寒鴉(かんカラス)/今朝の俳句
2012年(平成24年)
11月19日(月)
※No.1107※
※今日の記念日※
■ 緑のおばさんの日。
1959(昭和34)年11月19日、通学する児童を交通事故から守るための学童擁護員(緑のおばさん)の制度がスタートした。
■ 一茶忌。
俳諧師・小林一茶の1827(文政10)年の忌日。
※ 幸福とは言えない子供時代
小林一茶は江戸時代、現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原に弥五兵衛の長男として生まれる。
本名は弥太郎といった。母・くには一茶が2歳のときに逝去してしまい、7歳の時に継母・はつを迎える。
やがて義弟・仙六が生まれると、お守りをやらされ、弟が泣く度にわざと泣かせたと、父母に杖で打たれること「日に百度、月に八千度」(父の終焉日記)だったそうだ。
13歳のとき唯一の味方であった祖母が亡くなると、継母と不仲であった一茶は江戸に出されることになる。
俳諧の世界に目覚める故郷を出されたあとの一茶の消息はほとんど伝わっていないが、江戸で一茶は俳諧の世界に目覚めていった。
25歳のとき二六庵小林竹阿に師事していたとも言われている。
29歳のとき俳諧師として芽が出始めていた一茶は14年ぶりに故郷に帰り、翌年からは俳諧の見聞を広めるため6年にも渡って京阪神・四国・九州を旅している。
このころ「たびしうゐ」や「さらば笠」を出した。
父の死と遺産相続争い一茶が再び故郷に戻るのは39歳のときで、父は重病で倒れており、最期を看取ることとなった。
父は「財産を一茶と弟たちで二分するように」と遺言を残すが、継母と弟たちが一茶に財産を分配することに反対したため、遺産相続問題は12年もの間続くことになる。
一茶は父が亡くなる前後のことや、この争いの様子を「父の終焉日記」に記録している。
一茶は江戸で俳諧の宗匠を務めつつ、継母たちと戦い、50歳のとき和解に至った。
結婚と重なる不幸、終焉遺産を分配された一茶はやっと長野に戻ることができ、その2年後、28歳のきくと結婚する。
二人の間には4人の子供が生まれたが、いずれも幼くして亡くしてしまう。
さらに追い討ちをかける様に妻・きくも痛風で逝去する。
その後、再婚するが三ヶ月で離縁となり、再々婚で3番目の妻・やをと一緒になった。
しばらくの平穏を得るが、今度は火事により家が消失してしまう。
焼け残った土蔵を仮住まいとするが、持病の発作により、そのまま一茶は65歳で逝去した。
翌年、やをが一茶の子を産み、後に一茶家を継ぐこととなる。
血は絶えなかったものの、一茶はついに我が子の成長を見守ることはできなかった。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
※今朝の俳句※
その上の枝にも冬の鴉かな
和田耕三郎
丹頂と在ればつゝしみ寒鴉
園田夢蒼花
寒鴉のりをる貨車の動き出す
木村 凍邨
【季語・解説】
※ 寒鴉→寒鴉(かんあ)・冬鴉
冬の鴉のこと。
枯れ木の枝や電線などに動かずにじっとしているさまはいかにも荒涼とした景である。
時おり嗄れた声を発し、夕暮れなどは特に侘しい姿を見せる。
【「俳句歳時記・第四版増補・冬/角川学芸出版」より転載】
※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2012年(平成24年)11月19日(月)より転載】
※わが友に贈る※
満々たる生命力で
皆を元気に。
「さあ、進もう!」と
同志が奮い立つ
万感の励ましを送れ!
☆11月19日☆
※寸 鉄※
女性が世界を変える!学会員と会って確信ー識者(イギリス)。平和建設へ時代をリード
◇
「いざという時に、人間の真価は現れる」恩師。一歩を踏み出せ!勇敢に語れ
◇
山梨青年部の日。富士を仰ぐ若人が総立ち!日本一の友情の金字塔を築け
◇
地区は広布の要。全幹部(リーダー)が最前線へ。戦いへの勢い・団結・執念を強めよ
◇
早くもインフルエンザが拡大と。手洗い、うがいの励行を。健康が勝利の基(もとい)
・'☆。.:*:...:*★:・'゜:*:゜★゜
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2012年(平成24年)
11月19日(月)
※No.1107※
※今日の記念日※
■ 緑のおばさんの日。
1959(昭和34)年11月19日、通学する児童を交通事故から守るための学童擁護員(緑のおばさん)の制度がスタートした。
■ 一茶忌。
俳諧師・小林一茶の1827(文政10)年の忌日。
※ 幸福とは言えない子供時代
小林一茶は江戸時代、現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原に弥五兵衛の長男として生まれる。
本名は弥太郎といった。母・くには一茶が2歳のときに逝去してしまい、7歳の時に継母・はつを迎える。
やがて義弟・仙六が生まれると、お守りをやらされ、弟が泣く度にわざと泣かせたと、父母に杖で打たれること「日に百度、月に八千度」(父の終焉日記)だったそうだ。
13歳のとき唯一の味方であった祖母が亡くなると、継母と不仲であった一茶は江戸に出されることになる。
俳諧の世界に目覚める故郷を出されたあとの一茶の消息はほとんど伝わっていないが、江戸で一茶は俳諧の世界に目覚めていった。
25歳のとき二六庵小林竹阿に師事していたとも言われている。
29歳のとき俳諧師として芽が出始めていた一茶は14年ぶりに故郷に帰り、翌年からは俳諧の見聞を広めるため6年にも渡って京阪神・四国・九州を旅している。
このころ「たびしうゐ」や「さらば笠」を出した。
父の死と遺産相続争い一茶が再び故郷に戻るのは39歳のときで、父は重病で倒れており、最期を看取ることとなった。
父は「財産を一茶と弟たちで二分するように」と遺言を残すが、継母と弟たちが一茶に財産を分配することに反対したため、遺産相続問題は12年もの間続くことになる。
一茶は父が亡くなる前後のことや、この争いの様子を「父の終焉日記」に記録している。
一茶は江戸で俳諧の宗匠を務めつつ、継母たちと戦い、50歳のとき和解に至った。
結婚と重なる不幸、終焉遺産を分配された一茶はやっと長野に戻ることができ、その2年後、28歳のきくと結婚する。
二人の間には4人の子供が生まれたが、いずれも幼くして亡くしてしまう。
さらに追い討ちをかける様に妻・きくも痛風で逝去する。
その後、再婚するが三ヶ月で離縁となり、再々婚で3番目の妻・やをと一緒になった。
しばらくの平穏を得るが、今度は火事により家が消失してしまう。
焼け残った土蔵を仮住まいとするが、持病の発作により、そのまま一茶は65歳で逝去した。
翌年、やをが一茶の子を産み、後に一茶家を継ぐこととなる。
血は絶えなかったものの、一茶はついに我が子の成長を見守ることはできなかった。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
※今朝の俳句※
その上の枝にも冬の鴉かな
和田耕三郎
丹頂と在ればつゝしみ寒鴉
園田夢蒼花
寒鴉のりをる貨車の動き出す
木村 凍邨
【季語・解説】
※ 寒鴉→寒鴉(かんあ)・冬鴉
冬の鴉のこと。
枯れ木の枝や電線などに動かずにじっとしているさまはいかにも荒涼とした景である。
時おり嗄れた声を発し、夕暮れなどは特に侘しい姿を見せる。
【「俳句歳時記・第四版増補・冬/角川学芸出版」より転載】
※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2012年(平成24年)11月19日(月)より転載】
※わが友に贈る※
満々たる生命力で
皆を元気に。
「さあ、進もう!」と
同志が奮い立つ
万感の励ましを送れ!
☆11月19日☆
※寸 鉄※
女性が世界を変える!学会員と会って確信ー識者(イギリス)。平和建設へ時代をリード
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「いざという時に、人間の真価は現れる」恩師。一歩を踏み出せ!勇敢に語れ
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山梨青年部の日。富士を仰ぐ若人が総立ち!日本一の友情の金字塔を築け
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地区は広布の要。全幹部(リーダー)が最前線へ。戦いへの勢い・団結・執念を強めよ
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早くもインフルエンザが拡大と。手洗い、うがいの励行を。健康が勝利の基(もとい)
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