和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

福光(三十)新・人間革命

2011年10月06日 07時42分24秒 | 今日の俳句
    新・人間革命

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    福 光(三十)

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 常磐圏の指導長をしている菅田歌枝は、中通り北部の霊山村の生まれであった。


 年は県指導長の鈴村アイよりも一つ上で、入会も二年早かった。


 戦後、歌枝は、県南の小名浜にある化学工場に勤める菅田留太郎と結婚し、新婚生活はその社宅からスタートした。三人の子宝にも恵まれた。しかし、皆、病弱だった。


 ある日、妹の知り合いだという婦人たちが訪ねてきた。宗教の勧誘であった。


 姓名判断をされ、こう言われた。


 「あなたは、ご主人を亡くし、三人のお子さんも早世するでしょう」


 そして、その宗教への入会を勧められた。


 歌枝の父親は三十七歳で病死していた。子どもたちも小児喘息などの病に苦しんでいる。それだけに不安を覚え、入会した。


 道場にも通い、積極的に布教にも歩いた。 しかし、ほどなく、夫の留太郎が肺結核にかかったのである。彼女は、今度は、夫の病を治したい一心で、ますます熱心に活動を続けた。多額の布施もした。真冬の深夜に、水を被る水行もした。ところが、夫の病状は、悪化の一途をたどっていったのである。


 歌枝は、自分は騙されていたと思った。
 “もう宗教なんて、こりごりだ!”


 宗教は、人間の生き方の根本法である。もし、教えに誤りがあり、それを信じてしまえば、その影響が表れる。ゆえに、人びとの幸福を願うならば、宗教の教えについて鋭く考察し、対話を重ねていくことが大切になる。


 一九五四年(昭和二十九年)の初夏のことである。菅田留太郎と歌枝は、東京から来た青年から、創価学会の話を聞いた。


 青年は、日蓮仏法の偉大さを語り、学会の書籍を置いていった。病で苦しんでいた留太郎は、むさぼるように読んだ。そこには、宗教には高低浅深があることや、信じる対象によって、人の幸・不幸は決定づけられていくことなどが論じられていた。留太郎は、よく納得することができた。


 “よし、この仏法にかけてみよう!”


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(聖教新聞・2011/10/6)より転載」
http://m.seikyoonline.jp/top/top?t=805&sk=377037b65d04f4e970507bffe8ed9125


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