和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

常楽35〈小説「新・人間革命」〉

2016年02月11日 10時54分07秒 | 今日の俳句
【常楽35】

 世田谷の歌「地涌の旗」が「聖教新聞」の東京版に発表された十月三十日、新潟版には、同じく山本伸一が作詞した新潟の歌「雪山の道」の歌詞と楽譜が掲載された。
 日々、秋の気配が深まり、やがて訪れる厳しい新潟の冬。深い雪のなかでの活動が始まる――伸一は、なんとしてもその前に、新潟県歌を作って贈りたかった。
 彼は、十月の十日にガルブレイス博士との会談を終えると、関西指導へ出発。十一日には、創価女子学園での学園行事や、関西戸田記念講堂での大阪・城東区の総会に出席。翌十二日は、京都にあって、京都文化会館、桂会館、宇治平和会館で勤行会や記念撮影、懇談会などを重ねるなかで、新潟の歌の作詞に取り組んだのである。
 車中も、歩きながらも、伸一は、言葉を紡ぎ出し、一行、二行と歌詞を作る。そして、同志の輪の中に飛び出していっては激励を重ね、また、作詞を続ける。そうした「行動」即「詩作」の連続であった。
 彼は、日蓮大聖人が忍ばれた、冬の新潟の日々を思い、歌詞を練っていった。
 吹雪は猛り、にび色の海は牙を?く。雪は家々を閉ざし、寒さは身を苛む。しかし、その厳しい日本海の気候が、新潟で幼・少年期を過ごした牧口常三郎初代会長の、鉄のごとく不屈なる意志を育んでいったのだ。また、どこよりも忍耐強いといわれる、新潟の気質を培ってきたのである。
 つまり、新潟は人間錬磨の天地であり、最も苦労した人が、最も幸せになっていく、蘇生のドラマの大舞台といってよい。
 新潟の歌「雪山の道」は、十二日に歌詞ができ、二十五日には曲も完成した。県の中心者は、県歌の誕生を、真っ先に、新潟広布を切り開いてきた草創の先輩たちに、電話で伝えた。苦労に苦労を重ねてきた功労の同志に、最初に喜んでもらいたかったのである。
 幹部に、そうした心遣いがある地域は強い。団結とは、尊敬と感謝の思いが織り成す、美しき人間性の交響曲にほかならない。


【「聖教新聞」2016年(平成28年)2月11日(木)より転載】


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