和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心38/小説「新・人間革命」

2015年06月12日 05時44分27秒 | 今日の俳句


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月11日(木)より転載】

【革心38】


 十六日午後、訪中団一行は、梅園新村記念館を訪れた。ここは、一九四六年(昭和二十一年)五月から翌年三月まで、中国の国民党と共産党の和平交渉が行われた折、周恩来らが事務所、宿舎とした場所である。

 中国では、三七年(同十二年)に第二次国共合作が成り、抗日民族統一戦線をつくって日本と戦った。四五年(同二十年)、日本はポツダム宣言を受託し、連合国に無条件降伏し、中国は勝利を収めたのである。

 しかし、国共両党の対立は激しさを増していった。アメリカは、内戦を避け、中国に連合政府を樹立させようと、両党の仲介をした。八月末に、共産党の毛沢東、周恩来らが、国民党の政府が置かれた重慶へ行き、蒋介石と和解の話し合いを開始した。その結果、停戦協定が成立し、政治協商会議がもたれ、和平への流れが開かれたかに見えた。

 だが、その後、事態は紛糾していく。

 四六年(同二十一年)五月、国民党は政府を重慶から南京へ移す。それにともない、共産党は、南京の総政府に近い、この梅園新村に事務所を設け、周恩来が国民党との折衝にあたったのである。妻の頴超も、ここに住み、和平の道を開こうと懸命に努めた。彼女は、この時、政治協商会議の中国共産党代表七人のうち、唯一の女性であった。

 記念館には、机やソファ、ベッド、書籍などが、当時のまま保管されていた。

 展示品のなかに、赤い数個の石があった。それは、雨花台で犠牲になった、殉難者たちの、血潮に染まったものであるという。夫妻が、何度となく、激務の間を縫うようにして雨花台に足を運び、拾って持ち帰ったのだ。同志たちに、その石を見せ、尊い命を散らした先人の魂を受け継ぎ、新しい中国を築いていくように訴えてきたのである。

 殉難を恐れぬ敢闘の精神と行動があってこそ、改革は成就する。平和建設の道においても同じだ。いくら高邁な理想を口にしても、それを成し遂げる強靭な意志と具体的な実践なくしては、平和を勝ち取ることはできない。







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