしても直せなくなると新しいものを用意するが、それでもそのまま身につけることはしない。真新しいものであるにも拘らず、自分が納得するまで幾度となく洗い直し、肌に馴染むようになってから使うようにしている。 しかし、この使い古した板前着を身につけた親仁の姿が店内の雰囲気とよく合っている。見方をもっと広げれば、古着を着た親仁の板前姿は水打ちされた道路、箒の刷毛目のついた店先の庭、そして、店内の磨きぬかれたカウンター、さらにはぼんやりとした電球にいたるまで…、これらすべての店の内外の環境を構成する一つ一つとが親仁の板前姿とよく似合っているのである。
 実は、このことはずっと後になって気付いたことであったが、美的感覚などという世界とはまったく無縁のようであるように見える親仁の日々の様子の中に、驚くくらい計算し尽くされ、研ぎ澄まされた美意識とその創造性が備わっていたのである。そこまで親仁は美を追求していたのかと驚かされ唖然とさせられたことがあり、美の世界に生きようとする親仁に畏敬の念とともに、強く心に打たれるものを感じたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする