和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

芋虫/今朝の俳句 ※No.1054※

2012年09月27日 05時50分28秒 | 今日の俳句
  芋虫/今朝の俳句
  2012年(平成24年)
   9月27日(木)         

   ※No.1054※     


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   ※今日の記念日※                

■ 俳人・石橋秀野 の1947(昭和22)年の忌日。
【俳人・石橋秀野】
明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる。
旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。
文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学ぶ。
大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。
昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。
昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。
後に「鶴」課題句の選者となり、「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。
昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。
しかし戦時中の疎開生活中に病に犯され、昭和22年(1947年)9月26日、京都宇陀野療養所にて逝去、39歳であった。
句文集「桜濃く」(1949年)は10年間の作品と随筆12編他を追悼の意を込めて刊行され、「桜濃く」は第一回茅舎賞を受賞する。
※ 石橋秀野と松江騒擾事件。
 石橋秀野は、松江騒擾事件が行われていた当時、島根県に住んでいた。
石橋は、地裁判決に際し「師走某日、この日判決下りたる島根県庁焼打事件の被告たちの家族、徒歩にて刑務所に帰る被告を目送のため裁判所横の電柱の陰にたゝずめるに行きあひて 三句」として、次の3句を詠んだ。

○ 編笠に須臾の冬日の燃えにけり

○ 冷さの手錠にとざす腕かな

○ 凍雲や甲斐なき言をうしろ影

 こののち、石橋は1947年(昭和22年)に京都で死去した。
 これら3句は、石橋の死後1949年(昭和24年)に刊行された句文集『櫻濃く』に収録されている。
 「編笠」は、法廷で被告人がかぶせられていたものであり、また「須臾(しゅゆ)」とは、「束の間」といった意味である。


【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】            

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   ※今朝の俳句※          

 芋虫を怒らせてゐる中学生
      和田千鶴子


 和菓子屋ととてもふくよかな芋虫
      矢野千代子


 芋虫が肥えて気儘な空の艶
      飯田 龍太


【季語・解説】
※ 芋虫→柚子坊。
 太った蛾の幼虫で、芋の葉を好んで食べるので、この名がついた。
 形は蚕に似て、体長は三~六センチで、成長すると、土中で蛹(さなぎ)になり、雀蛾になる。
 口語で、つまらないもの、怒りやすい人を芋虫といった。
 揚羽蝶の幼虫は、柑橘類の葉を食べる青虫で、柚子坊といわれている。           

 「現代俳句歳時記・秋/角川春樹」より転載】             

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   ※わが友に贈る/寸鉄※

【「聖教新聞」2012年(平成24年)9月27日(木)より転載】              

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   ※わが友に贈る※                

 誉れのブロック長

 白ゆり長に心から感謝。

 皆様の奮闘こそ希望!

 ブロック長が盤石ならば

 創価城は永遠に発展!


    ☆9月27日☆          

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   ※寸 鉄※            

人類の新たな価値観築くには創価の哲学が不可欠ー言論人(アルゼンチン)。誇り高く前進



きょう「兵庫青年部の日」。常勝関西の希望の星よ!仰ぎ見る青春の金字塔を



「いよいよ信心をいたさせ給へ」。さあこれから!挑戦と向上の炎を燃やせ



「震災時、家族の集合場所決めている」5割。細かな相談も重要な災害対策



善とは正義を貫く行動の中に輝くー賢帝(アウレリウス)。青年よ破邪の言論戦で人格磨け


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