和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

法旗(三十五)小説「新 ・人間革命」

2013年01月15日 10時43分56秒 | 今日の俳句
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)1月15日(火)より転載】


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法旗35(1/15)
 雪山童子の仏教説話で見落としてはならないのは、童子が身を投げ出した相手が、羅刹(鬼)の姿を現じていたということだ。


 そこには、法を求めるうえで、相手の人格や、社会的な地位や立場などによって、紛動されることがあってはならないとの、戒めの意味が含まれていよう。
相手が、羅刹であろうが、誰であろうが、迷うことなく、一心不乱に法を求めて、突き進むなかに、成仏得道があるのである。


 一方、「大智度論」には、乞眼の婆羅門(司祭階級)の説話がある。


 ――舎利弗が菩薩道の修行をし、布施行に励んでいた時、婆羅門が来て舎利弗に眼を布施するように求めた。
舎利弗は自分の眼の一つを抜いて与えたが、婆羅門からは、感謝の言葉さえなかった。
それどころか、その眼の臭いを嫌って、唾をかけ、地に捨て、しかも、足で踏みにじったのである。


 舎利弗は、愕然とした。“こんな人間を救うことはできない!”と、菩薩道の修行をやめてしまうのである。


 自分の行為や実績に対し、相手や周囲がいかに評価し、賞讃してくれるか――それによって、張り合いをもち、頑張ろうとするのは人情といえよう。
また、健気に、懸命に努力している人に光をあて、讃え、励ましていくことは、リーダーの責任でもある。


 しかし、たとえ自分が正しく評価されず、賞讃されることがなかったとしても、リーダーや周囲の人を恨んだり、意欲を失うようなことがあってはならない。
自分の功徳、福運を消し、成長を止めてしまうからだ。


 仏道修行は“己心の魔”との戦いであるといえる。
“魔”はあらゆる手段を弄して、健気に信心に励もうとする人の意欲を奪い、心を破ろうとする。
時には“なんで自分ばかりが、こんなに苦労しなければならないのだ”との思いをいだくこともあるかもしれない。


 だが、御本尊は、すべてご存じである。生命の因果の理法に照らし、仏法のために苦労すればするほど、大福運を積んでいくのだ。



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